別れの江戸、出会いの箱館
◇◇
入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)――
それは江戸時代の絶対的な掟の一つ。
簡単に言えば、鉄砲を江戸へ持ち運ぶことと、江戸から女性たちが出ていくことを厳しく取り締まった制度を指す。
特に武家の女たちは、幕府による各藩の『人質』と認識されており、無許可で江戸から出るのは、すなわち幕府に歯向かうことを意味していたのだ。
『大政奉還』がなされたとはいえ、未だに世の中がどちらに転ぶか分からない情勢にあって、武家の娘である千葉さな子を、江戸から蝦夷へ連れだすことはできないと、俺は判断した。
そして前日にそれを彼女と彼女の兄である重太郎に勝邸で告げたところ、彼女は無言のまま立ち去り、それっきり顔を見せなくなってしまったのだ。
その彼女が今、出航を間近に控えた俺の前に姿を現した。
頬を真っ赤に染めて、大きな瞳にはいっぱいに涙をためている。
小雪が舞う中、白い息を吐きながら俺を見つめている彼女は、まるで一枚の絵画に描かれた美人のように浮き上がっており、際立つ美しさに俺は目を奪われて言葉を失っていた。
すると彼女は、涙まじりの声をあげた。
「うそつき! ずっと一緒にいてくれるって言ってたじゃない!」
俺はかける言葉もなく、彼女をじっと見つめ続ける。
彼女は口を真一文字に結んで、俺の方へずかずかと近寄ってくると、二歩手前のところで足を止めた。
そして、なんと短刀を懐から抜いたのだ。
周囲がざわつき始めるのを、俺は「大丈夫ですから」となだめる。
一方の彼女は、人々の喧噪など一瞥もくれずに、じっと俺を睨みつけたまま、短刀を大きく振りかぶった。
そして……。
――ザンッ!
と、彼女はひざまずくと共に、自分の袖に短刀を突き刺したのである。
――ビリビリッ!!
強引に赤い小袖を引きちぎるさな子。
彼女は、涙をぽたぽたと地面に落としながら、歯を食いしばって刀を動かし続けた。
小袖に突き刺された短刀は、彼女の袖とともにがりがりと地面を削る。
まるで彫刻を一心不乱に作っているような彼女の全身から、溢れる愛と哀しみが放たれ、見る者の涙を誘っていた。
そうしてついに片方の袖が、一枚の布切れとなってはがれた――
彼女は、無言のままそれをぐいっと俺の前に差し出してきた。
俺が彼女の気迫に押されるようにそれを受け取り、「ありがとう」と小声で礼を言うと、うつむいたままの彼女は、滂沱として流れる涙もぬぐわぬまま、声を絞り出した。
「これでずっと一緒だから……」
そう言い終えた途端に、彼女の顔がくしゃくしゃと涙で歪む。
その顔を見られたくなかったのか、彼女はくるりと振り返って俺に背を向けた。
震える彼女の小さな背中を見て、俺の両目からも涙がとめどなく落ち始める。
これで二度目なんだ……。
千葉さな子と坂本龍馬が別れるのは……。
彼女の透き通ったガラスのような心を、二度も傷つけなければならない己の運命を呪い、同時に一つの固い決意が胸を覆ってきた。
俺はその決意を、ありったけの大声で告げた。
「必ず! 必ず人が自由にどこへでも行ける日がくる! その時がきたら、必ず君を迎えにいくから! だからもう少しだけ待っていてくれ!」
彼女の肩の震えが一時だけ止まると、彼女はコクリと小さくうなずいた。
そして天を見上げて、江戸の空を震わせるような声をあげたのだった。
「わたしは、龍馬を待ってるからぁぁぁぁ!!」
あまりの大声に、港にいる多くの人々がさな子の方へ視線を向ける。
彼女はそんな視線など気にすることもなく、しっかりと前を向いて、一歩また一歩と港から離れていった。
積り始めた雪を力強く踏みしめる彼女の足音を耳にしながら、俺もまた船の方へと足を向け直して、ゆっくりと歩き始めた。
彼女の袖の切れはしをしっかりと握りしめる。
ほのかに感じる温もりは、彼女が込めた愛によるものだろう。
俺はぐっと腹に力を入れると、最後に見送りにきてくれた人へ一礼した後、船の奥へと進んでいった。
慶応三年(一八六七年)一一月二四日正午。
俺、坂本龍馬を乗せた交易船は、蝦夷の箱館を目指して出航したのだった――
◇◇
安政元年(一八五四年)に締結された日米和親条約によって、箱館港は異国に開かれた。
そこで幕府は箱館を直轄領として治めることとし、そこに『箱館奉行』なる職をおいた。
その後、箱館奉行が務める奉行所の建設が始まり、ようやく完成したのが一年前の慶応二年(一八六六年)。
後世では『五稜郭』と呼ばれる星型の城郭であった。
そして、慶応三年(一八六七年)一二月八日。
史実にはない『坂本龍馬の五稜郭入城』が実現した――
長旅を終えた俺は、ようやく箱館港に入ると、その足で五稜郭内にある箱館奉行所へと入り、奉行の杉浦誠との面会を求めた。
真新しい奉行所だけあって、床や壁の色が美しい。
通された部屋の中をなめるように見回しているうちに、一人の壮年が入ってきた。
