火種の行方
◇◇
慶長四年(一八六八年)四月一一日――
ついにこの瞬間がやってきた……。
『江戸無血開城』――
正式に徳川慶喜が水戸へ謹慎する処分が決まり、城で出迎えた大久保忠寛に西郷隆盛の口から直接伝えられた。
こうしておよそ二六〇年に渡り続いた、徳川宗家による江戸支配は幕を閉じた。
それは名実ともに、江戸幕府の息の根が完全に止まったことを意味していたのだった。
しかし……。
勝海舟が懸念した『火種』は確実に北へと近づいていった。
「諦められん……『開陽丸』がある限り……そして八万の武士の命がある限り……俺が諦めるわけにはいかないのだ!」
そう周囲に漏らした榎本武揚が江戸城を脱出。そして『開陽丸』を含む、多くの軍船を率いて北へと航路をとった。
彼と行動を共にした旧幕府の武士はなんと二〇〇〇人にものぼった。
つまり一隊の軍勢が江戸から東北を目指して海を渡っていったのであった。
さらにもう一つの『火種』が生まれようとしていた……。
それは赤坂にある勝海舟の屋敷からであった。
「もはやてめえらのお役目は終わったんだよ。もうこれ以上、無駄な血を流すな」
「……勝さん。俺の質問に答えてくだされ。……近藤の命を助けてはもらえませんか……?」
「それは……わりいが俺の力ではどうすることもできねえ」
勝海舟は、目の前の無表情な男にそう答えた。
新撰組の副局長、土方歳三だ。
彼は、囚われの身となってしまった近藤勇の助命嘆願に、勝海舟のもとを訪ねていた。
しかし海舟の手でどうにかなるものではなく、土佐藩の強い意向もあって、近藤は『死刑』となるのが決定的となったのだった。
それを悟った土方は無表情のまま、両目から滂沱として涙を流し始めた。
「……そうですか……では、これ以上の長居は無用でございますゆえ。それがしはこれにて失礼いたします」
「おい待て! 土方! てめえはこれからどこへ行くってんだ?」
土方はぴくりと肩を震わせると、海舟に背を向けたまま答えた。
「死に場所を探しに北へ……」
「ばかやろう。命ってのは、そんなに粗末にしちゃなんねえ! 駄目な時は何をやっても駄目なもんさ。ここは大人しくして日の目が訪れるのを待った方が得策ってもんだ」
「…‥勝さん。武士ってのは、『一分』があるとおうかがいしました。それがしは武士に取り立てていただいてからまだ一年しかたっておりませんが、最期くらい武士として生き抜きたいのです」
「ばかやろう!! お前は大馬鹿だ!」
「……ええ、それがしは『頭』で考えるのは、昔から苦手なのです」
そう言い残して、胸を一つ叩いた土方は江戸を去った。
そして激戦となる『北』へと向かっていったのだった――
だが、『北』へと行動を開始したのは、戦争の『火種』たちだけではなかった。
「おうおうおう!! やっとここまで来ちょったわぁ! もうすぐだぜよ! りょうまぁぁぁ!!」
日本海の空にこだましたのは『海援隊』の船に乗る岩崎弥太郎の叫び声だった。
彼らはようやく長崎を離れられるようになると、すぐに箱館を目指して出航したのだ。
「おうい、弥太郎。また片付けをさぼってると、陸奥にどやされるぞぉ」
「やいやいっ! 新宮! せっかく人が気持ちよく風を感じている時に、なんちゅうことを言うんじゃ!」
「こらぁぁぁ!! 弥太郎!! 貴様、今までさんざんサボっておきながら、何をしておるかぁぁ!」
「げっ!! 陸奥!! あいつを怒らすとろくなことにならん!」
弥太郎は船の中から響いてきた怒声を耳にした瞬間に、弾けるように持ち場へと戻っていった。
するとそんな弥太郎と入れ替わるようにして、一人の美女が姿を現した。
すらりと伸びた背に、豊かな胸。艶やかな黒髪を風になびかせている。
きゅっと上がった目は彼女の強い意志を示しているようだ。
だが口元にはもうすぐ愛する相手に会えることへの喜びを示す微笑が浮かんでいた。
「ああ……愛しの龍馬さん。もうあなたと私は『二度と』離れません。もし、二人の仲を裂こうとする者があれば……」
そこで言葉を切った彼女。
次の瞬間……。
みるみるうちに彼女の表情が変わっていった。
そしてついにそれは……。
まるで見た者を石に変えてしまう悪魔のようなものになった――
「何人たりとも許さぬ。たとえ天子様であろうと、将軍様であろうと……くくくっ」
彼女の名は『おりょう』。
坂本龍馬の妻であり、龍馬にとっての『火種』であった。
さらに龍馬の『火種』は彼女にとどまらなかった。
この日、箱館の港に一人の美女が降り立った。
「ここが箱館ね! ったく龍馬ったら……人の行き来ができるようになったら、わたしを迎えにきてくれるって約束だったのに!」
そう小さな頬をぷくりと膨らませて、目をきりっと吊り上げていたのは……。
はるばる江戸からやってきた千葉さな子であった――
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