誠心誠意

◇◇


 京で『新政府』と『旧幕府』の英雄たちが、明るい未来を作るための動きを加速していく中、俺、坂本龍馬は江戸の勝海舟の邸宅でひっそりと過ごしていた。

 激動の時勢とは思えぬほどに賑やかだったのは、勝邸で暮らす彼の家族らが皆明るかったからに他ならない。

 

「坂本さん! 一緒にお茶でも飲みましょう!」

「坂本さん! おやつどきですよ! 一緒に菓子でも食べましょう!」


 と、海舟の若い愛人たちは何かにつけて俺を誘いだし、世間話につき合わせた。

 もっとも、彼女たちの話はとにかく面白く、この時代の者ではない俺にとっては新鮮な内容ばかりだったので、目を白黒させながら耳を傾けていた。

 そんな俺の反応が、彼女たちにとっては嬉しかったようだ。

 勝邸で過ごすようになった翌日には、俺の周囲には常に多くの女性たちがたむろするようになっていったのだった。

 しかし、それを面白く思わない者が一人いた……。

 

「こらっ! 龍馬! こんなところで油を売って! あなたも武士なら剣の稽古にいそしみなさい!」


 言うまでもなく、千葉さな子だった。

 なぜか彼女は誰のことわりもなく勝邸に毎日出入りしている。

 しかも、太陽が顔を出してから沈むまで、ほぼ一日中居座るようになったのだ。

 もちろん彼女の目的は、俺の『目付け』のようで、彼女の目の前で少しでも他の女中たちと仲良く話そうものなら、鉄拳と木刀が同時に飛んできた。

 それでも『女の意地』というのは恐ろしいもので、海舟の愛人や女中たちは鬼のようなさな子の目を盗んでは、何かにつけて俺の側に寄ってくるのだった。

 

――まあ、怖い怖い! 坂本さんもあんな鬼にとりつかれて可哀想だわぁ!

――坂本さん! こっちよ、こっち! ここなら鬼にも見つからないから!


 まるで広い屋敷の中で鬼ごっこをしているような錯覚に陥ってしまいそうな日々が続いた。

 

 

 そんな賑やかな毎日だったので、時間はあっという間に過ぎていった。

 そしていよいよ江戸を出立する前日の夜を迎えたのだった――


「こいつを箱館奉行の杉浦に渡せば、てめえを奉行所内のどこかで住まわせてくれるだろうよ」


 と、勝海舟は一通の書状を俺に持たせた。

 それは箱館奉行の杉浦誠にあてた『紹介状』のようで、俺が住む場所に困らないようにとの配慮らしい。

 このほかにも彼は、当面の生活費や外套などの防寒具まで用意してくれているのだから、感激に胸うたれた。

 

「勝さん! 何から何まで本当にありがとうございます!」


 俺が丁寧に頭を下げると、海舟は照れ臭そうに横を向く。

 

「よせやい! 困ってる友人を見て、手を差しのべてやらなかったら、それこそ死に際に後悔するってもんだ」


 そう言うと彼は手にした盃をぐいとあおった。

 そしてそれを俺の前に差し出すと、酒をつぐように促したのだった。

 

 しばらく静かに盃をかわす時間が続く。

 今夜は江戸の街にも雪がちらついているようで、窓からちらりちらりと白いものが舞っているのが目に入る。

 大きな感謝と一抹の寂しさを胸に秘めながら、窓の方をじっと見つめていた。

 そしてちょうど俺の盃から酒がなくなったのを見計らって、海舟が声をかけてきた。

 

「ところでよぉ。てめえはもう『戻らねえ』つもりなのか?」

「えっ……!?」


 それまでの和やかなものとは異なる、重い雰囲気を醸し出す彼。

 俺は面食らって、言葉を失ってしまった。

 すると彼は低い声で続けた。

 

「これからもっと世の中は動くぜ。そんな中で、てめえは傍観者のままでいるつもりなのか?」

「いや……それは……」


 俺は答えに窮した。

 しかし海舟は、俺が何かを考える隙を与えずに言葉を続けた。

 

「記憶を失っているからとか、命を狙われているからとか、そんなちんけな理由で、てめえはてめえの可能性を潰しちまうのか?」

「しかし……俺は……」

「てめえの価値はてめえだけが決めるもんさ。どんな逆境でもてめえを殺したら、それで終いよ。どうせ一度しかねえ人生なんだ。もっと大胆に生きてみやがれってんだ」

「はい……」


 それっきりで会話は途切れ、しばらく気まずい沈黙が流れた。

 海舟の熱のこもった言葉が胸に沁みわたってきたが、俺はどうしたらいいのか、全く実感がわかなかった。

 確かに『坂本龍馬』という人が、激動の幕末のど真ん中に立って、まさに星のように輝きを放っていたことは、後世に残る数々の本からも明らかだ。

 しかしいざ自分がその人になったところで、中身は普通よりも少し劣っている大学生の『近藤太一』なのだ。

 そんな俺なんかに『坂本龍馬』と同じように輝けるはずがない。

 そう思い込んでいた。

 しかし海舟の言葉は、俺に対して『それでも逃げるな』と強く背中を押しているように聞こえた。

 不思議とこんな俺にも何かできることがあるのではないかと思わせてくれるような、力強さが感じられる。

 でも、だからと言って、今の俺に何ができるのだろうか……。

 

