箱館奉行の裁定
「正一郎! 待て!」
父の鋭い一言に、俺の腕を掴む正一郎の力がわずかに緩んだ。
俺はその隙をついて、彼の手を振りほどくと、三人からわずかに距離を取る。
しかし、佐々木高行と正一郎の二人によって扉は完全に塞がれており、この場を逃げ出すのは無理だ。
そもそもここを抜け出したところで行くあてもないし、すぐに捕らえられてしまうのが落ちだ。
こうなれば正一郎を止めた杉浦誠に、一縷の望みを託すより他なかったのだった。
「父上! もはやこやつは『坂本龍馬』であり、土佐の『罪人』でございます! 身柄を佐々木殿に引き渡す他にございません!」
正一郎が顔を紅潮させて父の言動に抗議したが、杉浦誠は静かに首を横に振った。
「正一郎。わしらは肝心なことを忘れてはならぬ」
「肝心なこと? 罪人にしかるべき罰を与えること以上に肝心なことなどありましょうや!?」
「わしらは誰から禄を頂戴しておる? 誰に忠義を誓っておる?」
「それは……上様に決まっております!」
「ならばその上様のお近くで奉公されている方の『命』にも従うべきであろう」
さっと正一郎の顔が青ざめたのは、父の『覚悟』に気付いたためだろう。
そして杉浦誠は、淡々とした口調で続けた。
「わしらは勝海舟様の『命』によって、『近藤太一』殿の身柄を預かっておる。ついては、ここには『坂本直陰』なる者はおりませぬ」
「父上!! 勝殿よりも容堂公の方が遥かにご身分が上なのですぞ!!」
「そんなことは言われんでも分かっておるわぁぁぁっ!!」
ついに杉浦誠は空気が裂けるような咆哮で正一郎を一喝した。
あまりの大声にそれまで冷静沈着な態度を貫いてきた佐々木高行でさえも目を丸くしている。
俺にいたっては驚愕のあまりに尻もちをついてしまったほどだ。
だが、彼は俺たちの反応など気にすることもなく続けた。
「近藤殿が箱館の人々をまどわし、乱れを生む輩なら、わしとて近藤殿が『坂本』なる者であろうとなかろうとここから追い出すであろう」
「まさか……父上……」
正一郎が青い顔をして首を横に振る中、杉浦は部屋の外に向かって大声で呼びかけた。
「与太郎!! 入れっ!!」
「はっ!!」
杉浦の言葉に弾かれるようにして部屋に入ってきた小姓の与太郎。
彼はペコリと頭を下げると、杉浦誠を引き締まった顔で見つめた。
「与太郎。お主は近藤殿の行動を監視しておったな?」
「はいっ! 正一郎様の言いつけにより、近藤様の行動を逐一見ておりました!」
あっさりと俺の監視していたことを認めた与太郎に対して、思わず口を尖らせた。
「な……おいっ! 与太郎! そんなこと一言も聞いてないぞ!」
「あはは! 近藤様! もし一言でも漏らしたら、監視の意味がなくなってしまうではありませんか!」
「むむぅ……それはその通りだが……」
一六歳の与太郎にやりこめられた三二歳の俺……。
情けなさと恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうつむいてしまったが、杉浦は全く意に介さずに続けた。
「では、近藤殿の箱館での様子を報告せよ」
「はいっ!」
杉浦の命令に「コホン」と一つ咳払いをした与太郎は、胸を張って大声で話し始めた。
「ここへこられた当初は奉行所内にこもっておられましたが、奉行所内では身分にとらわれず、誰にでも親しくされておられました。そして、近頃ようやく寒さが和らぎ、外に出られることも多くなりました。すると、街でも同じように、どのような者であろうと声をかけており、奉行所内と街のみなが近藤様を慕っております!」
