江戸会談①
◇◇
明治元年(一八六八年)五月二〇日 江戸――
上野の寛永寺に立て
そんな中、彼の部屋に小姓の一人が転がるようにして入ってきた。
「た、大変でございます!!」
「そげん慌てて、どげんした?」
西郷吉之助はそばに置いてあった水を差し出して、小姓に落ち着くように促す。
小姓はこくりとうなずくと、水を一気に飲み干して呼吸を整えた。
そしてぐっと表情を引き締めると、しっかりとした口調で告げたのだった。
「松平容保様が西郷様に面会を求めております! すでに江戸に御到着されており、今は赤坂の勝様の御屋敷で過ごされております」
「なんと……! 会津候(あいづこう)が……」
「それだけではございません!」
会津の総大将がここまでやって来たというだけでも大事件だが、小姓はまだ何かあると言う。
西郷吉之助は、ゴクリと唾を飲み込んで次の言葉を待った。
すると小姓はさらに大きな声で続けたのである。
「土佐の坂本龍馬様が付き添いで同席されるとのことです!」
――ガタッ!!
突然立ちあがった西郷は、小姓の耳をつんざくような大声を上げた。
「坂本どん!!」
そのあまりに大きな声に屋敷の小姓たちが一斉に様子を見に集まってきた。
何事かと目を丸くしている彼らを見て、西郷吉之助はようやく恥ずかしさを覚えたのか、顔を真っ赤にして、どしんと重い腰を下ろした。
そして「なんでんなか! はよ持ち場に戻れ!」と、小姓たちを追いたてている。
だが、未だに紅潮したままの頬を見れば、彼が近いうちに訪れる面会に気を逸らせているのは明らかだった。
こうして西郷吉之助、坂本龍馬、そして松平容保の三者による会談は、翌日に開かれることとなったのである。
………
……
明治元年(一八六八年)五月二一日 江戸城――
俺、坂本龍馬がこの世界に転生してきたことで、日本の歴史は少しずつ変わっていた。
そしてついに後世にその名を残す会談を起こすまでに至った。
『江戸会談』――
と、呼ばれることになるものだ。
表向きは、『松平容保による、会津仕置きに関する嘆願』の場だ。
だが、そこで俺は新政府に試されることになる。
――坂本龍馬は天使か悪魔か……。
と――
………
……
正午――
会談は江戸城の評定の間で執り行われることになっており、俺と松平容保の二人は時間より四半刻前に部屋へ入った。
すでにそこには書記官が一人、それにやたら額(ひたい)の広い男が待っている。
その額の広い男が涼やかな声を上げた。
「長州の大村 益次郎(おおむら ますじろう)と申します。以後、お見知りおきを」
「あなたが大村益次郎殿か……」
「ああ、坂本さん。『あの節』はお世話になりました」
「あの節……?」
「ふふ、記憶喪失とうかがいましたが、どうやら本当のようですね。なるほど……。いえ、今のはもう過ぎたることです。気になさらないでください」
すらすらと流れるように言葉を投げかけてくる大村益次郎。
後から知ったことだが、『あの節』とは、第二次長州征伐の際に、坂本龍馬が長州の武器調達に暗躍していたことを指していたらしい。
自然なやり取りの中で、噂の真偽を図るあたり、やはり『天才』の名を欲しいままにしている俊傑だ。
そして、今の彼は江戸府の知事。つまり、江戸の最高責任者ということになる。この場に参加するのに、何の違和感もないのだ。
その後の彼は一言もしゃべらずに、ただ静寂のまま時が過ぎていった。
そうしてちょうど正午を報せる鐘の音が外から響き渡ってきた直後、襖が勢い良く開けられたかと思うと、よく肥えた大きな男が部屋の中へ入ってきた。
「遅くなってしまい、申し訳ない」
太く芯のある声はさながら大樹のようだ。
そして何よりも部屋に入ってきただけで、場を飲み込む圧倒的な雰囲気……。
もはや住んでいる世界が違いすぎるほどの器の大きさを感じる英傑。
彼こそが、『西郷吉之助』その人だった――
「みなさん、お集まりかな? では、早速始めましょう」
不自然なほどに丁寧な言葉づかいで場を進行する西郷吉之助に、それまで沈黙を貫いてきた松平容保が口を開いた。
「こたびは西郷殿にお願いしたい儀があり、こうして江戸に参った次第である」
「ほう、会津候がそれがしに。果たしてどんなご用件でしょう?」
「会津を……。会津の民を救っていただきたい!」
実に真っ直ぐな発言が、どこか和やかすら感じさせていた部屋の空気を引き締まった緊張に変える。
松平容保の鋭く尖った口調に対して、西郷吉之助は綿毛のような柔らかな口調で答えた。
「分かりました。何の罪もない民のため、とあれば、それがしも喜んで協力いたしましょう」
じっと西郷の顔を見つめていた松平の頬がにわかに桃色に染まると、喜色を帯びた声を上げた。
「では、兵を退いてくれると言うのだな!?」
「はい。会津候が直々に民の為に頭を下げてこられたのです。その意気に応えずして、いかがいたしましょうや」
こうもあっさりと事が進んでよいものなのかと疑ってしまうくらいだ。
だが西郷吉之助の引き締まった表情からは、決して冗談を言っているように思えない。
松平容保は軽い調子で話を前に進めようと口を開いた。
「ならば話は早い! ここまで事が大きくなってしまったのだ。多少の咎(とが)を受けるのは仕方あるまい。それで許してもらえぬか?」
西郷吉之助はにこやかな顔で大きくうなずくと、部屋の隅で会談の様子を記していた書規役の小姓へ命じた。
「会津候へ筆と紙を用意せじゃ」
「はっ!」
