一難去らずにさらに一難!?

◇◇


「箱館の街を守るために、ここに残るですってぇぇぇ!?」


 ようやく意識を取り戻した俺の耳に、さな子の甲高い声がきんきんと響き渡った。

 どうやら彼女がここへやって来たのは、勝海舟の手引きによるものらしい。

 江戸へ戻ってこない俺を心配した海舟は、彼女を寄越して俺を箱館から連れだすつもりだったようだ。

 しかし例えさな子や海舟が望もうとも、俺はこのまま箱館の街を放っておいて江戸へ帰るつもりは、さらさらなかった。

 そのことを彼女へ伝えたところ、彼女は驚愕のあまりに絶叫してしまったというわけである。

 

 そんな彼女に冷ややかな言葉を浴びせたのは雫だった。

 

「ということですから、龍馬さまは、『雫の側』から離れません。ついてはさな子さんは、どうぞ『お一人で』江戸へお引き取りください」


 ところどころ強調して言う雫に対して、さな子はきりっと強い眼光を彼女に向けて言った。

 

「ちょっと! あなたと龍馬はなんの関係もないでしょ! わたしは龍馬と『一緒になる約束』をしているの!」


「あら? それは奇遇じゃ。雫も龍馬さまと夫婦になるお約束をしているのですよぉ」


「なにっ!? どういうこと! 龍馬!!」

「ねえ、そうですよね? 龍馬さまぁ」


 二人の刺すような視線が俺に集まったところで、俺は横にいる与太郎へ視線を動かした。

 

――与太郎、お主だけが頼りだぜよ!


 という願いを瞳こめる。

 しかし彼はゆっくりと首を横に振る。そして、一つため息をついて席を立ったのだった。

 

「とりあえず、片付けるものを片付けてから、先のお話をするとしましょう」

「ちょっと待っておくれ! お主は俺を見捨てるおつもりか!?」

 

 まるで捨てられた子犬のような潤んだ瞳を彼に向けたが、彼はさっさと部屋を出ていってしまった。

 

――ぐぬぬぅ……。与太郎めぇぇぇ。


 恨めしい目を彼が去っていった扉に向けていると、二人の低い声が聞こえてきた。

 

「龍馬。では、はっきりさせましょうか」

「ええ、龍馬さま。どっちが龍馬さまにとって『大切』な人か、決着をつけるのじゃ」


「そ、そうであったか。では、廁へ行ったあとに……」


 こっそりと部屋を抜け出そうとした俺の襟首をさな子の怪力がむずっと掴む。

 

「逃げられると思うなよ」

 

 という彼女のささやきが耳元でしたところで、俺は両手を上げて『降参』の意思を示したのだった――

 

◇◇


 数時間後――

 ようやくさな子と雫の二人から解放された俺は、箱館奉行の杉浦誠の部屋へと入った。

 そこには彼の他にも、息子の正一郎と与太郎の姿もあったのだった。


「いやぁ、たいへんな目にあったぜよ」


「まったく……自業自得というものです。もう二人は落ち着かれたのですか?」


「ああ、びしっと言ってやったのさ。『今は俺のことより箱館のことだけを考えるぜよ!』と。そしたら二人にも俺の覚悟が伝わってくれたようで、大人しく見守ってくれることになったのだ」


 もちろん真っ赤な嘘である。

 実のところ、俺が態度をあきらかにできなかったため、全く解決の糸口が見当たらぬままだった。

 そこに運良く杉浦誠から呼び出されたため、それを口実に「では、また後日話し合おう!」と勝手に締めくくって、この部屋に逃げるようにしてやってきたというわけだ。

 俺が自分の部屋を去ったあとは、雫は自宅へ、さな子は宿へとそれぞれ帰っていったようで、今日はこれ以上もめることはないだろう。

 

 俺はほっと一息つくと部屋の人々を見回した。

 もうすっかり見慣れた三人の顔。

 やはり彼らといると心が落ち着く。

 これからも色々と難儀は続きそうだが、この場では箱館の未来について考えることだけに集中できそうだ。

 そう思い始めたところで、杉浦誠が真面目な顔つきで重い口を開いた。

 

「では、坂本殿も見えたところで、早速お話したい儀がございます」


 俺たちは無言でうなずくと、彼は淡々とした口調で告げたのだった。

 

「実はわし宛てに岩倉具視殿から書状が届きましてな。箱館奉行はお役御免となった。『箱館裁判所』が設立されて、それがしの代わりとして新しい知事がここに来られるそうだ」

「くっ……やはりそうなってしまうか……」


 俺の知る『史実』では、彼の言ったことは既定路線だ。

 なお『箱館裁判所』は新たな知事が赴任する前に、『箱館府』と名前を変えることになる。

 つまり今まで『江戸幕府』の直轄地であったものが、『新政府』の管轄となるために、箱館を治める首長も『箱館奉行』から『箱館府知事』へ変更になるということだ。

 予め知っていた事実とは言え、奉行の役目を立派にこなし、俺の良き理解者であった杉浦誠がここから去ってしまうことに、やるせない気持ちが先走ってしまったのも仕方ないだろう。

 だが何も事情を知らない彼らにしてみれば、俺の反応は意外だったようで、杉浦誠が訝しい顔をして問いかけてきた。

 

