江戸無血開城

◇◇


 少しだけ話を戻す。

 慶長四年(一八六八年)一月一五日――

 

 江戸城の評定の間では議論が紛糾していた。

 既に『元将軍』徳川慶喜は、『朝敵』と天皇から認識されており、徹底的に追い詰められいた。

 しかし彼の周囲の人の中には「まだ挽回は可能である!」と主張する者も少なくなく、新政府軍に対して『徹底抗戦』か『降伏』かで、再び揺れに揺れていたのだった。

 

 その部屋の隅には、勝海舟の姿もあった。

 謹慎していた彼であったが、慶喜による直々の要請もあって、『陸軍総督』として再び表舞台に舞い戻ってきたのだった。

 

「兵力の上では、まだ我が軍が勝っております! それに会津や庄内も『抗戦』を決めております! 諦めてはなりませぬ!」


 そう声高に慶喜に詰め寄ったのは榎本武揚だった。

 そして彼を援護するように声をあげたのは小栗忠順(おぐりただまさ)だ。

 

「敵主力は必ずや東海道を進んできましょう。十分に引きつけた後、『開陽丸』を中心とした海軍で駿府を抑える。しかるのち、江戸から陸軍が電光石火の突撃をかければ、敵を前後から攻められましょう。勝利以外は考えられませぬ」


 小栗と榎本が顔を合わせると、互いに笑みを浮かべてうなずきあう。

 そして彼らの視線は、部屋の隅、すなわち勝海舟に向けられた。

 

「勝殿はいかがお考えか!? お主のご意見をうかがいたい!」


 武揚が突き抜けるような声を海舟に向けると、海舟はめんどくさそうに頭をかきながら顔を上げた。

 

「俺なんかに聞くんじゃねえよ。上様がお決めになられることだ。俺は上様の決定に従って行動するだけだ」


 海舟の発言により、人々の目は一斉に慶喜に向けられた。

 だが彼らは一様に慶喜に対して期待をしていなかった。

 

――また何も『決断』できずに、場をはぐらかすに違いない……。


 そう思っていたのだ。

 しかし……。

 

「もうわれは『将軍』ではない! ならばこれ以上、戦う必要などない! われは上野の寛永寺にて謹慎することとする! あとはお主らでどうにかせよ!」


 と、きっぱり言い切ったのだ。

 もちろん主戦派は黙っていなかった。特に小栗忠順は鬼気迫る顔で慶喜へ詰め寄った。

 

「上様! なりませぬ! そうなっては武士たちの多くが路頭に迷ってしまいます! 今まで天下泰平のために忠義を尽くしてきた彼らに対して、あまりの仕打ちでございます! どうかお考え直しを!!」

「ええい! しつこいぞ! 小栗! お主の任は全て解く!! 田舎にでも行って、大人しくしておれ!!」

「な……なんですと……」


 あ然とする忠順をそのままにして、慶喜は側近の大久保忠寛を連れて評定の間を去っていった。

 主君が去っていった部屋は、しばらく沈黙に包まれた。


「くそっ! ありえん!!」

 

 と、榎本武揚は憤慨を抑えきれず、即座にその場を立ってどこかへ消えていってしまったが、彼に続く者はついに出なかった。

 なぜならみな忠順のように解任と蟄居の命令を恐れていたからだ。彼らは何も口を出さず、すごすごと部屋を退出していったのだった。

 

「小栗殿……立てるかい?」


 最後まで呆然としたまま立てないでいた忠順に対して、海舟が手を差し伸べながら声をかけた。

 忠順は、海舟の手を借りることなく、彼に向かって一つ礼をしたのち、無言で部屋を出ていった。

 海舟はその背中を見つめながら、ぼそりとつぶやいたのだった。

 

「こっちにも『人』はいるのにねぇ……ぞんざいに扱いやがって……余計な『火種』にならねばいいが……」


 と……。

 

 

 こうして『戦争回避』を決定した慶喜だったが、自らが新政府と交渉することはしなかった。

 彼は全ての交渉を、西郷吉之助と面識のある勝海舟に一任したのだ。

 

 そして、慶長四年(一八六八年)三月一四日。

 歴史に残る運命の会談、西郷吉之助と勝海舟の二度目の会談が行われた。

 議題はただ一つ。『江戸無血開城』についてだ。


 実は会談が始まる時点でイギリスの外交官、ハリー・パークスの強い要請により、新政府は江戸総攻撃の取りやめの意向を固めていた。諸外国との交易に影響が出ては困るからという、薩摩藩の判断からであった。

 そのため、『江戸無血開城』はほぼ既定路線であり、会談は思いがけず順調に進んだ。

 そして一通りの城の明け渡しの段取りを話し終えたところで、海舟は西郷に対して茶の入った盃を手渡したのだった。


「おめえさんは酒が駄目だったよな?」

「お気遣いいただき、かたじけない」

「まあ、そうかしこまらさんな。もう固え話は終わったんだからよ。これからは『友人』として、肩の力抜いて、少し話そうや」


 それを聞いた西郷は大きい目をさらに大きくして「あいがとごわす」とつぶやき、手にした盃を一気に飲み干した。

 

