開戦

◇◇


 慶応三年(一八六七年)一二月一六日――

 『小御所会議』の決定を伝えに、慶喜のもとへ訪れた越前藩主、松平春嶽に対して、慶喜が礼を尽くして迎え入れた様子が、情勢を見守っていた諸藩の藩主たちに伝えられた。

 その報告を耳にした山内容堂は、ニタリと口角を上げた。

 

「風向きが変わったようじゃのう……さてと……行くか」

「どこへ行くのでしょう」


 彼の側で仕えている後藤象二郎がたずねると、容堂は鋭い眼光を虚空に向けて言った。

 

「岩倉と薩摩、そして長州……少し調子に乗りすぎたようじゃのう」

「まさか……」

「まずは岩倉具視。あの御方にはやはり『寺』が似合う」


 つい先月まで岩倉具視が『寺』で謹慎処分にされていたのは記憶に新しい。

 容堂の言葉には、再び岩倉を封じ込めてしまおうという意図がありありと映されていたことに、後藤象二郎はごくりと唾を飲み込んだ。

 

――殿は恐ろしい御方だ……。


 彼は背中に冷や汗をかきながら、容堂の後ろを黙ってついていくより他なかったのだった――

 

 

 それからの情勢は、容堂の読み通りに『風向き』が変わった。

 あまりに痛々しい慶喜に、諸藩の藩主たちが同情し始めたのである。

 そして、彼らは兵を率いて、慶喜が移った大坂城へと集結してきたのだった。

 

「なんじゃ!? どうしたのじゃ!」


 大坂城の天守から城下の様子を眺めていた慶喜は腰を抜かした。

 家老の大久保忠寛は彼の背中を支えながら、興奮を抑えきれぬ様子で言った。

 

「ほほほっ。ついに上様が『将軍』として認められた、という証でございましょう」

「ば、ばかものぉ! われは将軍を辞すると決めたのじゃ! なのになんで今さら……」

「これはひょっとすると、ひょっとしますぞ」


 大坂城に集まった兵はおよそ一五〇〇〇にもおよんだ。

 それは薩長を中心とした新政府軍の五〇〇〇の三倍にもあたる兵力だった。

 しかもその中には、天下無双の『新撰組』もあれば、無敵戦艦『開陽丸』を率いる榎本武揚もいるのだ。

 いかに薩長強しと言えども、一戦交えれば、旧幕府側が圧倒的に有利なのは、火を見るより明らかであった。

 

 情勢が傾けば、すり寄ってくる者たちも現れるのは当然と言えよう。

 続いて大坂城の慶喜を訪問し始めたのは、諸外国の外交官たちだった。

 彼らは『引き続き日本のリーダーは徳川慶喜公である』と公式に認めた。

 

 こうして慶喜の『戦争回避』の行動は、かえって彼の本来の実力を世に知らしめる結果となったのだった。

 

 そしてこの瞬間を待ち望んでいた者が、疾風のごとく動いた……。

 

 それは、山内容堂であった――

 

 なんと彼は岩倉具視らを抜きにして『三職会議』を開き、徳川慶喜および徳川家に対する処分の軽減を決定したのである。

 これにより完全に『小御所会議』の決定は骨抜きとなり、岩倉具視は失脚への道を突き進み始めたのだった――

 

 

 ……かに見えた。

 しかし……。

 

「吉之助。頼ん」

「一蔵。任せとけ」


 大久保一蔵と西郷吉之助の二人が、黙って傍観するはずもなかった。

 追い詰められた彼らはついに『最後の切り札』を使うことにしたのである。

 その舞台は、江戸――

 

――江戸の薩摩藩邸に江戸の街を乱す浪人たちが集結!

――江戸警備役の庄内藩が、薩摩藩邸を焼き討ち!!


 この報せがまたたく間に新政府と旧幕府に広まると、京の土佐藩邸に、山内容堂の叫び声がこだました。

 

「ぐぬぬっ! おのれぇぇ!! 西郷と大久保めぇぇ!!」


 つい昨日までの老獪な笑みはつゆと消え、地獄に落ちる前の苦悶を顔に映した彼は、急いでこころざしを共にする松平春嶽と徳川慶勝の二人と会談をした。

 そこで三人が示し合わせたのは、ただ一つ。

 

――上様を大坂城から動かしてはならない!


 というもの。つまり、旧幕府軍を薩摩討伐に動かしてはならないと固く決意したのだ。


 しかし、歴史の歯車は彼らの思惑など関係なしに、大きな波を作り出していく。

 会津藩をはじめとする旧幕府の過激派たちが、「薩摩を討つべし!」と高らかに声をあげると、もはや慶喜であっても彼らの怒りを抑えきれなくなってしまったのだった。

 しかしこの状況にあっても、慶喜はどうにかして戦争を回避しようと必死になった。

 

「ま、待て! では、陛下に薩摩を討伐すべきかうかがいを立てた上で行動を起こそうではないか! 今から上洛じゃ!」


 それは年が明けたばかりの慶応四年(一八六八年)一月二日のことだった。

 『慶喜公御上洛の為』と称した旧幕府軍一五〇〇〇は、大坂城を出立し、鳥羽街道から京を目指して動き始めた。

 

 そして翌日の一月三日。

 鳥羽街道を塞ぐ新政府軍五〇〇〇と、旧幕府軍の先鋒隊がついに激突を開始した。

 その報せは大坂湾に停泊中の『開陽丸』にも届けられたのだった。

 

「とうとう喧嘩を売っちまったか……。こうなりゃ仕方ねえ! 者ども!! 薩摩をぶっ潰してやろうぜ!!」


――オオオオッ!!


 『開陽丸』の甲板で榎本武揚の威勢の良い号令がこだますと、一斉に喊声があがった。

 

「目標は薩摩の船!! 全て沈めてしまえ!! うてぇぇぇぇい!!」


――ドオオン! ドオオン! ドオオン! ドオオン!


 二五門の大砲が一斉に火を吹くと、兵庫港から薩摩へと向かう船に次々と砲弾が浴びせられた。

 

――ぐわぁぁぁ!! う、う、撃ってきたぞ!!

――戦じゃ! 戦が始まったぞ!!


 こうして『陸』と『海』の二か所で、激しい戦闘が開始された。

 後世に言う『鳥羽・伏見の戦い』である。

 そしてこのまま舞台を東から北へと変えていく『戊辰戦争』へと流れていくことになるのだった――

 

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