『ジャングル(密林商会)』設立!
◇◇
明治元年(一八六八年)閏四月六日 上野国群馬郡権田村――
この日、小栗忠順の処刑が行われようとしていた。
ずらりと並ぶ新政府の兵たちに、領民たちから罵声が浴びせられる。
――小栗様がいったい何をしたというのだ!
――ろくすっぽ調べもしないで、ひでえじゃねえか!
そんな中、凪の日の湖面のような落ち着いた表情で現れた小栗忠順は、人々に顔を向けると、透き通った声で告げた。
「お静かに」
彼の一喝に人々がしんと静まり返ると、彼はにこりと微笑んだ。
そして新政府軍の総督である岩倉具定の方へ顔を向けると、深々と頭を下げたのだった。
「こうなっては未練などございません。ひとおもいにお願いいたします」
潔い彼の態度に、領民たちからすすり泣く声が聞こえてくる。
村の空が悲しみに包まれる中、真新しい洋風の軍服に身を包んだ岩倉具定が一歩前に出てきた。
そして、彼は少年特有の高い声を周囲に響かせたのだった。
「小栗上野介忠順に告ぐ! 反乱を企て、人心を乱した罪は重い! よって『死刑』に処する!」
小栗はもう一度深く頭を下げた。
領民たちのすすり泣きは号泣へと変わり、空気に湿り気を与えた。
そして誰もがこの後目の間で繰り広げられる、惨殺に心を痛めていた。
……が、岩倉具定の言葉は続いた。
「ただし、領民たちの心情を踏まえるに、この岩倉具定の『独断』で、罪一等減ずるが妥当と判断した! よって、『死刑』は撤回! 小栗は箱館の牢獄に収監! その他の家族および下人たちはみな引き続きこの村で静かに暮らすように! 寛大なわれの裁定に感謝いたせ! よいな!」
急転直下の展開に、小栗も領民たちも事態を飲み込めないでいる。
一方の具定は、一つのことをやり遂げた後の晴れ晴れとした表情で、後方へ下がっていった。
そして彼と入れ替わるように二人の男たちが小栗の前にやってきた。
「それがしは箱館府の副知事、寺村道成と申す。お主のことはわしが責任を持って、箱館まで送り届けよう。さあ、立て!」
腰が抜けてしまっている小栗は、寺村ともう一方の男に両脇を抱えられるように立ち上がった。
そして焦点の合わぬ目を寺村に向けると、彼に問いかけた。
「どうしてだ? どうして俺の命を助ける?」
「さあな。だが、総督殿は『独断』とおっしゃっていたではないか」
小栗はまばたきもせずに首を横に振ると、徐々に声を大きくして問い詰める。
「違う……違う、違う!! あんな小僧が『独断』で救えるほど、俺の命は軽くないはずだ! 絶対に『裏』で糸を引いておる者がいるはずだ! 俺を生かして何をさせるつもりだぁぁ!!」
激しく暴れ出す小栗。
領民たちは彼のもとへ駆け寄ろうとしたが、新政府軍の兵たちによって取り押さえられる。
まるで一揆の前触れのような不穏な空気に包まれる中、寺村と共にやってきた男が小栗にそっと耳打ちした。
「小栗さんを生かしたのは、箱館の人々の『幸せ』と『笑顔』を守るためだ」
その言葉に小栗の目が大きく見開かれ、その男の顔を凝視し始めた。
彼にとっては見覚えのない顔だ。
しかし、その瞳から感じられるあくなき情熱に、彼は吸い込まれそうな心地がしてならなかった。
「……お主は何者だ?」
すると男はにんまりと笑みを浮かべて答えたのだった。
「俺は龍馬。坂本龍馬と申します」
と――
◇◇
明治元年(一八六八年)閏四月一五日――
俺、坂本龍馬はちょうど一ヶ月の旅を終えて、箱館に帰ってきた。
特に街の様子は変わらず、活気と笑顔にあふれているが、一つだけ気になったのは、いつの間にか千葉さな子が北辰一刀流の道場を開いて繁盛していることだ。
どうやら彼女は本格的にここで暮らすらしい。
俺は人々の歓迎を受けながら五稜郭に入ると、そのまま牢獄へと足を運んだ。
そしてこれまで過ごしていた独房に入り、目の前にある別の独房に小栗忠順を入れたのだった。
もちろん毛布や食事などは全て俺と同じものを彼にも与えた。
「なぜお主まで牢獄に入るのだ?」
小栗忠順が不思議そうに俺にたずねてきた。
俺は首をすくめると、軽い調子で答えた。
「なんだかんだでここが落ち着くからだ。それに小栗さんといつでも話ができるからな」
「それがしと話だと……?」
「ああ、色々と教えてくだされ。この通りだ」
頭を深々と下げると、頭上から彼の声がこだました。
「まだ協力すると約束した覚えはないが……」
ここに到着するまでの間、『記憶喪失』であることや、箱館の街が戦争の危険にさらされていることなどをつぶさに話していた。
そして戦争を回避するためにも、榎本武揚と新政府の両方を『味方』につけることを考えていると、さらに彼らに対して『経済力』をもって交渉に臨むつもりであり、通販会社『ジャングル』を設立したいと語ったのだった。
