親友
越本は、毛玉が目立つ白のパーカーのポケットに手を入れる。ほんの少しだが、寒さを感じる。3月の気候でもまだ寒さは衰えていない。だが、この寒さは単純な寒さだけではないと感じた。
「取り乱した安西は明らかに島川彩希の影響を受けていました。鉄の火かき棒を振り回す安西から逃げ、部屋に隠れたんです。
おとりになった宮橋和徳のおかげで、僕と白川琴葉が見つかることはありませんでした。部屋からいなくなった宮橋を探しに1階へ下りると、リビングで横たわる安西がいました。側で倒れた安西を見下ろす宮橋と合流し、武器となってしまった火かき棒をベランダの窓から捨てました。
そこで、僕は気づいたんです。ここから出られるかもしれない。僕はそう呟きました」
越本は突然立ち上がった。いきなり立ち上がった越本に怯えた表情をする楠木。また越本がビビる楠木を嘲笑うと思っていたが、予想に反して越本は無表情でベッドのシーツを剥ぐ。すると、越本は楠木にシーツを投げた。反射的に取った楠木は目で問いかける。
「手、拭いたらどうですか?」
「……ああ」
楠木は越本の言動に違和感を覚えつつ、手に持っていた銃をしまって赤くなっている手を拭く。越本は水色の布団の上に腰掛ける。
「宮橋は『どうやって?』と尋ねました。僕は、島川彩希の影響は限定的だと思ったんです。
島川彩希が殺した場所は山荘に続く道中と、山荘の2階の宿泊部屋でした。宮橋は呆れたと言わんばかりに僕の推測を否定しました。殺された場所がたまたまそこだっただけのことだと。
ですが、僕は島川彩希がこの山荘の外を回っていた時のことが気になっていました。あの時、島川彩希にはすぐに僕たちを殺すことができた。それをしなかったのは、島川彩希の力が全ての場において働くわけじゃないことを示しています。島川彩希は外から壁を通過して部屋に入ることもできたはずです。三嶌璃菜の時は、内部に入って殺している。
僕は自信を持って説得しましたが、だったら壁もない外は危険過ぎると、宮橋は引かなかったんです。どこまで島川彩希の力が影響しているのか、僕たちに見えない。それを把握する術もありません。
僕は意を決して言いました。
『僕が先に山荘を出る』
宮橋と白川は追い込まれてやけになったと思ったようで、そんなことさせられないと引き留めたんです。
しかし、三嶌璃菜が殺され、安西美織が島川彩希に操られたという事実があります。宮橋の言うように、島川彩希が行動を起こした場所がたまたまその場所だったらとするなら、ここも危ないはずでした。だったら、わずかな希望に賭けて逃げた方がいいと思ったんです。2人は悩んでいましたが、覚悟を決めてくれました」
楠木は誰かに見られている気がして、視線を右に向ける。部屋の隅でじっと楠木を見ている白いワンピースの女性がいた。島川彩希だ。
楠木は赤い瞳で見つめてくる島川を確認し、腰を浮かす。
「大丈夫です。彼女には手を出さないように言ってます」
「信じろと?」
楠木は椅子から離れ、島川から一定の距離を取る。越本は乾いた笑みで「お好きにどうぞ」と言う。
楠木は視界の端に島川を入れ、越本に話を促す。
「僕はすぐに山荘を出ようと促しました。白川は安西を起こそうとしましたが、宮橋は先に安西の分も含めて荷物をまとめてくるように言ったのです。僕は慌てて一緒に行くと言いました。
すると、白川は思い出したように『あ!』と零しました。1人で行動すれば、島川彩希に殺られる可能性もあり、今まで単独行動は控えようとなっていたんです。絶望的な状況から抜け出す手段に打って出ることで、期待が先行したんでしょう。軽率な行動をしかけた白川は、小さく『ごめん』と謝りました。
僕は安堵し、宮橋に『安西を任せていいか?』と尋ねたら力強く頷きました。僕と白川は白川の荷物のある部屋、『embody』に向かったのです。
荷物はできるだけ少なくしようとの宮橋の助言もあり、持ってきていた服の大半は置いて行くことにしました。次に安西の荷物、僕の荷物を持って、僕らは1階へ戻ったんです。ですが、宮橋と安西の姿はありませんでした」
楠木はボーっと突っ立っている島川彩希に視線を向ける。島川は微動だにしていなかった。楠木をじっと見ているだけ。楠木は島川が何か訴えてきているようにも見えた。しかし、それが何なのかは分からない。
「僕は宮橋を呼びながら1階を探しましたが、どこにもいませんでした。その代わり、あることに気づいたんです。玄関に、靴がなかったんです」
「靴?」
「宮橋と、安西の……。僕は2人が山荘を出たと思いました。ですが、なぜ荷物も持たずに出たのか、胸騒ぎを覚えずにはいられませんでした。
すると、甲高い電子音が鳴ったんです。それは白川のつけていた腕時計型の無線機からでした。白川は僕にアイコンタクトを送り、不安そうな顔で繋ぎました。
聞こえてきた声は宮橋のものでした。宮橋と安西は島川彩希に襲われたんです。逃げ出すために、山荘を出たようでした。宮橋は、『印をつけておくから』と落葉樹林の幹に傷をつけて、逃げた道を示していると伝えたんです。『荷物は?』と僕は尋ねましたが、諦めたようでした。とりあえず、安西のものだけ持って出てくれと言い、無線は切れました。
