過去の呪い

「宮橋は薪を持って何事もなく戻ってきてくれました。経済情報雑誌やノートに火をつけ、薪に火が移るのを見守っていました。

僕は暖炉の中で小さく灯る火を見て虚しかったです。ここではつくのに、2階で火をつけようとした時は邪魔されてしまう。僕らは島川に監視され続けている。この状況を打破するには、彼女の目を掻い潜る必要がありました。

できそうな気もしましたが、その時の僕らに、それを実行する気力はありませんでした」


 越本は淡々とあの日の出来事を語っていく。楠木の後ろにある暖炉の火の音はBGMとなって、まるであの日の再現を思い描きやすくしているような意図を感じた。


「僕は宮橋に先に寝てもらおうと声をかけました。宮橋は一度断りましたが、安西と白川で見張りは無理があると説得したんです。宮橋は納得し、ジャンパーを掛け布団にして、カーペットの上に寝転ぶと、『何かあったら起こしてくれ』と僕と安西に目配せして、眠りに入りました。

夜も更け、気温がぐんと下がっていきます。外では雪がちらついて、唸るように空が鳴いていました。

僕は窓の外へ視線を向けました。ベランダの床にうっすらと細かい結晶の雪が積もっていました。これから荒れると思っていましたが、そこに残念な気持ちはありません。外に出られないと分かった今、僕らが天候を気にする必要はないんです。僕は途方に暮れるように、雪と暖炉の火を交互に見ては無意味な時間を過ごしていきました。

すると、安西がぽつりと呟くように言ったんです。

『私たち、ただ泊まってただけなのに』

僕たちは島川彩希の霊を怒らせるようなことをした。この山荘に入ったことでしょう。愛した男と過ごした思い出の山荘に、何も知らない若者たちがでかい顔して入ってきやがった。理不尽で身勝手な理由ですが、そうなのかもしれません」


「ちょっと待て」


「なんですか?」


「あ、いや……」


楠木は戸惑いを見せたが、自信なさげに口を開く。


「だとしたら、もっと早く君たちを殺していたんじゃないか? 例えば、山口春陽と安西美織が山荘を出る頃とか」


 越本は楠木から視線を外し、考え込む。楠木は自分が発したことを呑み込み、頭の中で討議をかけるも、霊の思考なんて分かるはずもないし、島川彩希しまかわさきのことを知らない。


島川彩希。彼女は一体何者だったんだろうか。


楠木はふと湧いた疑問に引っかかる。


「確かにそうですね」


越本はゆっくりと言葉を漏らす。

笑みを浮かべ、「さすが刑事さんですね」と言い放つ。楠木はどう反応すればいいのか分からず、自分の思ったことを述べる。


「最初に殺されたのは火野翔馬。次に山口春陽。そして三嶌璃菜。この3人に共通していることはなんだ?」


刑事デカクイズですか?」


嘲笑する越本。


「分からないのか?」


楠木は負けじと挑発する。越本から笑みが消え、嘆息した。革製の赤いソファの座面で折り立てた越本の脚が左右に揺れる。イライラしていると言うより、素直に考えているように見えた。


「火野翔馬を陥れる計画のターゲットと実行役、ですか?」


楠木は首肯する。


「島川彩希はお前たちの話を聞いていた。計画のことも、火野翔馬が犯した罪も。火野翔馬は山荘の元家主と同じことをしていたんだろう。島川彩希は、自分を殺した男と同じことをしていた火野翔馬が許せなかった。だから殺した」


「じゃあ、なんで山口と三嶌まで」


越本の声色が変わった。不満げに顔をしかめ、楠木に惜しげもなく伝えてくる。


「それは分からない。何か目的があるはずだ。島川彩希がやろうとしていることが」


 鳥山と蓮口の死体が記憶から呼び覚まされる。楠木は怒りを押し殺して、胡坐をかいた脚の上にある手を強く握りしめる。

越本はソファから脚を下ろす。


「……とりあえず、続きを話します。僕は安西の独り言を聞き、僕たちを殺そうとしている霊について、1人考え込んでいました。どうなるわけでもありませんが、無駄な時間を過ごすよりはマシだと思ったんです。宮橋はなかなか寝付けないようで、何度も寝返りをしていました。

その時、僕の目に入ってきました。キッチンカウンターに置かれた元家主の日記です。僕は日記に手を伸ばし、もう一度日記を読んでみました。全て読み終えていましたが、何か見落としていなかったかと、わずかな希望に賭けたんです」


突然の大きな音。ステンレスを打つ水の音が鳴っている。何事かと聞こえてくるキッチンへ視線を向ける。蛇口から全開で水が出ていた。水は濁りのある血の色をしていた。

やかましい音を止めたかったが、あまり近づきたくない。血にしか見えない物が出ているところにわざわざ行く必要もないだろう。

越本は死んだ目をしてキッチンの方を見ている。驚きもしなければ、抗うわけでもない。日常茶飯事と言わんばかりに素っ気ない態度だ。越本は楠木に視線を移し、ニヤリと笑う。


