龍馬、立つ!
王政復古のクーデーター
◇◇
慶応三年(一八六七年)一二月九日――
蝦夷の地に坂本龍馬が降り立った翌日。遠く離れた京では歴史的な大事件が起こった。
それは、後世に『王政復古のクーデター』と呼ばれるものであった。
――門を閉めよ! 何人たりとも中に入れてはならぬ!!
まだ朝日が地平線から顔を出す前にも関わらず、京の御所周辺はものものしい雰囲気に包まれていた。
なんと薩摩藩などの兵たちが九ヶ所ある御門を全て封鎖してしまったのだ。
そして朝日がようやく上り出した頃……。
ついに『王政復古の大号令』が発せられた――
『天皇を中心とした新しい政府設立』を、明治天皇が臨席された中で岩倉具視らが高らかと宣言したのだった。
これにより正式に『幕府の解体』『徳川家の将軍職剥奪』が決まり、新たな政府として『三職』が定められた。
『三職』とは『総裁』『議定』『参与』の三つの職のことで、それらの頂点に『天皇』がおかれた。
しかし、実際は『総裁』以下の『三職』によって政治が執り行われることになったのである。
もちろんその中に『徳川慶喜』の名はない。
『総裁』には有栖川宮熾仁親王、『議定』には倒幕の中心となった五藩(薩摩、土佐、越前、尾張、芸州)の藩主に加えて、皇族と公家の人々が任じられた。そして『参与』の中に、岩倉具視、西郷吉之助、大久保一蔵、後藤象二郎らの名が並べられたのだった。
まさに電光石火のクーデターに、将軍徳川慶喜はなすすべがなかった。
しかし岩倉具視と大久保一蔵による政変はこれにとどまらなかった。
「ここで徳川を徹底的に叩かねば、必ずや禍根となろう!」
と、岩倉具視は周囲にもらすと、明治天皇を伴って、御所内の集会所である『小御所』に移った。
そして早速『三職会議』を開いたのである。
後世に言う『小御所会議』であった。
ここでの議題は『徳川の処分』ただ一つ。
つまり『徳川慶喜の辞官』と『徳川家の領地返納』であった。
つまり徳川家の完全な解体を、岩倉具視は目論んだのだった。
しかし、岩倉案に強く反対したのは『議定』の一人、土佐藩藩主の山内容堂であった。
「はて……? 肝心の慶喜公がおられないのでは、申開きをお伺いすることはできぬではありませんか」
「そんなものを聞く必要もなかろう。慶喜公の兵庫港開港の際の振る舞いを見れば、引き続き政権を我が物にしようと企んでいるのは一目瞭然。ならば陛下に忠誠を誓うことなど毛頭考えておらぬに決まっておる!」
「はて……? どうしてそのように決めつけられるのか? そもそもまだ幼い陛下を担ぎ上げて、政権を我が物にしようとしているのは、岩倉殿も同じなのでは?」
「山内殿! 陛下を『幼い』と評するとはなにごとか!!」
「これはあい申し訳ございませんでした。相変わらず、人の揚げ足を取られるのが、お上手な方だ」
一方的に押し込む岩倉に対して、のらりくらりとかわす容堂。
なお土佐藩主、山内容堂が岩倉具視の意見に反対していたのは、れっきとした理由があった。
それは彼が『新政府』の形として、徳川慶喜を中心とした体制作りを目標としていたからだ。
衰えたとはいえ、徳川将軍家は、二六〇年もの長い間、武家の棟梁として日本を引っ張ってきた実績がある。そしてその間に脈々と受け継がれてきた『統率者の遺伝子』が徳川慶喜の体にも確かに存在しているのだ。
今、その遺伝子を無視して、実績のない者同士で『新政府』を形成しても、必ずや後に破たんをきたすであろう。
そう彼はふんでいた。
そしてそれは彼だけではなく『議定』に任じられた五藩の藩主のうち、越前の松平春嶽、尾張の徳川慶勝もまた同様であった。皇族および公家の『議定』たちは中立的な立場をとる中、過半数の『議定』が『徳川慶喜擁護』に回ったのだから、容堂が強気になるのも当然と言えよう。
議論は平行線をたどる中、徐々に山内が主導権を握り始めたところで、岩倉はたまらず休憩を申し出た。
そしてそれまで沈黙を貫いていた西郷吉之助のもとへと助言を求めにいったのだった。
「のう西郷殿。旗色が悪いのう。わしはどうしたらよいかね?」
すがるような目で西郷を見た岩倉。だが、西郷はゆっくりと首を横に振った。
「それがしは一介の藩士に過ぎぬ身ならば、畏れ多くも山内様や松平様に意見など申し上げられませぬ」
これまで倒幕を実現するまで引っ張ってきた西郷に一縷の望みを託した岩倉であったが、見事にあてが外れると、がくりと肩を落とした。
――そろそろ休憩も終わりにいたしましょう!
