眩しい思い出

◇◇


――日本はもっと良くなる! いや、わしらの手で良くするぜよ!

――おおおおおっ!!


 わずかな期間だったが、現箱館奉行の杉浦誠は、かつて外国奉行の目付筆頭に就いていたことがある。

 職務の一環として、神戸に設立された海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)を訪れた時のことだ。

 彼はそこで働く一人の若者の姿に釘付けとなった。

 閉塞感のある『幕府』という組織に、どっぷりとつかっていた彼にとって、その若者がいきいきと手足を動かしている様子は眩しくてならなかった。

 大砲の整備を終えて、すすだらけになったその若者が、白い歯を見せながらニコリと微笑みかけてくれたのを、数年たった今でも鮮明に覚えている。

 そして、あの時以来、なにかにつけて彼の胸は締めつけられるような痛みを覚えるのだ。

 

――俺もいつしか、あんな風に輝きたい……。


 と――

 

 

「父上! 父上! いかがなさいましたか!?」


 と、彼を呼ぶ息子の正一郎の声で、彼はようやく我に返った。

 

「いや、なんでもない……」

「父上! まだ耄碌するには早すぎますぞ! ……して、いかがなさいますか?」

「ああ……そうだな……」


 彼は言葉を濁すと考え込む。

 すると正一郎は彼を急かすように早口で続けた。

 

「父上! 考えるまでもありませぬ! あやつは『坂本龍馬』に間違いございません! 上様をおびやかす、逆賊でございます! 即刻捕えて、牢獄に入れるべきでございましょう!」

「うむ……しかし勝様の書状では確かに『近藤太一』という名が書かれていた。確信がなくては、そう軽々しく動くものではない」


 彼はそこで言葉を切った。

 今の会話からも見てとれるように、彼ら親子は『近藤太一』を『坂本龍馬』であると疑っている。

 それは彼らが神戸で一度だけ『坂本龍馬』を目にしたことがあったからで、記憶の片隅にあったその姿を、目の前で美味しそうに餅を頬張っている男に重ねたところ、ぴたりと一致したからであった。

 

「うすうすは怪しいとは思っておりましたが、先ほどのあやつの言葉でそれがしは確信いたしました。あやつは『坂本龍馬』に間違いございません」


 正一郎が指摘したのは、「近いうちに身分など関係なく誰でも好きな相手と結ばれる世になるぜよ」という太一が、ほぼ無意識のうちに発した言葉だ。

 

「しゃべり方といい、土佐特有の語尾といい……もはや疑いようはございません!」


 なおも父親に決断を促す正一郎。

 しかし杉浦誠は最後まで首を縦に振らなかった。

 

「もう少し様子を見よう。彼が何を企んでここに来たのか。それも探らねばなるまい」

「父上……もし、坂本が率いる『海援隊』が箱館に乗り込んでくれば、それがしたちもただではすみませんぞ」


 正一郎は煮え切らぬ父の態度に唇を噛みながら、悔しそうな目を父に向けた。

 だが、杉浦誠はいつもと何ら変わらぬ穏やかな調子で、いきり立つ息子をなだめるように言ったのだった。

 

「その時は、彼を刺してわしも腹を切ろう。とにかく今は静観に限る」

「分かりました。では、せめて与太郎に探らせることをお許しくだされ」


 杉浦誠は有無を言わせぬ息子の顔に、ため息をつきながら渋々彼の願いを許した。

 そして再び扉の影から、幸せそうに過ごしている『近藤太一』の顔を、細い目をして見つめた。

 その瞳には、かつて眩しいほどに輝いていた『坂本龍馬』の姿が重なっていたのだった――

 

◇◇


 坂本龍馬が一足早く訪れた心の春に浸っている頃。

 江戸を発ち『海援隊』のもとへ向かっていた岩崎弥太郎は、ようやく彼らが駐留している長崎に到着した。


「おのれぇぇぇ……龍馬めぇぇぇ! 次会った時はぜってえにおまんを許さんからのう! 覚悟しちょれ!!」


 体中を泥だらけにしながら、彼は長崎の街をぶつくさと文句を言いながら歩いていた。

 それも仕方ないだろう。

 なんと彼は『徒歩』で長崎までやって来たのだから……。

 それは大坂から江戸への運賃を二人分支払ったことで、船に乗って長崎へ戻ることができなくなってしまったからだ。

 いや、正確には金銭が全くなかった訳ではない。

 しかし旧幕府と新政府の一触即発の睨み合いが続く中で、定期船が激減し、それに乗じて運賃が高騰してしまったことが、弥太郎の誤算だった。

 東海道から彦根あたりまでやって来た時点で道は兵たちで埋め尽くされおり、彼は北国街道から山陰道へと迂回して長崎を目指した。

 その為に、江戸から長崎に到着するまでに、およそ一カ月半もの時間を費やしてしまったのだった。

 

