奥羽越列藩同盟
◇◇
少しだけ時を戻す。
明治元年(一八六八年)三月二三日――
江戸開城が決まったとは言え、会津藩と庄内藩の二藩は、なおも「朝敵」として新政府の目の敵となっていた。
彼らは「奥羽鎮撫」と称し、総督である九条道孝、参謀の長州出身の世良修蔵と、薩摩出身の大山綱良をはじめとする数名が拠点とすべく仙台に入った。
そこで会津、庄内の二藩、さらに仙台藩をはじめとする東北列藩は、新政府に対して恭順の意向を示した。だが、新政府はその申し出を拒否。あくまで会津と庄内は武力で征伐する姿勢を崩さなかったのである。
庄内方面は参謀の大山の指示によって、薩摩、長州、そして仙台などの藩士で形成された新政府軍、すなわち『官軍』が進軍を開始。
そして彼らの拠点となる新庄に到着した大山綱良は大きな声でせせら笑った。
「銭も米も足らんのう。仙台はケチじゃ。その上、新庄藩の兵の弱さはなんだ? あれでは児戯としか言えん」
――あははっ!!
薩長からやってきた官軍の兵たちは一斉に大笑いをはじめる。
その様子を、仙台藩をはじめとする東北列藩の兵たちは、唇を噛んで静観するより他なかった。
――今は我慢じゃ。戦が終われば、やつらは薩摩へ帰る。
――そうじゃ。今、大人しくしておかないと、あとで難癖をつけられるぞ。
そんな声が兵たちの間でささやかれていたのは、想像に難くない。
もちろん大山綱良は彼らの目が悔しさのあまりに充血しているのを知ってはいたが、自分たちは「錦の御旗を掲げた官軍なのだ」という自負のもと、見て見ぬふりをして傲慢に振舞った。
「では、各々。いつものように」
――おおっ!!
大山の短い命令の後に、薩長からやってきた官軍の兵たちは一斉に街中へと散っていった。
すると……。
――な、なにをするんだ! 乱暴はおやめなされ!
――うるせえ! 俺たちは『官軍』だ! 大人しく金品と食料を出しやがれ!
――きゃああああ! どうか! どうかお慈悲を!!
――ぐへへっ! すぐに終わるからな!
なんと彼らはあちこちで狼藉を働きはじめたのである。
百姓や商人たちにとって大事な馬を奪っただけでなく、その馬の食料を差し出すように百姓たちに命じ、彼らが生きていくために残しておいた、わずかな青菜などを奪った。
その他、「買い下げ」と称した略奪や、街の娘をかどわして強姦するなど、悪逆非道な行為が繰り広げられたのである。
それは新庄に限ったことではない。彼らの行くところは、彼らの手によって地獄と化し、いたるところで悲鳴が響き、血が流れた。
「勝者こそ正義じゃ」
冷酷な目で彼らの狼藉を指揮していた大山綱良もまた、江戸からの商船を手勢に襲わせて、金品を懐におさめるなど、おおよそ正義とは言えぬ行動をしていた。
そして彼らは庄内藩の米蔵を襲う。
非道とも言える略奪行為だったが、それを事前に察知した庄内藩は、米を別の場所に移して事無きを得た。
だが逆上した大山は、周囲の兵たちに声を荒げて告げたのだった。
「本来ならば政府に納めるべき米を、庄内藩は不当にかすめ取った! これは明らかな『反逆行為』である! これによりあらためて庄内藩を『朝敵』とみなし、これより征伐してくれようではないか!!」
――おおっ!
後世に言う『柴橋事件』そして『清川口の戦い』へと流れていく。
ここまで圧倒的な『武器』と『調練』の差で、旧幕府軍を鎮圧してきた官軍であったが、庄内藩の強さは全く違った。
彼らは官軍に勝るとも劣らない装備と訓練が施されており、たかをくくっていた官軍を完膚無きまで叩きのめして、ついに撃退してしまったのである。
「おのれぇぇぇ! 田舎侍どもが調子に乗りおってぇぇぇ!!」
と、大山綱良は青筋を立てて悔しがったが、それでも庄内藩を不用意に攻め立てることもかなわず、最上川を挟んだ両軍の睨み合いがしばらく続いたのであった。
一方、仙台においては、官軍の兵たちの非人道的ともいえる傍若無人な振る舞いに、藩士たちの不満が高まっていった。
特に高名な漢学者である大槻磐渓(おおつきばんけい)の周囲には、連日のように人が集まり、新政府のやり方に嚇怒した玉虫左太夫(たまむしさだゆう)や星恂太郎(ほしじゅんたろう)といった者たちの激論が繰り返されていたのだった。
――官軍の参謀である世良修蔵は、街の女を容赦なく強姦し、毎日遊郭で遊びほおけておる!