だが、これまでの彼の反応は思わしくなかった。
徳川慶喜より蟄居を命じられた時点で、彼の心は死んでしまったのかもしれない。
もうこの世に未練がないとの彼の言葉は、まさに本心だったに違いない。
そんな彼の心を焚き付けるには、『箱館の街を救うため』という名分では小さすぎたと感じる。
ならばもっと大きな『夢』で彼の心を動かすしかない。
そう決心した俺は、少し先の未来について『展望』という形で話した。
「徳川様の世が終わり、御一新(明治維新のこと)によって、もっとも苦しむのは誰であろうな?」
ぴくりと眉を動かした彼は、淡々と返してきた。
「さあ……もしかしたらそれがしがもっとも苦しんでいるかもしれません。死にたくても死にきれなかったのですから」
「ははは! それは違うな! 断じてそうではない!」
「ほう……では、おうかがいいたしましょう。坂本殿は誰が一番苦しむとお考えか」
立て板に水のような滑らかな会話の流れを一度切った俺は、ぐっと腹に力を入れた。
そして声高に語りかけたのだった。
「それは……『民衆』ではないか! 行き場を失った多くの『武士』! 租税の仕組みが変わり、作物を銭に替える術を知らずに困り果てる『民』! 一部の豪商や政治家たちは、自分たちの懐が暖かくなるように世の中の仕組みを作るであろう。しかしそのしわ寄せは必ずやどこかに生じる! それが『民衆』であってはならぬ、そうは思わんか!? 小栗さん!」
小栗忠順は、ぎゅっと目をつむり、顔をしかめた。
今、彼の心の中には一度捨てたはずの『情熱の炎』が再びくすぶり始めている証だ。
俺はさらに続けた。
「ここ箱館、そして広くは蝦夷で、行き場を失った『武士』の行き場を作ってやろうではないか! 銭を得るのに困っている『民』たちから農作物を買い取ることで銭を施す。さらに、農作物を加工する『仕事』を与えることで、生活を豊かにしてやろうではないか!」
「……そんなことできるはずが……」
「できるっ! いや、俺たちの手でやってやるんだ!!」
彼の言葉を強引に遮って、俺は言い放った。
彼は目を丸くして、再び言葉を失っている。
そこで俺はありったけの声で高らかと宣言したのだった。
「日本で暮らす全ての人々の『幸せ』と『笑顔』を守る道こそ、『武士道』だ!! 小栗忠順は真の武士なんだろう!? ならば武士道を忘れたらいかんぜよ!!」
言いたいことは全て言い切った。
あとは彼自身の問題だ。
彼が忘れてしまった『情熱』を取り戻さなかったら、もうこれまでだ。
諦めるしかないだろう。
彼の目に光が灯る。しかしまだその光は弱々しい。
――このままではまずい……。諦めるしかないのか……!?
俺が悔しさのあまり、唇を噛んだ時だった。
「だからおまんはいっつも口だけだって言っちゅうやろうが! 何度言えば分かるんじゃ!!」
という、岩崎弥太郎の甲高い声が牢獄中に響き渡ってきたのだった。
俺たちの前に姿を現した彼は、俺に向かって唾を飛ばしながら文句をつけてきた。
「でっかい声が聞こえてくると思うて耳をすませてみれば、とんだ夢物語ばっかりじゃ!」
「やいっ! 弥太郎! 今の話のどこが夢物語なんだよ!」
「まずは武士の行き場を作るじゃとぉ!? 何人の武士がおったと思うちょるがや!? 幕府だけで八万じゃぞ! そんな人数をどこに住まわせて、何して働かせるっちゅうのじゃ!」
弥太郎の鋭い質問に、言葉が出てこない。
確かに彼の言う通りだ……。
現実的に考えて、俺の言ったことはかなうはずもないのだ……。
「わしはおまんのそういうところが大っ嫌いなんじゃ! なにが『武士道』じゃ! そんなん甘っちょろいもんで飯が食えたら、こんなに苦労しちょらんわ!」
俺の顔が下を向いていく……。
しかし、次の瞬間――
「武士道をなめるな……」
と、ぼそりとつぶやく声が目の前からしたのだ。
そしてその声は、今度は優しいものに変わって俺に向けられた。
「坂本殿。下を向いている暇などありませんぞ」
「えっ……!?」
それは小栗忠順であった。
俺ははっと顔を上げて、彼の瞳を覗いた。
すると……。
そこには煌々と『情熱の炎』が灯っていたのだった――
「八万ごときならどうにでもなりましょう」
「はぁ!? 何を言い出すかと思えば、小栗殿っちゅう御方は、随分と大きなことをおっしゃる方なんじゃのう!」
弥太郎の嫌味をこめた口調に、小栗忠順はふっと口元を緩めた。
そして淡々と続けたのだった。
「箱館より北……もう少し樺太や東西の蝦夷を見渡せる場所に『新しい街』を作りましょう。そうすれば何の問題もありません」
