海援隊を狙う影
◇◇
長岡謙吉が小曾根邸から出ていってしまった……。
そうなってしまったのは、史実にはない『薩摩藩邸での坂本龍馬襲撃事件』が発端であった。
実は龍馬が在京中に、数名の海援隊員もまた京都に滞在していた。
目的はもちろん、龍馬の活動を支援するためである。
しかし各派から命を狙われていた龍馬は、彼らとは行動を共にしていなかった。
それが災いして、龍馬が襲われた時には彼らは救援に駆けつけることがかなわなかったのだ。
一命をとりとめた中岡慎太郎から、龍馬生存の事実と、薩摩藩士に襲われたことを聞いた隊員が、ほっと胸をなでおろすと同時に、薩摩に強い憤りを抱いたのは想像に難くない。
特に龍馬と仲の良かった陸奥宗光(むつむねみつ)や沢村惣之丞(さわむらそうのじょう)の怒りは凄まじく、薩長が推し進める倒幕の活動から一線を引いて、長崎に引き上げてきたのだった。
一方の長岡謙吉は世がよく見えている男であり、「今は私情にかられて行動すべき時ではない」と隊員たちを説いた。
そして、薩摩相手に一戦を辞さない恐れもあった陸奥たちから、所有している船を守るべく、小曾根邸を離れて船上に生活の拠点を移したという訳だった。
「なら船まで行って長岡に直談判するまでじゃ!」
「待て待て、弥太郎。謙吉らは今、小豆島(しょうどしま)に行っちゅうよ」
「小豆島ぁぁ!?」
「ああ、長崎からはちと離れた方がよいっちゅう謙吉の考えじゃ」
小豆島とは瀬戸内海に浮かぶ島で、高松と目と鼻の先の場所にある。
つまり長崎からはかなり離れているのだ。
わざわざ苦労して長崎に戻ってみれば、海援隊の主力は別の場所に移ってしまったという……。
弥太郎はぐらりと眩暈を覚えると、もう一度大の字になって倒れてしまった。
「弥太郎! 大丈夫か!?」
馬之助が慌てて彼に声をかけたが、弥太郎はそれには答えず、ただ天井を見上げて乾いた笑いを浮かべていた。
「ははは……龍馬、すまんのう。海援隊は動かせん……」
……と、その時だった。
「あっ! 弥太郎! 今まで、どこで何をしておったのだ!? 探していたのだぞ!」
と、彼を呼ぶ大きな声が頭上でこだましてきた。
その声に覚えのあった弥太郎は、弾けるように起き上がると、すぐに姿勢を正した。
「これは佐々木様! お見苦しいところをお見せしてしまい、失礼いたしました!」
「これこれ、弥太郎。そうかしこまりなさんな」
「いえ! 大目付の佐々木様に対して無礼を働くなど、畏れ多いことにございます!」
彼は佐々木高行。後世では後藤象二郎らと並んで『土佐三伯』と称される程の偉人である。
土佐藩士の彼は、藩主の山内容堂の側近までのし上がっていった、土佐藩の有望株で、今は容堂の指示により『海援隊』の監督として隊員と容堂の間を行き来していた。
藩士の中でも最下層ともいえる地位の弥太郎にしてみれば、雲の上の人と言っても過言ではないのだ。
しかし佐々木は非常に気さくな人で、平伏している弥太郎の肩に優しく手をかけて用件を告げたのだった。
「殿が直々にお主と話がしたいと仰せになられちょる。悪りいが、わしと一緒に京まで足を運んではくれんかね?」
「あわわわ……よ、よ、容堂公がぁぁぁ!?」
弥太郎にとって佐々木が雲の上の人とするなら、山内容堂などは天よりもさらに高い場所にいる『星』とも言える存在だ。
そんな容堂がじかに話がしたいと自分を呼び立てている……。
それだけで彼は驚愕と興奮に目を回して、その場で気を失ってしまったのだった――
◇◇
慶応四年(一八六八年)一月二〇日――
岩崎弥太郎は佐々木高行を伴って京の土佐藩邸へと入った。
なおこの時にはすでに『鳥羽・伏見の戦い』は、圧倒的な火力と先進的な戦術を有した新政府軍の勝利に終わり、徳川慶喜以下、榎本武揚、さらには会津藩藩主などは畿内を脱出して、江戸へと逃げのびていった。
そして西郷吉之助を中心とした新政府軍の矛先は、早くも東、すなわち江戸城へと向けられていたのである。
同月七日には朝廷が『慶喜追討令』を発し、二月には全軍が京を発って進軍を始める段取りが、粛々と進められていたのであった。
こうして歴史は大きなうねりとなって動いている中、激動の真っただ中にいる山内容堂に、完全に蚊帳の外で、毎日を生き抜くのに必死な岩崎弥太郎は呼ばれた。
当然、藩邸に入るのは初めてだ。
彼はきょろきょろと周囲を見回しながら、前を行く佐々木高行の背中を追っていった。
すぐ側を流れる鴨川沿いに続いている長い廊下を抜けていくと、ついに佐々木はとある部屋の前で足を止めた。
もちろんこの先には山内容堂がいるという意味だ。
弥太郎はごくりと唾を飲み込むと、ぐっと顎を引いた。
そして佐々木は弥太郎をちらりと見て、小さく頷くと、中に向けて大きな声を上げたのだった。
「岩崎をお連れいたしました!」
「入れ!」
呼びかけに即答した声は、後藤象二郎のものであることは弥太郎にも分かった。
どうやら部屋の中に、彼もいるらしい。
――スッ。
と滑らかな音を立てて襖が開けられた途端……。
「酒くさっ!」
と、弥太郎は思わず鼻をつまんだ。
すると酒瓶が散乱した部屋の中央に、酔って赤い顔をした中年の姿が目に入ってきたのだった。
彼こそ、後世『幕末の四賢侯』と称される老獪の士、山内容堂その人であった。
「おんしが岩崎か?」
低い声で弥太郎に問いかけた容堂。その目はすわっており、声は震えている。
昼間だというのに、相当深酒をしているのは明らかだ。
それでも相手が相手なだけに、弥太郎は部屋の手前で平伏すると、大きな声で答えた。
「岩崎弥太郎にございます! お呼び立てに応じ、馳せ参じ候!」
「かったい挨拶だのう。それに声がおおきい。耳が痛くてかなわんわ」
「申し訳ございませぬ!!」
「もういいから早よう部屋に入れや」
「はっ!」
弥太郎は、緊張のあまりに固い動きで部屋の中に入った。
そして正座のまま膝を進めると、容堂の目の前までやってきたのだった。
容堂は彼の様子を見計らって、ぼそりとつぶやくように問いかけた。
「一つ聞くが、おんしは銭は好いちょっか?」
「は?」
弥太郎は思いがけぬ容堂の質問に目を丸くした。
すると容堂は苦い顔をして続けた。
「鈍いのう。ちなみに、わしは銭も酒も女も力も……すべて好いちょる」
「そ、それがしも全て好きで候!!」
「その『候』っちゅうのをどうにかできんのか? まあよい。なら、おんしに『力』をくれてやろう」
「は?」
容堂の言葉に再び目をまんまるにした弥太郎。
一方の容堂は、口元に不敵な笑みを浮かべながら言ったのだった。
「わしの望み通りに働けば、われに『海援隊』をくれてやろうっちゅうことだ」
と――
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