蛇と鬼。銃と竹刀。

◇◇


 再び話を箱館に戻す。

 明治元年(一八六八年)閏四月一六日――


 俺、坂本龍馬が箱館の独房に戻ってきた翌日のこと。

 箱館副知事の寺村道成が、青い顔をしてやってきた。


「いかがしたのでしょう? 寺村殿」


 眉をひそめた俺をよそに、彼はなんと牢獄の鍵を開けながら言った。


「と、とにかく俺についてきてくれ」

「え?」


 寺村道成は強引に俺の腕をとると、有無を言わせずに牢獄の外へと引っ張っていったのだった。



 そうして連れてこられたのは、かつて俺が寝泊まりしていた部屋で、俺の知る限りでは、今は空室となっているはずだ。

 だが、なぜか窓にはすだれがかけられており、昼間だというのに薄暗い。

 さらに妖艶な香のにおいが鼻をついた。


――バタン!


 俺が部屋に入るやいなや、寺村道成は外から扉を閉めると、内側から開けられなくしてしまった。

 俺は扉に手をかけながら外に向かって大声を張り上げた。


「おいっ! なにをするんだ!?」


 すると返ってきたのは、寺村道成の今にも泣きだしそうな声だった。


「勘弁してくれ! 坂本! 勘弁じゃ!」


 切羽詰まった彼の口調に、俺は身の危険を感じざるを得なかった。

 そしてそれは振り返るまでもなく、見事に的中したのだった。

 

――カチャ……。


 背中に細い鉄製の何かが押しつけられたかと思うと、不気味な音が部屋に響いた。

 その音に覚えがあった俺は、顔面から血の気が引いてしまったのだった。

 

――ピストルの撃鉄を引く音だ……。


 両手が自然と万歳をするように上がる。

 すると耳元にふぅと甘い息が吹きつけられた。

 思わずゾクリと背筋を震わせると、色欲をそそられるような若い女性の声がささやかれたのだった。

 

「その声……その姿……ああ、やっぱり龍馬さんだわぁ」

「あ、あなたは誰ですか?」

「ふふ、やはり何も覚えていないのね。わたしは『おりょう』。あなたがこの世でもっとも愛した妻よ」


 『おりょう』だと……。たしかにその名は坂本龍馬の妻として、後世にもしっかりと残っている。

 しかしなぜ彼女が今ここにいて、俺にピストルの銃口を向けているのだろうか……。

 そんな考えを巡らせていた時だった。

 

――ムチュッ……


 と、いきなり俺の唇が、彼女の唇にふさがれたかと思うと、息ができぬほどに強くおしつけられたのだ。

 

「んんっ!?」


――ぷはぁ……。


 しばらくすると彼女は大きく息を吐きながら俺を引き離した。

 ようやく目に入ってきた彼女は、誰が見ても美女と言うだろう。

 舌なめずりをする彼女の仕草に、俺の胸が高鳴る。

 彼女の目は冷たく、獲物をとらえた蛇のようであったが、彼女になら「食われてしまってもいい」と本気で思えるほど、彼女の妖艶な魅力のとりことなっていた。

 

――ドンッ!


 頭がぼうっとしている間に荒々しく突き飛ばされると仰向けに倒れる。

 その上にまたがるように彼女は腰をおろしてきた。

 

「ふふ。頭で覚えていなくても、体は覚えているに違いないわ」

「ど、どういう意味だ!?」

「あら? とぼけちゃって……」


 そう甘い声で告げた彼女は、するりと小袖を脱ぎ始める。

 俺はようやく彼女の言葉の意味が分かり、顔を真っ赤にさせた。

 

「ふふ。うぶなところは、全然変わってないんだから」


 彼女の人差し指が俺の首筋から胸元へ、つつっと動かされると、彼女は勢いよく俺の上着を脱がせた。

 

「さあ……はじめましょう。もう二人の邪魔者はいないのだから」


 俺は抵抗する術も知らず、ただ彼女の成されるがままに身を委ねようとした。

 そして彼女がいよいよ自分の着物を全部はだけようとした時だった――

 

――ドゴォォォォン!!


 と、すさまじい音がしたかと思うと、なんと固く閉ざされた扉が粉々に砕け散ったのだ。

 

「な、な、なんだぁぁぁ!?」


 驚愕のあまりに顔を真っ青にした俺に対して、おりょうは白い顔つきのまま、冷酷な微笑を扉の外に向けている。

 そして、俺たちの視線の先で、顔を真っ赤にして仁王立ちしていたのは……。

 千葉さな子であった――

 

「こらぁぁぁ!! りょうまぁぁぁ!! なにをやってるの!!」


「い、いやこれは違う! 誤解だ! 俺は悪くない!!」


「そ、そ、そ、そんな格好して言い訳できると思ってるの!!」


「いやん! 見ないで!」


 俺は思わず変な声をあげて上着を元に戻すと、一瞬の隙をついて素早くおりょうのもとから離れた。

 おりょうはそんな俺に一瞥もくれず、ただ鬼のような形相をしている千葉さな子に、凍えるような視線を向けている。

 一方のさな子の方も、相手を食い殺さんばかりの眼光で、おりょうを睨みつけていた。

 

「妻と夫の逢瀬を邪魔立てするなんて……どこの誰かしら?」


「わたしは千葉さな子。あら? 聞いてないの? 龍馬はその妻をめとる前に『婚約者』がいたのよ。つまりその妻とやらは、単なる『妾』みたいなものよ」


「ふふ。わたしが聞いているのとずいぶん違うわね。わたしは、『しつこいおなごと別れられてせいせいした』とうかがっていたのだけど」


「ははっ! ならば今の龍馬はこう思っているはずよ。『しつこいおなごを忘れられてせいせいしている』と」


 二人はしばらく視線で火花を散らしていたが、ほぼ同時に俺に向けてきた。

 そして無言で俺を問い詰めてきたのである。

 

――お前はどちらを選ぶのだ?


 と……。

 

 千葉さな子の手には『竹刀』。

 そしておりょうの手には『銃』。

 

――あっ……俺死んだわ……。


 そう心の中でつぶやくと、小さく舌を出しながら笑顔で告げたのだった。

 

「ごめん! どっちも好きっ!」


 と――

 


◇◇


 その後、なぜか俺は『無傷』だった。

 二人とも顔を真っ赤にさせて「いつかは私だけを振り向かせてみせる」とかなんとかぶつぶつ言いながら、部屋をあとにしていったのだ。

 女心とはよく分からないな。

 しかし、おりょうは『海援隊』の新たな拠点に移り住み、千葉さな子も引き続き箱館の道場へ住み続けたため、『火種』が消えることはなかったのだった――




 

 

 

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