――官軍どもは奥羽を小馬鹿にした歌までおおっぴろに歌っているらしいぞ!
――このまま奴らを許しては、日本は悪逆どもに支配された、卑劣な国となってしまう!
そうしてついに、新政府と奥羽列藩の間にひびが入る事件が起こる。
それは明治元年(一八六八年)閏四月一九日。
世良修蔵に対する、仙台藩士たちの風当たりが日に日に高まっていた頃のこと。
彼は仙台から追い立てられるようにして白河にて、会津征伐の指揮へとあたっていた。
そこで彼は一通の密書を新庄にいる大山綱良に対して、ひそかに送ろうとした。
――奥羽皆敵。
すなわち会津や庄内だけではなく、今まで彼らの命令に渋々ながらも従ってきた仙台や米沢も『敵』とみなすような内容だったのだ。
それは奥羽鎮撫総督、九条道孝に対して四刻(八時間)以上に渡り、書状を受け取るように詰め寄った仙台藩士たちの行動を問題視した世良修蔵が、中央の新政府に対して、増援を頼むために誇張した表現を用いただけであった。
しかし彼の密書は大山には届かなかった。
彼の動きに目を光らせていた仙台藩士たちが、密書を届けようとした使者を捕縛したのである。
そしてその内容は仙台藩士たちの堪忍袋の緒を切った。
「おのぇぇぇ! 今まで大人しく従っておれば、図に乗りおって!!」
「官軍こそ、朝敵である! 今こそ蜂起の時!」
――おおおおおっ!!
仙台藩で怒りが爆発すると、取るものもとりあえず逃げようとした世良の身を確保。
阿武隈川のほとりで斬首に処した。
さらに奥羽鎮撫総督である九条道孝は幽閉されてしまう。
完全に官軍に対して弓を引いた格好となった仙台藩主、伊達慶邦(だてよしくに)は、すぐに白石城に東北列藩の代表たちを集め、東北の現状をまとめ上げ、天皇に直接建白を行うことにした。
そこで奥羽列藩は『白石盟約書』に調印。
ここに『奥羽列藩同盟』が締結されたのだった。
明治元年(一八六八年)五月三日のことであった。
さらに翌月には越後長岡藩をはじめとした北陸の各藩がこの同盟に加わる。
これにより『奥羽列藩同盟』は『奥羽越列藩同盟』とその姿を変え、榎本武揚の手によって仙台に送られた輪王寺宮公現法親王を盟主とする新たな政権構想ができあがった。
そんな中、一人の青年が敢然と薩長の志士たちに立ち向かう『檄文』を発表した。
後世に名檄文として名高い『討薩檄(とうさつのげき)』である。
――薩摩は、天を欺き、残虐非道を極め、道徳や倫理を破壊し尽くしている。仙台や米沢といった列藩はその悲惨な現状を再三再四に渡り朝廷に訴えてきたが、もはやその旨すら届くことが許されなかった。薩摩をこのままにして、天が晴れることなどあるだろうか。これは勝ち負けではない。利害でもない。正義とは何かを問う戦いである。日本の将来のためにも、薩摩を討ち、万民を救おうではないか!
これを発したのは米沢藩士、雲井龍雄(くもいたつお)。当時まだ二四歳の彼であったが、天下に轟くほどの秀才であった。
彼の檄文は東北列藩の諸侯たちの心を鷲掴みにしたのは言うまでもない。
諸侯が心打たれるくらいだったのだから、藩士たちの瞳は『薩長討伐すべし』と燃えたのは当然といえよう。
だがそれは、いよいよ東北に血の雨を降らせるのを決定的にしてしまった。
すなわち『東北戦争』の始まりだったのである――
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