生き生きと声を張り上げている与太郎を目を丸くして見つめると、彼はニコリと俺に微笑み返した。
そしてさらに声を大きくして続けたのだった。
「困っている者がいれば助け、よく人の話を聞き、みなとともにいつでも笑っておられます! もはや街で近藤様を知らぬ者はおらず、街になくてはならぬお方と言えましょう!」
「与太郎!!」
俺は感動のあまりに彼の名を叫んだ。
与太郎はなんていいやつなんだ。
しかし、感動にひたっていた中で、冷水を浴びせるような言葉を投げかけたのは、なんと杉浦誠だった。
「与太郎。まさかお主、この男に毒されて、嘘をついている訳ではあるまいな?」
鋭い問いかけに対して、与太郎は臆することなく答えた。
「いえ、全てまことのことでございます」
「なら、それを証明してみせよ」
「ええ、かしこまりました。少々お待ち下さい」
そう告げて、一度部屋を出た与太郎。しかしすぐに彼はここに戻ってきた。
しかし彼は一人ではなかった……。
「太一さまぁ! わたしは太一さまが大好きです!」
「近藤殿!」
「近藤様!」
「タイチサン!」
なんと大勢の人々を引き連れてきたのだった。中には交易にやってきた異国人までいる――
「箱館の街の人々をお連れしてまいりました。どうぞ彼らの口から直接お聞きください」
「そんな馬鹿な……父上……まさか最初からこうなるように仕組んでおったのですね……」
それは正一郎の言葉の通りに違いない。
杉浦誠は佐々木高行から書状を受け取った時点で、俺が『罪人』として箱館から連れ出されないように、与太郎と考えを巡らせたのだろう。
そうでなければ、こんなにすぐに大勢の人々をこの場に引き連れてこれるはずがない。
つまり杉浦誠と与太郎の二人は俺を助けようとしてくれている。
普段から親しくしている与太郎がそうしてくれるのは、分からないでもない。
しかし……。
なぜだ!? なぜ杉浦誠はそこまでして俺を助けようとしているのだ!?
俺がぽかんと口を開けながら杉浦誠の顔に視線を移すと、彼はそれまでの険しい表情に、かすかな笑みを浮かべた。
「これではっきりいたしました。仮に近藤殿が『坂本』であったとしても、箱館の人々にこれだけ慕われている者が『罪人』として送り返されようとしているのを、箱館奉行として黙って見過ごすわけにはいかぬ」
「杉浦殿……自分が何をしているか、本当に分かっておられるのか?」
高行が冷たい瞳を彼に向ける。
しかし彼は毅然とした態度で答えた。
「もちろんでございます。近藤殿を『罪人』にするわけにはいかない。それがわしの出した答えだ。異論があるなら容堂公から上様に申し出るようお伝えくだされ」
「容堂公がこのまま引き下がられるとは思えませぬ。次はどんな者を差し向けられるか、しれたものではございませんぞ」
「元より刺し違える覚悟である。さあ、お引き取りあれ」
彼はそう告げると、扉を開けて高行に退出を促した。
こうなれば高行は出ていかざるを得ない。
未だに何が起こったのかよく分からずに目を点にしている俺をじろりと睨みつけた高行。
だが、次の瞬間……。
なんと彼もまた微笑を口元に浮かべたのだ。
それは決して『敵対』を意味しているものではなく、むしろ『友好』を表したものだった――
「坂本……。負けんなよ」
そして佐々木高行は正一郎に連れられて部屋を出ていった。
その次の瞬間だった――
――ワアッ!!