いかにも真面目そうな顔つきの彼は、得体の知れぬ俺に対しても丁寧に礼をしてから、口を開いた。
「それがしは杉浦誠と申す」
「ご丁寧にありがとうございます。近藤太一でございます。以後、お見知り置きを……」
なお俺は自分の名を『本名』で告げた。
『本名』というのはこの場合、語弊があるかもしれない。
とにかく今の俺は『坂本龍馬』という本来名乗るべき名ではなく、『偽名』を使うことにしたのだ。
それは勝海舟からの助言からだった。
――てめえは幕府にとっちゃあ都合のわりい人だ。落ち着くまでは身分を隠して過ごすんだな。
俺は彼の言う通りに偽名を使うことにして、杉浦あての『紹介状』にも、『近藤太一をしばらく預かって欲しい』と、海舟に書いてもらったのだった。
頭を下げた俺の顔をちらり覗き込んだ杉浦の目が、鋭く光ったような気がした。
しかし、彼は俺を怪しむ様子を見せることなく、穏やかな口調で言った。
「近藤殿。勝様からの依頼とあれば、お受けしない訳にはいきません」
「ありがとうございます」
「では、お過ごしいただく部屋を小姓に案内させましょう」
彼はそれだけ告げると機敏な動きで部屋をあとにしていった。
そしてほぼ間をおかずに、彼の呼んだ小姓が俺のもとまでやってくると、俺は丁寧に客間へと通されることになったのだった。
「ここらは冬場は外に出るのも厳しいくらいの雪と寒さでしてね」
「ええ、港からここまでくるのも大変でした」
「でしょう。春がくるまでは、なるべくお部屋でのんびりとお過ごしくだされ」
「かたじけない」
そんな他愛もない会話をしながら廊下を歩いていく。
その時だった。
――ドテッ!
と、突然目の前で人が前のめりに倒れ込んだのである。
どうやら着物からして若い女性のようだ。
びっくりした俺は思わず足を止めたが、小姓は何も気にすることなく、倒れたままの彼女の横を通り過ぎていった。
「ううぅ……痛いよぉ」
「だ、大丈夫か?」
俺は思わず彼女に手を差しのべた。
歳はまだ一六か一七といったところだろうか。
あどけなさの残る可愛らしい丸顔。小さな口と鼻にぱっちりした大きな瞳が特徴の少女だ。
もちろん彼女と俺は面識はない。
彼女は俺を不思議そうに見ながら、首をかしげている。
すると小姓が、はぁと大きなため息をついた。
「近藤様。雫(しずく)はいつも同じ場所で転ぶのです。気にすることはありませんよ」
「むむぅ! 与太郎さまはいじわるじゃ!」
頬をぷくりと膨らませて抗議する彼女の仕草を見て、心に暖かいものを感じた俺はくすりと笑いがもれてしまった。
すると彼女はむっとした顔を俺に向けた。
「だいたいあなたは誰なのですか?」
「ああ、すまん。俺は近藤太一。江戸の勝海舟殿の紹介で今日からここで世話になることになったのだ。雫殿、よろしく頼む」
「も、もしかしておさむらい様?」
「ああ、詳しくは話せぬが、れっきとした侍だ」
俺がにこやかに話すと、目を丸くした彼女は、慌てて何度も頭を下げてきた。
どうやら俺が武士だとは思っていなかったらしい。
腰に刀をさしているのを見れば誰でも分かりそうなものだが、彼女の目には入っていなかったのだろうか……。
「わ、わたしはこの近くで商いを営む家の者です! 無礼をお許しくだされ!」
「いや、いいのだ。それよりも転んだところは痛くないか?」
「は、はいっ! いつものことですから!」
「ほら、いつものことだって、本人も認めたでしょう。だから近藤様も気に留めるだけ無駄ですよ」
雫はむっとした顔を与太郎に向けた後、すぐに真剣な顔つきになって頭を下げた。
「では、お使い中の身なのでこちらで失礼いたします!」
そう早口で告げたかと思うと、次の瞬間には足早にその場を立ち去っていった。
そしてしばらくした後、
――ビッターン!
と、遠くで派手に転ぶ音がしたが、恐らくそれも彼女によるものだろう。
「おっちょこちょいなおなごなのだな、雫は」
「おっちょこちょいというより、単なるあほうなのですよ」
と、与太郎は首をすくめて、再び歩き始めた。
俺は彼女の一生懸命な姿を胸に浮かべ、春のような暖かな気持ちになるのを感じながら、与太郎の背中を追っていったのだった――
◇◇
こうして俺、坂本龍馬の新しい物語の舞台は、京でもなく、江戸でもなく、そして土佐でも長崎でもなく、北の大地『蝦夷』となる。
血で血を洗うような激しい政争から離れたこの地なら、嫁探しと子作りをのんびりとするには最適だろう。
この時は、そんな風に楽観的に考えていた。
しかし……。
俺は『坂本龍馬』なのだ。
歴史の歯車が作る大きな波は、俺を『傍観者』になることを許すはずがない。
これから俺の人生は大きく動くことになるのだが……。
今の俺がそんなことを知る由もなかったのだった――
第一章 龍馬、逃げる (完)
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