愛は憎しみへ
楠木と越本は『sensibility』を出た。『sensibility』は曲がり角のすぐ近くにあった。左には書庫の扉が見える。おそらく、さっき聞こえてきた悲鳴や壁を叩く音は、右へ進み、曲がって右側の部屋から聞こえたのだろう。
越本は少し右に進んでいく。
扉の名前を見ると、『spirit』と書かれていた。これは全て島川彩希の主導の下作られた山荘である。なぜ島川彩希は各宿泊部屋に英単語の言葉を割り振ったのだろうか。何か意味があるのだろうかと考える。楠木は島川彩希という人物を知ることが、呪いを解くキーの手がかりになるかもしれないという期待もあった。しかし、すぐには思いつかない。それらの単語に何か関連性があるようにも思えない。第一、それぞれの部屋の名前を覚えていないのだ。覚えている部屋の名前も英単語で、それがどういう意味かも分からない。分からないことだらけだ。
『spirit』の部屋の電気がつき、部屋の中が見渡せるようになる。やはり見映えなく、同じ木調の一室だった。物が最小限に抑えられ、ぽつんと絵画が1つある。さっきの部屋になかった窓があるが、その窓は黒い布で塞がれて外が見えないようになっていた。また、取り外せないように四方の端いっぱいに釘で打ちつけられている。釘は錆びて壁の色とほぼ同化している。
越本は部屋の端に置かれた1つの椅子を部屋の中央に動かした。『sesibility』にあった机はなく、2脚の椅子が並べられていただけだった。越本は楠木に座るよう促した。何か企んでいるような笑みが楠木の体に拒絶するよう動かした。楠木は越本の側を通り抜け、ベッドに腰掛ける。ベッドの布団やシーツは何年もここにあったと思わせる肌触りだった。越本は肩を竦めて笑みを浮かべると、その椅子に座った。
「さて、続きを話しましょう。僕たちは高橋佑助の亡霊に誘導され、『sensibility』にやってきました。山荘から出られる鍵があると思い、部屋の中を探し回りました。そして、僕たちは数冊の黒い手帳を見つけたんです」
越本は椅子の背にだらしなくもたれて話している。その様子はどこか楽しげだ。動画に出ていた時は疲れているような素振りを見せていたが、この山荘で起こったことを語っている時だけは本当に楽しそうに話す。
だが、それはやはり悪意のようなものが根底にあった。楠木は目の前にいる越本を見つめながら改めてそう感じていた。
「手帳には、高橋佑助の生前の行動が記載されていたんです。その中に、サイトのマイページにログインするために使うと思われるIDとpasswordが書かれていました。
また、手帳に書かれているのはほとんどが仕事のことだったのに、特徴的なプライベートの記載がありました。19:30、シロマンジャロとオフ。シロマンジャロが企業名の可能性もありますが、オフという使い方はしないでしょう。僕らはこれがネット上で知り合った人と出会う予定があったと推測しました。
2人は愛し合う関係になりましたが、やがてストーカーと追われる者という歪んだ関係になった。ですが、高橋佑助は家庭を持っていたんです。島川彩希にはほんの少しの安らぎを求めていたに過ぎず、深い関係になるつもりはなかったのです。高橋佑助は自分の人生設計の一部であった家庭を壊されたことへの怒りから、つきまとってくる彼女を殺しました。
しかし、殺した島川彩希は、2年前にとっくに死んでいたんです。島川彩希は高橋佑助を恨みながら死んだ。島川彩希は、高橋佑助への恨みをブログに残して死んだんです。自殺する当日に」
楠木は眉間に皺を寄せる。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「教えてもらいましたから」
「教えてもらったって誰に?」
「いずれ分かりますよ。ま、結局呪いを解くことはできなかったんですけど」
「どういうことだ?」
越本は顎を下げ、薄く笑う。
「あなたがその証拠じゃないですか。現にあなたは、島川彩希の呪いに苦しんでいる。呪いを解けば、浄化され、現世から呪いは消滅するんです」
越本は指にできたささくれを剥がし出す。表皮がめくれ、薄い赤の肉が露わになる。極めて小さなささくれを指から分離させると、床に捨てる。指を確認し、またささくれを見つけて剥がしていく。
「高橋佑助も日記を書いてました。島川彩希への不満を。おそらく、島川彩希と仲が良かった頃は高橋佑助もネットで日記を書いていた。同じサイトかは分かりませんが、高橋佑助の手帳には、ネットを使っていた痕跡が残っています。