小姓が短く返事をすると、素早い動作で松平容保の前に机を置き、その上に筆、墨、紙を用意した。
「会津候。では今からそれがしが言う言葉を紙にしたためてください」
「うむ、分かった」
その後、西郷吉之助の口から、先ほど松平容保が述べた降伏の条件が告げられていく。
松平容保は彼の言葉の通りに、すらすらと筆を走らせた。
――なんだ……。心配して損したぜ。
俺はすっかり肩の力を抜いて、横に置かれたお茶をすすろうと茶碗を口に近付けた。
だが、その次の瞬間だった……。
場の空気が一気に凍りついたのは――
「以上。このことは、会津の総意である……そう付け加えてくだされ」
そう西郷吉之助が発言した直後、松平容保の手がぴたりと止まったのだ。
その様子を見て西郷吉之助は目を細める。
「いかがなさいましたかな? 会津候。もしや墨の量が足りませんか?」
「……いや、さようなことはない。しかし……」
「しかし……なんでしょう? まさか『会津の総意』という言葉が引っ掛かっている、というのではありますまいな?」
松平容保の苦悶の表情を見れば、西郷吉之助の指摘が図星なことがよく分かる。
だが西郷吉之助は彼の様子など微塵も気にすることなく、さらなる要求を突き付けてきたのだった。
「最後にもう一つ。『人心乱れ、田畑は荒れ、これ以上、会津の政(まつりごと)を会津松平家が執り行うのは、しのびなきことこの上なし。ついては、会津を明治政府の直轄領とすることを願い出たく候』と」
「ならぬっ!!」
ついに顔を赤くして松平容保が叫んだ。
机に叩きつけた筆が高い音を立てると、全員の顔がこわばった。
否、西郷吉之助だけは表情一つ変えずに、冷ややかな目を松平容保へ浴びせていたのである。
松平容保はぎりっと歯ぎしりすると、西郷吉之助へ声を震わせながら抗議した。
「会津のことはわれが責任をもってどうにかいたす。それゆえ、余計な口出しは無用!」
その言葉が終わるや否や、西郷吉之助はちらりと隣の大村益次郎に目配せをした。
すると彼は懐から数通の書状を取り出して中身を読みだしたのだった。
なんとそれらは全て『会津の民から新政府に宛てられた救済の嘆願書』だったのである。
「そんな……。われの知らんところで……」
茫然自失の松平容保に対して、西郷吉之助は優しく諭すように言った。
「今は新しい世となりました。すなわち武士と百姓の上下がない世です。しかし今の会津は会津候、武士、百姓の三者の心が離れすぎておる。『会津の総意』とできぬのはそのせいに他なりませぬ。そして、誰かが折れなければ、会津は内乱でますます荒れましょう。もはや形だけの降伏ではすまされぬところまで、事態は悪くなっております。どうか分かってくだされ」
「つまりわれだけではなく、藩士全員に会津から出て行け……と」
松平容保が声を振り絞りながら問いかけたところで、もう一度西郷吉之助は大村益次郎を見た。
彼は大きくうなずくと、もう一通の書を読み上げた。
「会津藩士の禄(ろく)はすべて没収。その上で、謹慎とする。以後は明治政府の名のもと、民の鎮撫に尽くすべし。……これが大久保一蔵(後の大久保利通)殿からの指示でございます」
「ふざけるなぁぁぁ!!」
――ダァァァアン!!
足を踏み鳴らして立ち上がった松平容保。
それでも西郷吉之助と大村益次郎の二人は表情一つ変えずに、彼の顔をじっと見つめている。
鼻息を荒くして彼らを睨みつける松平容保に、西郷吉之助が背筋の凍るような声でつぶやいた。
「考えが甘すぎるとじゃ、会津候」
「なんだと?」
「新しか世を作っには、古かもんを全部壊さんなならん。そん覚悟がなか者が、いつまでも上にしがみちちょっで、こげんこっになっとじゃ」
「この無礼者め!! 誰に物を申しておるか、分かってのことかぁ!」
「そんたこちらん台詞や! 会津候! もはやあたは『一介ん罪人』に過ぎんのを御忘れやろうか!? あたは天子様の敵! すなわち国家の敵じゃぞ!!」
顔を紅潮させてそう言い切った西郷吉之助に、松平容保は何も言い返せずに口を半開きにするより他なかった。
かつて京都守護職だった頃は、当時の天皇であった孝明天皇から絶大な信頼を寄せられていた彼。
それが今は天皇の敵と名指しされていることに、どれほど悲痛なものを胸の内に抱えていたか。果たして誰が正しく理解できよう。
そのことをずばり指摘されても、醜い愚痴の代わりに大粒の涙をこぼす松平容保に、俺は『武士の一分』を見ていた。
さらに、家族同然とまで愛していた会津藩士たちの生活を切り捨て、それまでないがしろにしてきた民の生活を救うことへの葛藤は、先の朝敵の件と合わせて二重苦となって彼を襲っているのだろう。
松平容保は、威勢よく立ち上がったものの、それ以上のことは何もできず、ただ苦しみ続けていた。
一方の西郷吉之助も、彼を必要以上に追い詰めることもなく、口を真一文字に結んで視線を動かさない。
両者の意地と意地のぶつかり合いは、燃える沈黙となって流れていく……。
そんな重い空気の中、細く透き通った声が響き渡った――
「それはちっくと一方的すぎんか? 西郷さん」
それを口にしたのは、俺、坂本龍馬だった――
無意識のうちに自然と口から出てきた本心。
ここから会談の流れが大きく変わっていくのを示すかのように、江戸の空は真っ黒な雷雲に覆われたのだった。
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