 そんな紆余曲折もあって、ようやくたどりついた長崎の街。その後、彼は一直線に『海援隊』のもとへと向かった。

 しかしそんな彼を待っていたのは……。

 

「な、な、なんじゃこりゃぁ!?」


 散々ちらかされた『海援隊』の本拠地であった。

 なおその場所は、豪商である小曾根家の邸宅の一部を借り受けたものだ。

 そこに隊員三〇人程度が共同生活をしていた。

 弥太郎が土佐藩の命令を受けて、ここで職務にあたっていた頃は、彼の仕事ぶりを表すかのように綺麗に整頓されていたのだが、彼が不在のうちに足の踏み場もないほどに書類やらゴミやらが散乱したままになっていたのだった。

 

「おや? そこにおるのは弥太郎か!?」


 ふと彼の名前を呼ぶ声に、振り返ってみると、そこにはよく知った顔があった。

 土佐出身で坂本龍馬とは幼馴染の新宮馬之助(しんぐううまのすけ)だ。

 人懐っこい顔をした彼は、なんでもないような調子で続けた。

 

「どこに行っちょったのだ? 心配しちょったのだぞ」

「ちょっと江戸まで行っちょったのだ! やけんどなんでここまで散らかっちゅう!?」

「そりゃあ、おまんがおらんかったき。仕方なかろう」

「はぁ!? なんでわしがおらんと、こんなに汚うできるのじゃ!?」

「なにを言っちゅう? 片付けるのは、おまんの仕事やろが」

「……もうよい……わしが悪かった……」


 がくりと肩を落とした弥太郎は、疲れた体に鞭をうって、散乱しているものを片付け始めた。

 すると馬之助も、彼を手伝い始めたのだった。

 

「ところで弥太郎は江戸で何をしちょったのだ?」

「ああ……龍馬が逃げるのを手伝っちょった」

「えっ!? 龍馬を!? 弥太郎! 龍馬がどこにおるか知っちょるっつうことか!?」

「箱館じゃ! わしは龍馬におまんらを連れて箱館へくるように言われちょる」

「箱館……信じられんのう……」

「ふんっ! どうせ下賤の身の岩崎弥太郎なんかの言うことなんか信じられん、ちゅうことじゃろ!」

「いや……そんなこと言っちょらんが……」


 ここで会話は一旦途切れると、弥太郎と馬之助の二人は黙々と部屋の片づけにいそしんだ。

 そしてわずかな時間で、見違えるほどに綺麗に片付いたのだった。

 

「ふいー。これでよかろう!」

「うんうん! さすがは弥太郎じゃ! 片づけさせたら土佐一じゃな!」

「ばかもんっ! 土佐一じゃあない! 日本一じゃ!」

「あはは! 分かった、分かった。弥太郎は日本一じゃ」

「もうよいっ! じゃあ、長岡はどこにおる? あやつと話をつけたいんじゃ」

「ああ、謙吉(けんきち)さんかえ。今はここにはおらんよ」

「はあ!? ならどこに行っちゅう!?」


 弥太郎の言う、長岡謙吉とは名実ともに坂本龍馬にとって右腕とも言える人物であった。

 蘭学や医学にも通じた彼は、持ち前の見識の広さを活かして、坂本龍馬の構想をまとめる役割を成していた。

 もし史実の通りであれば、龍馬亡き後に海援隊の隊長となる人だったのである。

 弥太郎は彼に働きかければ、海援隊を箱館へ向かわせることができるのではないかと考えていたのであった。

 

 しかし馬之助の口から発せられたのは驚くべきことだった……。

 

「実は龍馬がおらん間に、仲間割れをしてしもうたのちや」

「仲間割れじゃとぉぉ!?」

「そんなこともあって、謙吉は出て行ってしもうたんや」

「なにいぃぃぃぃぃ!?」


 長旅の疲れも吹き飛ぶような衝撃に、弥太郎は思わず大の字になって倒れてしまったのだった――

 

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