と、大歓声が起こったかと思うと、箱館の街の人々が俺に抱きついてきたのである。
「良かった! 良かったよぉ!」
「これからも一緒に笑ってくだされ!」
俺は人々にもみくちゃにされながら、杉浦誠の方へ目を向けた。
すると彼は穏やかな微笑みを俺に向けた後、一礼をして、そっと部屋を出ていったのだった――
◇◇
どうにか危機を乗り越えた俺、坂本龍馬は、この日の夜、杉浦誠が設けた酒の席に誘われた。
そこには彼の他に、佐々木高行を港まで送り届けた正一郎、そして部屋の隅には与太郎の姿もあったのだった。
俺は杉浦誠の手招きにしたがって、彼の隣の席に座ると、彼から酒の入った盃を手渡された。
「ありがとうございました。これで罪人として京へ送られずにすみました」
そう俺が頭を下げると、彼は真面目な顔つきのまま答えた。
「礼にはおよびませぬ。わしは街のために当然のことをしたまででございます」
「街のためですか……」
「ええ、近藤殿が街の者たちから慕われているのは、前々から与太郎に聞かされて知っておりましたからな」
俺はちらりと与太郎へ目を向けると、彼はニコリと微笑んで、頭を小さく下げた。
俺もまた彼に感謝の気持ちをこめて頭を下げると、再び杉浦誠と向き合った。
「しかしなぜ杉浦殿がそれがしの肩を持ったのでしょうか?」
「肩を持った覚えはございませぬ。もし近藤殿が罪人として連れ去られれば、街で騒ぎがおきかねませんからな。街を平穏に保つのが、わしに与えられた任務でございます」
「箱館の街を平穏に保つのが、杉浦殿の任務ですか……」
「さようでございます。それ以外の理由はございません」
するとそれまで黙って俺たちのやり取りに耳を傾けていた正一郎が、ふっと口元を緩めた。
「父上。嘘はいけませんぞ」
息子の顔を怪訝そうに見る杉浦誠。
その視線を真っ直ぐに受け止めたまま、正一郎ははっきりと言った。
「父上は、かつて坂本龍馬に『一目惚れ』したのでしょう? だから坂本殿をお助けした。違いますか?」
彼の言葉に俺は衝撃を受けて、杉浦誠の顔を目を丸くして見つめた。
するとみるみるうちに彼の顔が赤く染まっていくではないか。
まるで恋した乙女のようだ。しかし表情だけは、いつもどおりに厳しいまま、ぼそりとつぶやいた。
「……違う。わしは坂本殿に『一目惚れ』などしておらん。わしが惚れたのは、『輝き』じゃ」
「輝き?」
「役職もない、一介の藩士であろうとも、大きなことを成してやろうという情熱……。その輝きに惚れただけだ」
その言葉を最後にしばらく沈黙が続いた。
そして俺の盃から酒がなくなった頃を見計らって、正一郎が俺の方を向いて頭を下げたのだった。
「近藤殿……いや、坂本殿! これからも箱館のため、父上のためによろしくお願いいたす!」
いかにも少年らしい真っ直ぐな言葉に、俺は慌てて姿勢を正して、頭を下げた。
「こ、こちらの方こそよろしくお願いいたします!」
「それから、もう偽名はおよしくだされ。もはや街の人々もみな『近藤』殿が『坂本龍馬』殿であると知っております。これからは堂々と『坂本龍馬』と名乗りくだされ!」
「しかし……それでは、お主らの立場が……」
「ふふ、惚れた相手一人守れずして、武士と胸を張れましょうか? あとのことは父上とそれがしにお任せくだされ!」
正一郎が自分の厚い胸をドンと叩く。
彼はまだ一七歳。しかしとてもそんな年齢には見えないほどに、頼もしく感じられた。
彼の父である杉浦誠も同じように感じたのだろうか。
口元にかすかな笑みを浮かべると、ちびちびと酒をすすりだした。
最後まで全く変わらぬ表情の彼であったが、全身から感じられる喜びだけは、隠しようがなかったようだ。
静かに更けていく夜。酒の席とは思えぬほどに静かな部屋。
しかし言葉にならぬ興奮は、盃の酒を少なくさせていったのだった――
そして……。
あっという間に一ヶ月が経過した。
その後、特に山内容堂からの報せもなく、俺は『坂本龍馬』として平穏な日々を送っていた。
街の人々も俺を『坂本龍馬』として認めてくれて、今までと同じように慕ってくれている。
雫や与太郎はもちろんのこと、杉浦誠や正一郎とも笑顔で会話をかわすことが多くなった。
そんな幸せな毎日が続いていたある日のことだった。
江戸から一通の書状が俺に届けられた。
「勝先生からだ!」
なんとそれは勝海舟からのものだったのだ。
杉浦誠たちの前でそれを開くと、さっと目を通した。
するとそこには衝撃的な内容が書かれていたのであった。
「どうも奥羽、そして榎本の動きがきな臭せえ。そろそろ江戸は落ち着く。そろそろ帰ってこい。でないと……」
「でないと……?」
俺が一旦言葉を切ったのを、側にいた与太郎や正一郎が不安そうにしている。
俺はゴクリと唾を飲み込んで続けた。
「……でないと、箱館で戦争に巻き込まれるかもしれねえぞ……」
そして俺は今さらながら思い出したのだった。
近いうちに箱館が舞台となる『箱館戦争』が勃発すること。
そして、その戦争によって、箱館の街は焼け野原になってしまう『残酷な未来』を――
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