「ぷっはぁぁぁ! 生きかえっっ!!」

「おうおう! いい飲みっぷりじゃねえか。ささ、茶菓子でも食ってよ」

「あいがとごわす!」


 甘いものには目がない西郷は、海舟から出された茶菓子に食らいつく。

 その様子を目を細めながら見ていた海舟は、さらりと問いかけた。

 

「ところでよぉ。坂本の行方は分かったのかい?」


 その問いかけに一度食べる手を止めた西郷は、ぎろりと海舟を見た。

 

「勝せんせ。しらじらしかど。勝せんせは坂本ん行方をごぞんじやろう」

「あははっ! やっぱり隠せたもんじゃねえな! ……んで、坂本をどうするつもりよ?」


 海舟の目が少しだけ鋭くなったが、西郷は相変わらず熊のようなまんまるの目で答えた。

 

「そんたおいん考ゆっこっではあいもはん」

「相変わらず何を言ってるかよく分かんねえ言葉を使いおるな……。まあいいや。分かった、確かにお前さんが考えることじゃねえな。だがよ……。もし、坂本が新しい世に居場所を求めたら、お前さんたちはどうするつもりよ?」

「それもおいん考ゆっこっではあいもはん!」

「ほう……っちゅうことは、それを考えるのは、大久保か? それとも容堂公か?」

 

 海舟が身を乗り出して問いかけると、西郷は再び茶菓子を口にほおばりながら、何でもないように答えた。

 

「そんた坂本どん自身が考ゆっことじゃて思いもす」

「ほう……坂本自身が身の振り方を考えればいいってことか。しっかしよぉ。それがお前さんたちにとって都合がわりいもんだったらどうするよ?」

「例えば?」

「例えば……そうだなぁ……会津や庄内を許せ、とか」


 なお江戸城は無抵抗で開城が決まったが、未だに会津藩や庄内藩は、薩長が中心となっている新政府への対決姿勢を崩していない。

 この頃にはそれらの藩への征伐計画も具体的に進められており、江戸と徳川宗家の仕置きが整い次第、新政府軍は東北地方へ進軍していくのを決めていた。

 後世に言う『東北戦争』であった。

 

 海舟はその東北戦争に龍馬が反対の意向を示したら、龍馬をどうするつもりなのか問いかけたのである。

 すると西郷はこれまでと同じように、さらりと答えた。

 

「そんたおいん決むっことじゃらせん。三職ん会議によって決めらるっことじゃ。たて坂本どん一人が反対してん、会議で否決されれば、それまでんこっじゃ」


 西郷の言葉に目を丸くした海舟は、ふぅと肩を落とすとつぶやくように言った。

 

「お前さんも随分と変わっちまったなぁ。昔はもう少し、血の通った男だったぜ」

「そんたどげん意味じゃしか?」

「じゃあよ。一つ聞くが、お前さんは坂本のことが好きか?」


 今度は西郷の目が丸くなる。そして彼はぐっと腹に力をこめると、大きな声で答えた。

 

「おいは坂本どんのこっが好いちょっ!」

「へへへっ。そうかい、そうかい。なら聞くが、今坂本のいる箱館が、お前さんたちの手によって戦争に巻き込まれたらどうするよ? 坂本の身が危なくなっても、お前さんは箱館の街を焼け野原にするつもりかい?」

「それは……三職ん会議で決まったなら、そうすっより他あいもはん」

「そうか……まあ、お前さんの立場なら、そう答えるしかねえわな」


 淡々とした口調で言った海舟は、なおも茶菓子に手をかけている西郷をしり目に一人で席を立とうとした。

 

「勝せんせ。もうお開きやろうか?」


 西郷の問いかけに、顔だけ彼に向けた海舟は、手をひらひらと振りながら答えた。

 

「好きなだけ食ってけや。俺はやらなくちゃなんねえことがあるからよ」

「そんたなんやろうか?」

「無神経に思われるかもしれねえがよ。俺は『友』の命を軽くできねえ男なのよ」


 西郷は言葉を失ってしまった。

 すると海舟は最後に付け加えたのだった。

 

「坂本は大事を成す男よ。しかし大事を成すには寿命が長くなきゃなんねえ。俺はその手助けをしてえんだ。そして坂本がこの灰色の日本にどんな色を加えてくれるか、この目で見てみてえんだよ。それはここで考えたことじゃねえ」


 海舟は自分の頭をちょんちょんとつつく。

 そして今度は胸をどんと叩いて言ったのだった。

 

「ここで感じるんだよ! てめえは何も感じねえのかい? 西郷!」


 と――

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