「気になりますか?」


「当たり前だろ」


「何もありませんよ。ただ様子を見にきているだけですから」


「島川彩希?」


「さあ、どうでしょう」


 怖がる楠木の様子を楽しんでいる越本。楠木は冷静になろうと深く呼吸する。

たとえ島川彩希だったとしても、ここは夢の中。殺される悪夢を見るだけだ。だが、その後目を覚ます保証はない。夢の中でも生きなければならないのだろうか。夢の中なら、対抗することもできるかもしれない。とりとめもない思考が巡る。震える手。顎の付け根の上でぽつぽつと生えている横髪が汗ばみ、水滴が伝っていく。


「続けてもいいですか?」


「……ああ」


越本は鼻で笑い、蔑んだ目で楠木を見ながら語る。


「元家主の日記は、島川彩希がうとましい関係になった頃から書かれていました。彼は殺され、日記は閉じられました。ここで僕は疑問に思ったんです。なぜ彼は日記を書いたのか。

日記を書いてることが珍しいとは思いませんでしたが、彼が書き始めたのは島川彩希との関係がこじれてからです。僕にはこれが偶然だとは思えませんでした。

僕は言い知れぬ気配を感じ、視線を振りました。階段の側に立つ人です。深い茶色の靴下が淡い黄緑色の長ズボンの下から覗いていました。僕が視線を上げると、細身の男性は、階段の上を指で差していたんです。

僕は思わず固まってしまいました。安西は小さく声を上げました。安西も突然現れた男性に気づいたんです。男性は僕がいた暖炉の前からちょうど横顔が見える位置でした。しかし、なぜか男性の顔は見えません。でも、僕には誰だか分かりました。この山荘の元家主、高橋佑助たかはしゆうすけです。

男性はゆっくり透明になって、消えてしまいました。何かのメッセージかもしれない。僕は居ても立ってもいられませんでしたが、1人で行くのが怖くてすぐに動けなかったんです。安西と話し合い、2人が起きたらみんなで行こうと打ち合わました」


 越本は膝の上から落ちてソファに寝転がっているペットボトルを取り、口に水分を含む。楠木もカラカラになった口の中を潤したくなる。ローテーブルに置かれるマグカップに入ったコーヒーを見るが、ためらいが起こる。これを飲んでも大丈夫だろうか。警戒してしまう。


「安心して下さい。毒なんかでわざわざ殺したりしませんよ」


見透かすように越本が吐き捨てる。

楠木はマグカップを取り、恐る恐るコーヒーを口にした。口の中に広がる苦味や鼻に通り抜けるコーヒー豆の香りが落ち着かせてくれる。

越本は目線を落とす。肌に浮き出る喉仏が動き、薄い唇が続きを紡ぐ。


「夜明けが近づいた頃です。宮橋と白川が目を覚まし、2人に僕と安西が見たことを話しました。寝起きで頭が回らない状況ながらも理解しようとしてくれていたと思います。白川も寝たことで多少落ち着きを取り戻したようでした。いつもと、というわけにはいかなかったと思いますが、自分の知っている白川がそこにいるような気がして、自然と安心感が込み上げてきました。

2人は、それでここから出られるなら、と納得してくれ、僕らは2階へ上がりました。

静まり返った2階の廊下は薔薇の都をイメージした赤茶色の壁に挟まれています。ぼんやりと照らされる廊下は霞んでいるような光が恐怖を引き立てていました。

階段を上がって角を曲がると、1つの部屋のドアだけが開いたままになっていました。三嶌璃菜の遺体がある『juncture』です。そこはできるだけ通りたくなかったのですが、廊下の奥に高橋佑助が立っていました。僕らは尻込みをしたくなりましたが、僕が先に立って進んだんです。男気を見せようと思ったわけじゃありません。高橋佑助が示す場所に、山荘から抜け出すヒントがあると思ったからです。この死の連鎖から逃れたい一心だったんです。

僕は部屋の中を見ないようにして、ドアを閉めました。高橋は消えていましたが、高橋がいた突き当たりまで進みました。左へ向いた時、高橋は1つの部屋に入って行ったんです。ドアをすり抜けて」


すると、キッチンから聞こえていた水の音が止まった。楠木はキッチンに視線を向けた。その時、入ってきたのはキッチンじゃない。人の顔だ。血を被った三嶌璃菜が、楠木の顔の近くで無表情のまま見つめていた。

ヴィヴィヴィとラジオから流れてくる大きな雑音が入ってくる。三嶌の顔が2秒という時間の間に消えたり、現れたりする。耳障りな雑音も三嶌の姿に合わせて途切れ途切れになっていく。わずか2秒という間に、楠木の視界は暗転した。



 楠木は恐怖から反射的に目をぱっくり開く。薄暗さの中に映る白い天井。穏やかな音楽が耳をくすぐる。顔を前に戻すと、テレビは世界中の自然の景色を空撮した映像に切り替わっていた。

大きな吐息を漏らし、体勢を直す。無理な体勢で寝ていたため、体の節々が痛い。寝たはずなのに余計疲れた感覚があった。

楠木はテレビを消して、寝室へ向かう。パジャマに着替え、妻が寝ている隣に入る。体は疲れているのに、目は冴えている。きっと今日は眠れない。

楠木は、仕事の時間まで体だけでも疲れを取ろうと、そのまま横になっていることにした。

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