と、誰ともなく告げられると、小御所の敷地内に散り散りになって休んでいた面々が、続々と部屋に戻ってきた。
このまま、圧倒的に不利な戦いに臨まねばならぬのか……。
岩倉の心が折れかけたその時だった。
――すっ……。
と、彼の前に一本の短刀が差し出されたのである。
岩倉は急いで顔を上げると、短刀を差し出してきた男の顔を見た。
そこには口をへの字に曲げて、顔を真っ赤に染めた西郷の鬼のような形相があった。
そして西郷は部屋中に響き渡る大声で言ったのだった。
「おいは口は出せんが、こいを出すことはできもす!」
それは明らかな『脅し』であった。
つまり『会議が不調に終われば、武力をもって土佐、越前のひざを曲げさせるつもりだ』という不退転の覚悟を示すものだったのだ。
これを目にした土佐藩士、後藤象二郎はさっと顔色を青くすると、藩主の山内容堂にこっそりと耳打ちをした。
「殿。ここは妥協点を探るのが得策かと……」
「うむ。野生の虎をまともに相手しても、余計な血が流れるだけだからのう」
「はい。ここは大人しく引きましょう」
「うむ。そして虎に縄をかけた後に、ゆっくりとわしらの望みどおりに進めるとしようかのう」
「御意。では、松平春嶽様らにはそれがしから殿の御意向をお伝えいたします」
山内容堂がゆっくりとうなずくと、後藤は素早く席を離れた。
そして議論再開が宣言される寸前に、岩倉案に反対していた『議定』たちに対して、容堂の意向を伝えたのだった。
こうして、かたくなに反対していた山内容堂が折れたことで、議論は一気に収束へと傾いていった。
ただし、『勅命(天皇陛下の御命令)による辞官と領地返納ではなく、慶喜が自主的に行う』、『領地は四〇〇万石全てではなく、半分の二〇〇万石を返納する』という妥協を容堂らはこぎつけたのだった。
◇◇
一方、徳川慶喜は、『王政復古の大号令』と自身の処分を耳にして、一つの『決断』をついにくだした。
「もうわれはこりごりじゃ。このままでは京も江戸も血に染まろう。そうなってはますますイギリスやフランスの思惑通りではないか。ついては、われは自ら身を引くことにする!」
この『決断』に、彼の側で長く支えてきた大久保忠寛は、感極まって涙を流した。
「おお。上様が初めて将軍らしく見えましたぞ」
「おいっ! 忠寛! われはもう将軍はやめにするのじゃ! なのに、今になって『将軍らしい』とはなにごとじゃ!」
そう口を尖らせた慶喜を、家老たちは柔らかな微笑みをもって見つめていた。
みな胸のうちには「これでようやく肩の荷がおりる」と、ほっとしていたのである。
しかし……。
この決定に納得のいかぬ者たちもいた。
それは榎本武揚、そしてもう一人は小栗忠順(おぐりただまさ)であった。
小栗忠順は、世界一周を果たした知見の広さと、卓越した実務遂行力を兼ね揃えた逸材で、その類稀なる能力をかわれて、幕府の財政や事業の多くを任されていた。
つまり榎本も小栗も『世がよく見える男』だったのだ。
そんな彼らが危惧していたのは、徳川家が倒れることによって八万はいると言われている武士たちが路頭に迷ってしまうのではないかという点であった。
「権力と銭のことしか頭にない者どもが、愚かにも自分たちが日本を率いていると勘違いしている。いかに天下が乱れようとも、愚直に公務にあたっている人々こそが日本の今も未来も作っているのだ。それがしは国がやぶれ、この身が倒れるまで、そんな人々とともに公務にあたろう。それこそが真の武士である」
小栗忠順は、大久保忠寛にそう告げると、静かにその場を去っていった。
そして榎本武揚もまた、二条城を離れて大阪湾にある軍艦へと戻っていったのであった。
そんな彼らの様子を寂しそうに眺めていた慶喜であったが、ぐっと腹に力をこめると、凛とした声で告げた。
「頭の固い者たちなど放っておけ! われはこれより二条城を出て、大坂城へ移る! なんとしても戦だけは避けるのじゃ!」
慶喜の頭の中は、もはや『戦争回避』の一点に絞られていた。
しかし皮肉にもこの彼の決断が、戦争の火ぶたを切って落とすことになる。
それは後世になって『鳥羽・伏見の戦い』と呼ばれる一戦の始まりを意味していたのであった――
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