きっと、ネットには載せられない事情があったんでしょう。奥さんとか、その知人にも見られる可能性もあります。それで色々と詮索されて、憶測だけが出回ると、余計話がややこしくなりますから。高橋佑助は、奥さんとよりを戻したかったようですし。
どういう条件で呪いがかかったのか、僕らには断定できませんが、仲の良かった2人は記録を残していた。最初はそれが"愛の記録"でしたが、いつしか"愛憎の記録"に変わったんです。お互いに憎んだ記録が呪いの発動条件だった。僕らはそう見立てたんです」
指にあったささくれを剥がし終えた越本。指先からじわりと血が出てくる。だが、越本は血を止めるどころか、血を出そうと指を揉んでいる。血は指を伝って手の甲へ流れていく。深く剥がれてしまったところもあるようで、血はとめどなく出ている。
越本は引いている楠木に構うことなく、淡々と話を続ける。
「僕らは愛憎の記録を消してしまえばいいと思いました。ですが、100年以上前のサイトが今も残っているとは思えません。ならば、高橋佑助の本を燃やしてしまえばいいと白川が言った時でした。宮橋が『安西は?』と言ったんです。周りを見回しても、安西はどこにもいませんでした。
僕らは手帳のことに気を取られて、安西がいなくなったことに気づかなかったようでした。僕らは安西を探しに部屋を出ました。廊下にも安西の姿はありません。僕らは宿泊部屋を全て確認していきました。
すると、1つの部屋だけ開かなかったんです。内側から鍵がかけられているようでした。ドアのプレートには、『spirit』と部屋の名前が書かれていました。僕はドアを叩いて呼びかけました。僕らは安西が危ないんじゃないかと思い、必死に呼びましたが、応答はありません。
1人で行動することに一番警戒していたのが安西でした。それが僕には引っかかっていたのもあり、ドアを叩く回数が増えていくごとに不安は募っていきました。
僕と宮橋はドアを突き破ることにしました。2人で何度もドアに突進します。3回目でドアが壊れ、僕らは勢い余って倒れてしまいました。部屋の中に視線を向けると、ドアに背を向け、ベッドに腰掛ける安西がいたんです」
楠木は足に何か触れたような気がして咄嗟に視線を下に向けた。ベッドの下には特別変わった物はない。茶系のフローリングがあるだけだったが、ベッド下の隙間は光りが遮られて暗がりが広がっている。ベッドの下に何かいるかもと、恐怖の妄想が過る。
すると、越本の笑い声がした。楠木が視線を上げると、越本は血に濡れた指先で楠木を差して笑っていた。
「刑事さんもさすがに幽霊にはビビりますか。こんなに血が出ていてもビビらないのにねぇ」
越本は真っ赤になった自分の手をまじまじと見ながら挑発するように言う。
「刑事さんは見慣れてるからか」
「安西がいてどうなったんだ」
苛立ちつつ話の続きを促す。ほくそ笑んだ越本は、楠木に自分の行動を見てほしいかのように視線を投げかけながら自分の手についた血を舐める。目尻に皺を寄せ、肩を揺らす。
こんな無駄な時間に付き合わなければならないのかと、楠木はつくづく嫌気が差す。
「白川は安西に声をかけました。ですが、安西は白川の呼びかけを無視し、鼻歌を歌っていたんです。僕と宮橋も安西を呼びましたが、こちらを向かず、壁に向かって鼻歌を歌い続けていました。安西の様子がおかしいと思い、僕らは近づけませんでした。
どうしようかと、僕らは顔を見合わせました。僕らが困っていると、安西が手を挙げたんです。挙げた片手には火かき棒が握られていました。何でそんなものを持っているのか疑問を浮かべた時、安西はそれを振り下ろしたんです。ドンっと大きな音が鳴って、僕らは意図の分からない行動をする安西に呆然とするしかありませんでした。一方、安西は鼻歌をやめ、振り下ろした火かき棒を握ったまま固まっていました」
やっと楠木が越本の話に集中できていた時、突然ベッドが少し沈んだ。不自然なベッドの軋みが楠木の目を後ろに振らせた。
楠木の目に人の手が映った。整えられた綺麗な爪をした女性の手。その手に鉄の棒が握られている。後ろに人がいたことに驚いた楠木は、立ち上がった拍子に楠木の後ろに現れた人を直視する。
艶のある栗色の髪から覗く白い首。薄い赤のカーディガンを身に纏い、華奢な肩幅が女性らしく映った。
写真で見たことのあるだけだが、後ろ姿でもそれが誰かを悟った。
「安西、美織?」
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