弥太郎の心

◇◇


「わしの望み通りに働けば、われに『海援隊』をくれてやろうっちゅうことだ」


 山内容堂の言葉に強烈な衝撃を受けた岩崎弥太郎は、ただ口を開けて容堂の顔を見つめるより他なかった。

 そんな彼に対して、容堂はまるで独り言をつぶやくように続けたのだった。

 

「戦争っちゅうのは、銭がかかって仕方なくてのう。間もなく土佐から乾(いぬい)が京に上ってくる。もしあやつらが戦争に参加すれば、武器に兵糧、そして戦後の手当てと、なにかと物入りになるっちゅうことじゃ。困ったものだのう」


 ここで言う「戦争」とは、言うまでもなく江戸城への総攻撃、つまり旧幕府軍との決戦を意味している。土佐藩は先に結んだ薩摩藩との盟約に従って、軍隊を出さねばならないことになっていた。

 そこで容堂は、土佐に待機させていた『迅衝隊』と呼ばれる軍隊の派遣を決めたのである。

 『迅衝隊』は兵数六〇〇で、率いているのは乾退助(後の板垣退助)。

 最新鋭の武器を装備し、乾によって徹底的に訓練された土佐の誇る精鋭部隊だ。

 

 しかし軍隊を土佐から江戸へ指し向けるだけでも、多額の資金が必要となるのは言うまでもない。

 容堂の頭を悩ませていたのは、その資金繰りだった。

 

「聞くところによると、『海援隊』は紀州から『いろは丸』の件で、ぎょうさん銭を巻き上げたそうじゃのう……」


 世に言う『いろは丸事件』。海援隊が所有していた『いろは丸』という船が、紀州藩所有の船が衝突してきた事故によって沈没してしまった。

 坂本龍馬は、この事故の賠償を紀州藩に求め、七万両(現在で言う約九一億円)もの金を得た。その大金が海援隊に支払われたのは、龍馬が近江屋で襲われるわずか七日前のことだったため、龍馬を襲ったのは紀州藩士であるという噂もたったほどだ。

 

 容堂はもちろんこの事実を把握していた。

 そこで彼は海援隊の得た大金に目をつけたのだった。


 この時点で勘の良い弥太郎は、容堂が何を企んでいるのか薄々分かっていた。

 それは……。

 

――容堂公は『海援隊』の持っている七万両を我が物にしたいに違いない――


 というものだ。

 容堂はさながら獲物を狙う蛇のような目つきで弥太郎の顔をのぞいた。

 弥太郎はごくりと唾を飲み込む。

 すると容堂は口角をかすかに上げて続けた。

 

「おんしが坂本と同じ船に乗って江戸に向かったのを見たちゅう者がおってな。それは、まことか?」

「え……は、はい。まことにございます」

「坂本は今どこにおる?」

「は、箱館におります」

「坂本はこっちへ戻ってくるのか?」

「いえ……命を狙われている間は大人しく身を隠して過ごしたいと言っておりました」

「ならばよい……」

「え……?」


 容堂の顔が安堵に緩むと、弥太郎はかえって恐ろしさに肝を冷やした。

 そしてさらりと恐ろしいことを言ったのだった。

 

「ならば坂本は海援隊を見放したっちゅうことじゃな」


 弥太郎の目が大きく見開かれると、彼はずりっと後ずさりした。

 しかし、容堂はぐいっと身を乗り出す。

 それは「逃がさんぞ」と脅しているのと同じであった。

 

「坂本は海援隊を見放した。ならばこの容堂が坂本の代わりに『大事なもん』を預かってやってもよい」

「だ、大事なものとは何でしょう……?」

「しらじらしいぞ、岩崎。言わんでも分かっちゅうに」

「な、七万両……でございましょうか……?」


 容堂は乗り出した身を元に戻すと、ぐいっと酒をあおった。

 そして大きく息を吐き出すと、表情を険しい者に変えて弥太郎に告げたのだった。

 

「岩崎弥太郎に命ず。今から小豆島へ行き、長岡謙吉にこう伝えよ。『坂本龍馬は海援隊に戻るつもりはない。今後は藩主の命令に従って行動するように』と」


 それは『嘘』を言って、海援隊の隊員たちの心を坂本龍馬から引き離し、自分の意のままに操ろうという魂胆に他ならなかった。

 弥太郎は目の前が真っ暗になるのをどうにかこらえながら問いかけた。


「な、なぜそれがしが……?」

「おんしは坂本と一緒におったのじゃろう。坂本が海援隊を見放したことを、『まこと』として伝えられるのは、おんししかおらんじゃろうに……」

「と、殿は海援隊をいかがするおつもりなのでしょう?」

「そんなもん、わしの知ったことか。わしが欲しいのは『大事なもん』だけじゃ。だからおんしにくれてやると言っちょる。いらんもんを飼うために『高い餌代』を払ってやるほど、わしはお人好しではないわ……ちとは頭を使え」


 容堂は蔑むような目でつきで弥太郎を見た。

 弥太郎は悔しさよりも、恐ろしさに圧倒されてしまい、ただ容堂の顔を見つめるより他なかったのだった。

 すると容堂は、もう一度身を乗り出して、弥太郎に酒くさい顔を近付けてきた。

 

「やるのか、やらんのか……どっちだ?」

「そ、それがしは……」

「悩むこともなかろう。もし事が成れば、おんしに船とそれを使って商売できるように『力』をやる。げにまっこと良い話じゃと思わんか?」

「は、はい……」


 身に迫る恐怖に押し出されるようにして、弥太郎はがくりと肩を落としながら返事をした。

 その様子を見て容堂は、再び元の姿勢に戻すと、空の盃を弥太郎に差し出した。

 弥太郎は拒む訳にもいかず、震える手でそれを受け取る。

 すると容堂は酒をその盃に注いだ。

 

――とくとくとく……。


 静寂の中で酒が盃へ落ちていく音がこだまする。

 弥太郎にはその音が自分の心が奈落の底へと落ちていく音のように思えてならなかった。

 そして酒を注ぎ終えた容堂は、無言のまま「飲め」と言わんばかりに顎を上げた。

 

――くいっ!