「ほう……坂本殿はわしがお役御免となるのを御存じでございましたか?」

「い、いや! なんとなく予想していただけのことだ! あははっ! と、ところで新しい知事とやらは一体、誰になるのかのう?」


 何も気取られぬよう、慌てて話題をそらすと、彼は一枚の書状を俺たちの前に広げた。

 そこには新しく赴任してくる者たちの名前が書かれていた。


「清水谷公考(しみずだにきんなる)様が新しい知事ですか……」


 与太郎がその名をつぶやいた『清水谷公考』は、この時まだ二三歳の青年で、公家の出の者だ。

 言い方は悪いが、実績のない彼は『お飾り』であり、実務は副知事以下の者たちが行うことになるだろう。

 赴任してくる者の名が少ないのは、今ここで務めている者たちの『留任』を求めるからに違いない。

 つまり『旧幕府側の人間』と目されている杉浦誠を、箱館から遠ざけるためだけの新知事赴任であるのは、誰の目にも明らかであった。

 

「父上はいかがされるのですか……?」


 正一郎が悔し涙を浮かべながら杉浦誠に問いかけると、彼は変わらぬ口調で答えた。

 

「わしは新たなお役目を頂戴しておる。それを果たしに江戸へ移るつもりだ」


「父上はそれでよろしいのですか!? 箱館の街が戦争に巻き込まれるかもしれないのに、相手の言いなりになってここを離れるのですか!?」


 唾を飛ばしながら詰め寄る正一郎に対して、彼は冷静に答えた。

 それはまるで息子に対して「熱くなりすぎるな」と注意しているようであった。

 

「奉公人である以上、お上の命令に背くわけにはいかぬ。それに、箱館にはお主らを残していくつもりだ。わしの代わりに街と人々を守ってほしい。よいな?」


「ううっ……父上……」


 ついに泣き崩れてしまった正一郎を、与太郎が背中をさすりながら介抱している。

 一方の杉浦誠は俺に向き合うと、書状を手にしながらとある名前を指差した。

 

「この名前も覚えてらっしゃいませんか?」

「寺村道成(てらむら みちなり)……? はて……?」


 副知事の欄に書かれた名前に覚えはないため、俺は首を横に振った。

 すると杉浦誠は、声を低くして驚くべきことを告げたのだった。

 

「このお方は、土佐藩士で、山内容堂公の側近として奉公されていた方でございます」

「そ、そんな……」


 うっすらとした俺の記憶をたどれば、箱館府の副知事は越前の者が任命されたものの、赴任前に辞任して、空位のままとなるはずだ。

 それなのになぜ土佐藩士が任命されたのだろうか……。

 

「考えられるのは一つしかございませぬ」


 杉浦誠の表情がさらに険しいものに変わる。

 俺はごくりと唾を飲み込むと、導かれた答えを口にした。

 

「山内容堂か……」


 杉浦誠は小さくうなずいた。

 

「恐らく何らかの言いがかりをつけて、坂本殿の身柄を土佐へ送るつもりでしょう」


「しかも副知事である職権を利用してか……」

「ええ……」

「くそっ! 何か手を打たねば、坂本殿まで箱館から遠ざけられてしまいます! 父上! 寺村なる者はいつここへやってくるのでしょう!?」


 泣きやんだ正一郎が目を真っ赤に充血させて俺たちの方へ顔を向けた。

 

「明日じゃ。奉行交代の儀は来月だが、その前に副知事だけは職務の引き継ぎにやってくるとのこと」

「明日!? その書状が届けられたのはいつなのですか!?」

「今日じゃ」

「ぐぬぬっ! もはや逃げも隠れもできぬように、罠にはめられたとしか思えませぬ! 父上! いかがいたしましょう!?」


 正一郎が父を問い詰めるが、彼にも答えは思いつかないようだ。

 難しい顔をしたまま考え込んでしまった。

 

 さて……。

 一難去らずまた一難といったところか……。

 坂本龍馬の人生は、どうしてこうも『危機』ばかりなのだ?

 これでは美女とともにスローライフを送るなんて、夢のまた夢ではないか!

 だが、ここでそれを嘆いていても仕方ない。

 どうにかこの危機を乗り切らなくては……。

 

 しかしいくら考えても良いアイデアは浮かんでこなかった。

 

――もはやここまでなのか……。

 

 そう諦めかけた時だった。

 与太郎と正一郎の二人が乾いた笑いを浮かべながら話しているが耳に入ってきた。

 

「坂本様はいっそのこと外国にでも逃げなくては、誰かに捕まってしまうのかもしれませんね」

「ははは……恐らく外国に行ったら行ったで、そこでも捕まってしまうに違いあるまい」

「外国で捕まったら、もう帰ってこられないかもしれませんね……ははは……」


 この会話が頭の中に入ってきた瞬間に、びびびっと電撃が走ったような衝撃に襲われた。

 

――外国で捕まる……。


「そうか!! その手があったか!!」


 俺は思わず飛び跳ねると、杉浦誠の前に立った。

 そして両腕を前に突き出すと、嬉々として告げたのだった。

 

「杉浦殿! 俺の手に縄をかけて『牢獄』に入れてください!!」


 と――

 

 

 



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