 そんな風に考えを巡らせていると、海舟が先ほどまでとは異なり、軽くて明るい口調で言ったのだった。

 

「いやあ、すまねえな! どうも歳とると、説教くさくなっていけねえや! はははっ!」

「いえ、ありがとうございます。何て言うか……こんな俺でも何かやらなくちゃならないな、と素直に思えてきました」


 自分の顔が熱いのは、酒の力なのか、それとも自分の言葉が恥ずかしいからだろうか。

 伏し目がちにうつむいている俺に対して、海舟はふっと口元を緩めて言った。

 

「だから下を向くんじゃねえよ。まあ、記憶を失っちまったてめえに、これ以上失うものなんてないんだからよ。てめえが信じるようにやればいいさ。ただよ……最後に一つだけ言わせてくれねえか」

「はい」


 俺は顔を上げて真剣な表情で彼を見つめた。

 彼もまた表情を引き締めて、低い声で告げたのだった。

 

「人の職には貴賤はねえ。しかし生き方には貴賤があると思ってる。貴い生き方をしろよ」


 それは中岡慎太郎の言葉と全く同じもので、俺は思わず大きく目を見開いてしまった。

 そして疑問に思ったことを素直にぶつけた。

 

「勝さん……『貴い人』ってどんな人なのでしょう?」


 俺の問いかけに、海舟の目が細くなる。

 それはまるで可愛いわが子を見つめるような慈愛に満ちた表情だ。

 そして彼は噛んでふくませるように、ゆっくりと答えた。

 

「そりゃあおめえ……『誠心誠意』で生きてるやつに決まってるだろう」

「誠心誠意……」


 ここまでで俺たちの会話は終わりを告げた。

 外は相変わらずの雪模様。

 しかしこの部屋だけは、まるで一足先に春がきたかのように、柔らかな温もりに包まれていたのだった――

 

◇◇


 慶応三年(一八六七年)一一月二四日――


 ついに俺の出立の時を迎えた。

 

――別れってのは辛気くさくてなんねえから嫌だ!


 と、言った海舟は港まで見送りにはこなかった。

 その代わりに彼の妾と小姓が何人か、小雪がちらつく中見送りにきてくれた。

 

「道中、これをお食べ!」


 と、そのうちの一人が俺ににぎり飯を持たせてくれたのが、たまらなく嬉しくて思わず涙が出そうになる。

 わずかな期間ではあったが、まるで俺を家族の一員のように扱ってくれた人々に、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

「ありがとうございましたぁ!」


 腹の底から声を出して、深々と頭を下げた俺に、人々は涙を浮かべながら激励の言葉を投げかけてくれた。

 

 みなとの別れを惜しんでいるうちに、あっという間に出航の時だ。

 俺は一人一人と握手をかわした後、一人の男の前に立った。

 それは岩崎弥太郎……。

 実は、ここで彼ともお別れなのだ。

 彼にはこの後、長崎に駐留している『海援隊』へと戻ってもらい、『海援隊』の所有する船で他のメンバーとともに箱館へと向かってもらうことにしたのだった。

 

「今までありがとな、弥太郎。お前がいなかったら、今俺はここにいなかったと思う」

「よせや! わしはおまんのためにやったわけじゃねえ! おまんが『海援隊』をわしにくれるっちゅうから手伝っただけじゃ!」


 俺は、照れ隠しでそっぽを向いている彼の右手を取ると、両手でしっかりと握った。

 

「本当にありがとう! 俺はお前に出会えて、本当に幸運だった! ちゃんと約束は守るから! もう少し待っていておくれ!」


 彼はちらりと俺を見ると、ぼそりとつぶやいた。

 

「まあ……なんちゃ。とにかく無事でいてくれや。じゃなきゃ、わしらがせっかく箱館に行っても、無駄になっちまうからのう」

「ああ、お前も達者でな!」

「ふんっ! おまんに心配されるほど、わしは落ちぶれてはいないわ!」


 最後まで強気を通した彼の手を離した俺は、ゆっくりと船の方へ向かった。

 

 ……と、その時だった。

 

「待って! 龍馬!!」


 と、俺を呼ぶ透き通った声が、冬の空に響き渡ったのである。

 俺は急いで声のした方へ振り返った。

 

 そこにいたのは……。

 

 頬を紅く染めた、千葉さな子だった――


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