「ま、ま、街を作るじゃとぉぉぉ!?」
「ええ、確か……『札幌』なる場所が適当と、江戸で務めていた頃に誰かから聞きました。そこに大きな街を作ってしまいましょう」
「ぐぬぬ……なら『農作物を買って銭を与える』なんてできるはずがなかろう!! 買ってからここへ運ぶまでにどんだけ銭がかかると思うちょるのじゃ!!」
「それもどうにでもなりましょう。運ぶのに銭が必要なら、近くで作ればよい」
「な、な、な、なにぃぃぃ!?」
「蝦夷は広い。ゆえに広いことを利用した作物の作り方ができましょう。銭で困っているものたちに耕作の土地と農具を貸し与えれば……一〇年あれば、日本一の農作地が作れましょう」
さらさらと流れるように話す小栗忠順に、さしもの弥太郎も口を開けたまま黙ってしまった。
すると小栗は俺に向き合って、淡々と続けた。
「通信販売……実に面白い。では、『注文』は『電信』で受けましょう。そのためには、『電信網』を通さねばなりません。技術面の支援も異国より入手せねばなりません。しかし、レオン・ロッシュあたりに頼めば、手配してくれるかもしれません」
「ああ! 頼む!」
「うむ、次に『生産』。全ての生産における基礎は『材料』です。そこで『鉄』と『紡績』。この二つは必須と言えましょう。すなわち『製鉄所』と『紡績工場』。この二つを早急に作る必要があります。資金は三井組をはじめとした江戸と大阪の商人から投資してもらいましょう」
「ああ! それも頼む!」
「これからは箱館を中心として人の往来が爆発的に増えるでしょう。そこで『ホテル』の建設もいたしましょう。『ジャングル』の基本的な資金源となるはずです」
「おおおお!! よい考えだ! それも頼んだ!」
「新たな街は西洋風にいたしましょう。その街を日本の新たな街の見本として、売り出す……。つまり『街』ごと売ってしまえば、新政府の新知事たちは必ずや食いついてくるはずです」
「ま、ま、街ごと売るじゃと……」
「ささ、ぼけっとしている暇はありませんよ。そこの小男さん」
「わ、わしには岩崎弥太郎っちゅう立派な名前があるんじゃ!」
「なら岩崎さん。今からそれがしが二通の書状をしたためますので、それを持っておつかいを頼みたい。兵庫にいるレオン・ロッシュと、江戸の三井組の通勤支配(取締役のこと)、三野村利左衛門(みのむらりざえもん)に持っていってくださいな」
「な、な、なんでわしがそんなことしなきゃならんのじゃ!」
「弥太郎! 頼むよ!! 兵庫には与太郎をつかわすから! お主は江戸へ!」
俺が手を合わせて頭を下げると、弥太郎は「し、仕方ないのう」と言いながら、渋々了解した。
「ありがとう! さすがは俺の親友だ! あははっ!」
「し、親友じゃとぉぉ!? わ、わ、わしはおまんと友になった覚えなどないがや!」
「あははっ! 顔を真っ赤にして照れなくともよい! もっと素直にならんとおなごに好かれないぞ!」
「う、うるさいっ! おまんに言われとうないわ!」
そんなかけ合いをしているうちに、小栗忠順は二通の書状を素早く書き上げた。
そしてそれらを弥太郎に手渡したのだった。
「しっかしおまんらは本気でこんな大それたことをやろうと考えちょっか?」
弥太郎がまだ呆れた顔をして俺たち二人を交互に見比べる。
俺たちは目を合わせて微笑むと、互いにうなずき合った。
小栗忠順は熱のこもった口調で言った。
「武士の世は終わろうとも、武士道は死なぬ。民の『幸せ』と『笑顔』を守るのが武士のつとめであるならば、それがしはこの身が果てるまで武士道を貫き通しましょう」
そして俺は二人に対して高らかと宣言したのだった。
「通販会社『ジャングル』の設立をここに宣言するぜよ!!」
この瞬間、日本の……いや、世界の歴史を大きく揺り動かしかねない企業が設立した。
この時はまだ誰もが『夢物語』としか思っていなかっただろう。
しかし翌月には『現実味』を帯びてくる。
――三井組をはじめとした江戸、大坂の商人たちより資金調達に成功! その金額五〇〇万両!
――デンマークの大北電信会社より電信の技術者が、フランス、アメリカ、イギリスの三国より続々と鉄道、建築の技術者が来日! みな箱館に滞在!
――箱館港にほど近い場所に、『ジャングル・ホテル』が開業! 外国人を中心に連日満室が続く!
こうして『天下の名奉行、小栗忠順』という『翼』を手に入れた俺は、いよいよ歴史の大空に飛び出したのだった――
「さあ、これからどんどん前に進むぜよ!! なんとしても箱館を守るのだ!!」
第二章 『龍馬、立つ』 (完)
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