僕は白川と山荘を出ます。昨晩降った雪はもう溶けていました。まだ昼なのに、地面に雪の形跡はなくなっていたんです。雪がない方が逃げやすかったですが、今思えば、昨晩見た外の景色は現実ではなかったんでしょう。
僕と白川は急いで山荘の周りに生えている木々を注意して見ていきます。宮橋が山荘から公道へ続く道を使わなかったのは、島川彩希が自分たちを殺せる場所が道中にあるからです。僕もそのつもりでした。そして、落葉樹林の中を進むなら、足場が安定し、かつ山荘から公道へ続く道から遠い場所を選ぶ。
白川が僕を呼びました。白川が幹についた傷を見つけたんです。傷は奥の木にもありました。僕と白川は傷ついた木を辿って、森を進んでいきます」
越本は神妙な顔をして俯く。
「僕らは森の中を駆けていきました。ですが、途中で傷のある木が見当たらなくなってしまったんです。無線機で安西の無線機に連絡を取ってみましたが、応答はありません。僕は仕方ないと思い、自分たちで山を下りようと白川に言いました。
それから10分後、水の音が聞こえてきたんです。音の発生源を辿っていくと、地面を裂いたようにできた窪みの筋を通って、水が流れていました。水の流れは地中から顔を出した岩と岩の間をすり抜け、段々幅が広がって浅い川のようになっています。
僕らは心地良い水の音に聞き入ってしまいました。久しぶりに落ち着ける空間に入ったことで、僕たちは気が抜けていたんです。その時、僕の頭にガツンと重い衝撃が走ったんです。僕は倒れ、沢の中に落ちました。白川の不穏な声を聞きましたが、僕は意識を失ってしまいました」
楠木はもうどうでもよかった。誰が犯人とか、30年も経ち、時効になった被害者の大学生がどうなったとか、興味がなかった。とにかく、この目の前にいる呪いを消したい。そして、呪いの呪縛から解放され、生き残る。
楠木は隙を見せている越本を殺したい衝動に駆られる。だが、家族のためにも殺人を犯すわけにはいかない。胸を張って、自分は早弥子の夫であり、娘の親でいたいから。
「僕は冷たい感覚に目を覚ましました。僕は浅瀬で倒れていました。ズキンとする頭を押さえ、体を起こします。側頭部からは血が出ていました。
僕は白川の姿がないことに気づき、白川を大声で呼びました。ですが、白川が応えることはありません。僕は側に横たわる自分の荷物と安西の荷物を取り、沢の流れる方向に歩き出しました。沢を辿っていけば、林の中を抜けられると思ったんです。
疲弊した体力と不眠状態にあった僕の息は荒くなり、足も注意して踏んばっていないと、また倒れてしまいそうでした。具合も悪くなり、体の部位という部位が悲鳴を上げていた。服も濡れ、体も重い。もはや白川の心配をする余裕もありませんでした。
ずっと歩いていくと、流れの鈍い大きな川に行きついたんです。水が透き通って川の底が見えていました。川と支流になる沢の境界は小さな段差がありました。そこに、清流には似つかわしくないものがあったんです。段差にもたれ、水に浸かっている人でした。両手を広げ、空を覆い被さろうとする葉の数々を仰いでいたんです。
僕はゆっくり近づいていきます。嘘であってほしいと願っていました。だけど、見れば見るほどそうだと思えたんです。ファーのついた白のコート、ブラウンのパンツ。その景色を見る瞳に、生気はなかったことでしょう。なぜなら白川の腹には、木の棒が刺さっていたから。
誰も助からない。安西も、宮橋も殺されてしまっている。必死に立っていた足から力が抜け、膝をつきました。ぼやけていく世界は網膜に熱く焼き付いていく。抗うことに疲れた僕は、ゆっくりと迫る足音を聞きました。後ろを向いた僕は、大きな石を振り上げた宮橋和徳の姿を最期に、死んだんです」
越本は全てを話し終えたように息を大きく吐き、立ち上がった。窓に近づき、雨がやんでいる外の景色に目を向ける。
楠木は思ってもみなかった話に動揺し、口がついて出た。
「お前は、殺されたのか? 宮橋和徳に」
越本は振り向き、真顔で「はい」と答えた。これまでのことを振り返っても、説明がつかないことが山ほどあるような気がする。楠木は何から考えていいのやら分からなくなる。
そんな楠木の様子に対して、越本はやりきったと言わんばかりに安堵の笑みを浮かべる。
「30年、長かったぁ……」
「お前は、どうやってあの動画を作ったって言うんだ。お前が自分で作ったんだろ?」
すると、越本は不敵な笑みを見せて楠木に近づく。
「ええ。僕が作りましたよ」
越本は楠木の前でポケットから出した携帯を見せる。画面の端は割れていたが、使えないことはないと思う。ゴールドの携帯は少し古い型のようだが、どこかで見覚えのある携帯だった。もっと、昔の……。
「これ1つあれば、霊体でも作ることができる。物を操作するコツとか、画面上にはっきり姿が映るようにすることとか、色々大変でしたよ。でも、協力者がいたから」
越本はずっと隅で突っ立っている島川彩希を見つめる。
「契約したんです。僕と彼女は」
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