大久保利通の信念
◇◇
東北が『破滅』への道をひたすすみ、坂本龍馬が『修羅場』を迎えていたその頃。
政局の舞台は、いよいよ京から江戸へと移ろうとしていた。
いや正確にはもう『江戸』ではなく『東京』とすべきかもしれない。
四月一一日に無血開城された江戸城は、史実の通りであれば十月にその名を『東京城(とうけいじょう)』と変える。そしてこの頃から『東京遷都』が本格的に議論され始めたからであった。
閏四月某日。岩倉具視は大久保利通とともに、目の回るような忙しさの合間を縫って東京に入った。
なお大久保利通は『東京』ではなく、『大坂』への遷都を訴えていた。
しかし岩倉具視をはじめとした複数の有力者たちは『東京』を推していたのだ。
そこで彼らはどちらが新たな御所として相応しいか見極めるために東京へと足を運んできた、というわけである。
それは彼らの視察が終わり、城をあとにしようとした時のことだった。
「おや? そこにいらっしゃるのは勝殿ではないか?」
と、岩倉具視が大手門の前で、彼ら一行を待っていた勝海舟を見つけた。
勝は「よう!」と気さくに声をかけながら片手をあげると、
「ちょっと付き合ってくれねえか」
と、二人を誘いだしたのだった。
明治元年(一八六八年)閏四月某日 赤坂のとある料亭――
勝海舟、岩倉具視、大久保利通の三人は、『私的な用事』ということで個室に入って、食事を共にすることにした。
「いやぁ、すまねえな。急に誘っちまって」
「いやいや、いいのじゃよ。ちょうど腹が空いたので、どこかで美味い寿司でも食おうかと思っておったのじゃ。のう、大久保」
「ええ、四半刻(およそ三〇分)だけなら問題ございません」
大久保利通の堅苦しい発言に、勝海舟と岩倉具視はにやりと口角を上げたが、特に批判することはなかった。
そして勝海舟は酒瓶を手にすると、「まずは一杯やろうや」と声をかけた。
岩倉具視は嬉しそうに顔をほころばせると、勝海舟の前に盃を差し出した。
「ではいただくとしようかのう。昼間っから酒を飲めるなんて、久しぶりじゃ」
岩倉具視の盃に酒が満たされたところで、勝海舟は酒瓶を大久保利通に向ける。
しかし彼は盃を差し出すことなく、首を横に振った。
「私は公務の最中ですので、遠慮しておきます」
「お主はさっきから堅いのう! 今は『公務』ではない! 『私的』な交わりじゃ! ささ! 早く盃を出せ」
「……分かりました。では、一杯だけいただきましょう」
岩倉具視に押されるようにして大久保利通は盃を差し出す。
そしてそこに酒が満たされたところで、勝が自分の盃をぐいっと前に出した。
「じゃあ、乾杯といこうか」
「ああ、乾杯じゃ」
「……まだ御一新が落ち着く前で、乾杯という気分には……」
「「乾杯!」」
大久保利通の言葉が終わらぬうちに、勝海舟らは乾杯の音頭をとると、くいっと酒を飲みほした。
「くうぅぅぅ! うっまいのう!」
「はははっ! とても貴族様とは思えねえ飲みっぷりだねえ! それに比べて大久保! そんなちびちび飲んでないで、くいっと飲め! くいっと!」
「申し訳ございませぬ。かように良い酒なら、味わって飲まねばもったいないと思いますので」
いかにも大久保利通らしい実直な発言に、口元を緩めた勝海舟であったが、彼は少しだけ眼光を強めて彼に言った。
「それもそうだなぁ。今年は『どこかのお偉いさん』のせいで、酒屋が官軍の兵隊様への炊き出しに追われて、満足に酒が作れねえと聞いた。あんまり無茶をさせると、こうして旨い酒を手に入れるのも難しくなっちまうかもしれねえな」
勝海舟の言葉に、眉をぴくりと動かした大久保利通は、彼を色のない瞳でじっと見つめた。
「それは薩摩のせいで民が苦しんでいる、とおっしゃっておられるのでしょうか?」
大久保利通の重い問いかけに、勝海舟は肩の力を抜いて目を細めると、穏やかな声で言った。
「なにも『薩摩』に限定した話じゃねえさ。勝者の軍が、敗者の全てを奪っても、誰も文句をつけられねえ。それは歴史が証明してるじゃねえか。しかしよぉ。物事には限度ってもんがある」
「勝殿はそれがしに説教がしたいのでしょうか?」
「いや、そんなつもりはねえよ。ただ……これは知ってるよな」
そこで勝海舟はひらりと一枚の紙面を大久保利通と岩倉具視の前に投げた。
岩倉具視がそれを手にすると、一目見たのちに目を丸くした。
「これは……」
それは『中外新聞』と呼ばれるもので、佐幕寄りの出版元が発行した新聞であった。
個人で発行したものとしては異例とも言える、一五〇〇部以上も刷られ、東京だけではなく、全国に出回っている。
そのうちの一つに、仙台の大槻磐渓(おおつきばんけい)が草案した『薩摩糾弾』の建白書が、でかでかと取り上げられていたのだった。
