◇◇


 慶応四年(一八六八年)一月五日――

 京を舞台として、いよいよ新政府と旧幕府の激しい戦争が幕を開けた頃。

 遥か北にある箱館で、俺、坂本龍馬は、ひっそりと新年を迎えていた。

 

「おお! 膨らんできたのう!」

「はいっ! 太一さまぁ! もうそろそろ食べ頃かと!」

「これっ! 雫! よだれが餅に垂れる! もっと頭をひっこめよ!」


 箱館奉行所に勤めている小姓の与太郎、商家の娘の雫、そして俺の三人は、七輪で暖を取りながら、餅が焼けるのを今か今かと待っていた。

 そしてついに餅がぷくりと膨らみ始めたではないか。

 

「今だぁ! 一斉に垂らせぇぇ!!」


 俺が大号令をかけると、与太郎と雫の表情がきりっと引き締まる。

 

――おおっ!!


 二人は声を合わせて返事をすると、餅に醤油を垂らし始めた。

 

「醤油やめえぇぇぇい!!」


 再び号令をかけて二人の手を止める。

 

「箸を持てぇぇい! いざっ! 餅を食えぇぇ!!」


――わぁっ!!


 目の前に置かれた餅を箸で掴むと、一気に口の中に放り込んだ。

 熱々の餅が冷えた口の中を温めると、香ばしい醤油の香りが口いっぱいに広がる。

 

「「「うんめぇぇぇえ!!」」」


 俺たちはあまりの旨さに天井に向かって大声を上げた。

 なんという幸せな瞬間であろうか。

 『七輪』と『餅』を生みだした人こそ、後世称えられるべきだと心から思う。

 心も体も温まる至福の瞬間を堪能していると、隣の雫が顔を真っ赤にさせた。

 

「げほっ! げほっ! つまったぁ……」

「こらっ! 慌てて食べるからだ!」

「大丈夫か! 雫殿!」


 俺は急いで水の入ったお椀を手渡すと、彼女はぐいっとそれを飲みほした。

 

「ぷはぁぁぁ!!」


 どうやら危機は脱したらしい。

 彼女は屈託のない笑顔を俺に向けると、明るい声で礼を言った。

 

「ありがとうございます! 太一さまぁ!」


 まるで向日葵のような純真な彼女の笑顔に、胸が思わずドキっと高鳴った。

 箱館にきてから早半月たったが、彼女と過ごすのは初めてのことだ。

 今まですれ違って挨拶を交わすだけの仲だったため、じっくりと彼女の姿を見るのはかなわなかったが、こうして見るとすごく可愛らしい美少女ではないか。

 俺は思わず彼女の顔を見入ってしまった。

 すると『自制心』という名のもう一人の俺が、胸をドキドキさせてしまっている俺をたしなめた。

 

――坂本龍馬は今年で三二歳。雫はまだ一七歳というではないか! なにを恥ずかしいことを考えているのだ!


 うむ。しかし中身の『近藤太一』はまだ二十歳のはずだ。三つ下の可愛い後輩だと思えば、全く問題はない。

 

――待て待て! 俺! 俺には『千葉さな子』という心に決めた女性がいるではないか!


 たしかにさな子を忘れたことは一日たりとてない。

 しかし、よく見てみろ。

 『坂本龍馬の未来の子供』と似ているのは、さな子と雫のどちらか、と問われれば、明らかに雫の方ではないか。

 情にとらわれるあまりに本来の目的を見失っては、それこそ本末転倒ではないか。

 

――お前という男は……。仮にそうだとしても、雫がお前のことをどう思っているのかも分からないのに、勝手に妄想するなんて恥ずかしいとは思わないのか!?


 それは確かにそうだな……。

 そんな風に『自制心』が俺の燃えかけた心の火を鎮めようとしたその時だった――

 

「わたしは太一さまが大好き!」

「うん、俺も雫殿が好きだよ……って……えええええっ!!」


 なんと雫が頬を桃色に染めながら、『告白』ともとれる発言をしてきたのである。

 しかもあまりにも自然すぎて、思わず正直な気持ちを答えてしまったではないか!

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ! その『好き』というのは、あれだよな。『人』として好きってことだよな!?」


 すると雫はぶるぶると首を横に振って、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。

 

「わたしは太一さまのお嫁さんになりとうございます。だめでございましょうか?」

「こらっ! 雫! お前と近藤様では御身分が違うだろ!」

「むむぅ……! なんで商家の娘は、おさむらい様のお嫁さんになれないの?」

「そういう決まりなんだから仕方ないだろ! ったく、近藤様もお困りになられているではないか!」

「いや、与太郎。近いうちに身分など関係なく誰でも好きな相手と結ばれる世になるぜよ」


 急に太い声で俺が答えたものだから、与太郎と雫の二人は目を丸くしてしまった。

 まずい! つい『未来』についてしゃべってしまったではないか!

 俺は二人の視線にはっとして、慌てて続けたのだった。

 

「……と、勝海舟先生が申しておりました! いやぁ、俺も初めて聞いた時は、たまげたもんだが、本当にそんな世の中になるのかねぇ!? はははっ!」


 俺の笑い声に与太郎と雫もつられるように強張っていた表情を緩めた。

 

「ふふふ。もしそんな世の中がきましたら、雫をもらってくれますか? 太一さまぁ」

「あははっ! そうだのう! そんな世の中がきたら、雫をお嫁さんにもらって、のんびりと暮らすとするかのう!」

「近藤様! あまり雫を甘やかすと、ろくなことになりませんよ!」

「あははっ! そうか、そうか! よしっ、ではもう一つ餅をいただくとしようではないか!」


 俺は巧みに話題をそらすと再び七輪の網の上に餅を三つのせた。

 餅が焼けるまでの間、ただ餅だけを見つめ続けた。

 少しでも顔を上げれば、きらきらと光る雫の瞳に吸い込まれてしまいそうに危うかったからだ。

 

――もうすぐ四民平等の世がくるはずだ。その時、お前は本当に雫を嫁に迎えるつもりなのか?


 『自制心』が執拗に問いかけてくるが、今すぐに答えが出せるはずもない。

 それでも一つだけ確かなのは、一度鎮まりかけた炎が再び燃え盛り始めたことだ。

 まだまだ極寒の北の大地にあって、俺の心には一足早く春が来たかのように浮かれていたのだった。

 

 そんな俺を鋭い眼光で見つめる二人の男が、すぐ側にいるとも気付かずに……。

 

 


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