 弥太郎は一気にそれを飲み干すと、盃に一礼をして容堂の前に置いた。

 それを見た容堂は、小さな声で告げた。

 

「もう下がってよい。あとは頼んだぞ、岩崎」

「御意……」


 弥太郎は最後まで歯切れの悪い返事のまま、すごすごと部屋を立ち去っていったのだった――

 

◇◇


 慶応四年(一八六八年)二月一日――

 

 海戦の舞台となった大阪湾がようやく元通りの賑わいを取り戻したのを見計らって、岩崎弥太郎は佐々木高行とともに小豆島へと渡った。

 そこで彼らを迎えたのは、長岡謙吉であった。

 

「佐々木様に弥太郎! うん? どうした弥太郎!? 怖い顔しおって」


 もちろん謙吉が弥太郎に課せられた難題など知る由もない。

 彼は屈託のない笑顔を向けて、高行と弥太郎を迎え入れた。

 弥太郎はぎこちない動きで、謙吉の案内に従う。

 そして謙吉は弥太郎たちを船の中へと招き入れたのだった。

 

「あはは! 弥太郎がおらんと、すっと汚れてしまって仕方ないわ。やっぱり弥太郎の片付けは土佐一じゃ!」


 なんの疑いもせずに大笑いする謙吉。

 しかし弥太郎はぴくりとも頬を緩めることなく、堅い表情のまま、謙吉の背中を追っていた。

 

「大丈夫か?」


 弥太郎の背中からぼそりと高行が問いかけると、彼はちらりと背を向いて、頬をびくつかせた。

 それは彼なりの精一杯な微笑みだった。

 

 船の中を進んでいくと、多くの海援隊員とすれ違う。

 みな一様に笑顔を弥太郎に向けていた。

 

――やめろ……やめてくれ……わしはおまんらから笑顔を向けられる資格なんてないんじゃ。


 決して言葉にできない思いに、弥太郎の心は傷つけられていった。

 

――こやつらはみな信じちょる。龍馬がいつか必ず戻ってきてくれるのを……。そして龍馬もこやつらの助けを待ち望んでおる……。それなのにわしは……。


 そして謙吉が過ごしている部屋に入ると、彼と向き合うように弥太郎は座った。

 

――何を迷っちゅう! わしは今までわしを見下してきたやつらを見返すために生きてきたんじゃ! ここで長岡に一言言うだけで、わしの夢がかなうんじゃ!


 弥太郎は覚悟を決めると、ぐっと腹に力を入れて謙吉の顔に視線を移した。

 

 ……と、その次の瞬間だった――

 

「早く龍馬が帰ってこないかのう! 帰ってきたら、またみんなで一緒に『夢』に向かって旅をするぜよ!」


 と、謙吉が目を輝かせながら笑ったのである。

 その顔を見た瞬間に、弥太郎の心に「ばきっ」と大きなひびが入った音がした。


 彼は毎日を生きるので精一杯であった。

 だから目の前の『職』と『欲』に忠実だったのだ。

 そんな中で『夢』などという実に抽象的なものを、何の疑いもなく目の前の謙吉は追いかけている。

 その姿がどうしようもなく眩しくてならなかったのだ。

 

「みんなで一緒に『夢』に向かう……」

「おう! 弥太郎! もちろんおまんも一緒だぞ! おまんがいないと船がすぐ汚くなってかなわんのじゃ! あははっ!」


 謙吉の透き通った言葉が弥太郎の心に入った『ひび』を大きく広げていく……。

 弥太郎は小さく首を横に振りながらつぶやいた。

 

「わしも一緒……なぜじゃ? わしは単に後藤様に命じられて、厭々ここにいるだけなのに」


 それは弥太郎の本心であった。

 弥太郎は海援隊で『雑用係』として働くのが、嫌いで仕方なかった。

 だから何度も後藤象二郎に転勤を申し出たのだ。

 

 それなのに……。

 

――なぜわしは、こんなにも心を揺さぶられてるのじゃ……。


 すると謙吉は、さも当たり前かのように、迷いのない口調で告げたのだった。

 

「そんなん、おまんがわしらの『同志』だからに決まっておろう!」

「同志……」

「ああ、おまんはわしらにとって大事な同志……仲間なんじゃ!」


――バリンッ……!


 謙吉の熱を帯びた言葉が弥太郎の耳に届くと同時に、弥太郎の心は完全に砕け散った。

 すると剥き出しの心に浮かんできたのは、坂本龍馬の言葉と、純真な笑顔だった――


――岩崎弥太郎は、誰よりも信頼に足りる男だと知っているからだ。

――本当にありがとう! 俺はお前に出会えて、本当に幸運だった!


 自分がただ明日の食い扶持を稼ぐために生きるのではなく、誰かのために、そして誰かとともに生きていく……。


 それは自分がずっと夢見てきた生き方ではないか……。

 そんな風に思った瞬間、彼の口は彼の意志とは関係なく動いたのだった。

 

「龍馬がみんなを箱館で待っちょる! 今からみなで龍馬んとこへ行くぜよ!!」


 と――

 

 そして彼は忘れずにもう一つ付け加えた。


「長岡! わしの片付けは『土佐一』じゃあない! 『日本一』じゃ!」


 そう言い放った岩崎弥太郎の顔は……。

 まるで真夏の太陽のように晴れやかなものだった――


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