大久保利通は、岩倉具視の手もとにあるそれをちらりと見ただけで、再び勝海舟へと視線を戻した。
勝海舟は、大久保利通を心配するような声で続けたのだった。
「奥羽はかなり危ねえことになってそうじゃねえか。このまま官軍は仙台も会津も火の海にしちまうつもりかい?」
「勝殿がどうこう言える立場ではございません」
「はははっ! そりゃそうだ! だがよう。俺は心配でならねえのよ。お前さんのことも、西郷のことも。いらぬ『恨み』を買うと、ろくなことにならねえからな」
「心配御無用。これも全て、生みの苦しみというものです。多少強引に進めねば、この国は前には進みません」
「その苦しみってのは、どうしても『民』が負わねばならんのかね?」
「……堅忍不抜でございます。すなわち『苦しみ』は日本人全員が負わねばならぬものです。そして彼らの恨みを背負うのは、私の役目でございます」
「そうかい……まあ、お前さんが全てを知っていながら、それでも成さねばならねえってなら、俺がああだこうだ口を出すつもりはねえよ。ただよぉ……」
「ただ?」
勝海舟はどこか寂しそうな口調で、視線を盃に落としながらぼそりと言ったのだった。
「ただよぉ……西郷は全部知っているのかい? 全部知っていて、それを許しちまっているのかい? 俺の知っている西郷吉之助ってのは、そんな男じゃねえよ」
大久保利通は、彼の言葉に目を大きく見開くと、ほのかに頬を赤く染めながら言った。
「おいこそがせごどんを誰よりも知っちょっ! おいはせごどんを信じちょっ! もし勝どんがせごどんを悪うゆつもりなら、おいが許しもはん!」
普段の彼らしくもない荒い口調に、隣の岩倉具視は目を丸くしたが、勝海舟は目を細めて手をひらひらさせた。
「はははっ! すまねえ、すまねえ。別に西郷を責めてるつもりはねえよ。よしっ! この話はここで終いにするか! 旨そうな料理も出てきたことだ。肩の力を抜いて、食事を楽しもうや!」
勝海舟が険悪になりかけた空気を変えようと試みると、岩倉具視もそれに同調するように話題を変えた。
「そう言えば、先日、面白い客が訪ねて参りましてのう!」
「ほう。誰だい? そいつは?」
岩倉具視の調子に合わせるように、軽いのりで勝海舟がたずねた。
すると岩倉具視は、口角を上げて告げた。
「坂本龍馬じゃ」
顔色を元に戻した大久保利通であったが、瞳がぎろりと光る。
一方の勝海舟の方は、まるで知っていたかのように平静な様子だ。
彼らの反応を見ながら、岩倉具視は続けた。
「どうやら今は『誰かさんの手配』で箱館の牢獄で暮らしているようじゃのう」
「ほう。牢獄でねえ」
「くくくっ……勝殿。普通は『箱館でねえ』と反応するものではないか? それではまるで坂本が箱館にいるのを知っているかのようじゃ」
「はははっ! まあ、細けえことはどうだっていいじゃねえか。んで、その坂本がお前さんの元へ何しに行ったよ?」
「小栗上野介を箱館に連れていきおったわい」
その言葉にいち早く反応したのは大久保利通であった。
「なんと……小栗殿を……いったい何のために……」
「さあな。どうせ何を聞いても、『我の成すことは、我のみぞ知る』とか言ってはぐらかされただろうよ」
「ふむ……」
大久保利通はどこか納得しない顔で引き下がった。
すると勝海舟が身を乗り出して岩倉具視へ問いかけた。
「坂本は『戻ってくる』つもりなのかねえ?」
その問いに岩倉具視は、不敵な笑みのまま、首を横に振ると声を低くして答えた。
「いいや、戻ってくるつもりはないようじゃ」
「ほう……そいつは少し残念だ」
「くくくっ……残念がるのはまだ早いぞ、勝殿。あやつはこう言い張ったわ」
そこで言葉を切った岩倉具視は、ぐっと腹に力を込めて告げたのだった。
「坂本龍馬は『前に進む』しか能のない男だそうだ!」
その言葉と共に、勝海舟の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
そして、まるで春の到来をしった小鳥のように、満面の笑みになったのだった。
「あはははっ! こいつはおもしれえ!! さっすが坂本! 口だけ達者なのは、何も変わっちゃいねえじゃねえか!」
勝海舟と岩倉具視の大笑いする声で、部屋が満たされると、三人のひとときは和やかな雰囲気で続いた。
しかし……。
愛想笑いを浮かべる大久保利通だけは、心の中で何度もつぶやいていたのだった。
――坂本龍馬……前へ進ん先が、おいたちと同じなんか? もし異なれば、『排除』せんなならんな。
と――
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