小栗忠順、救出作戦
◇◇
小栗忠順(おぐりただまさ)は幕末の名奉行の一人だ。
しかし単に『名奉行』の一言ではすまされぬほどの人物であった。
勝海舟とともにアメリカに渡り、金と銀の交換比率をあらためる難交渉をまとめ、日本からの大量の小判の流出を防いだのが最大の功績だが、それだけではなく、横須賀製鉄所建築や洋式軍艦の整備、ガス灯や電信の導入の構想、武器や弾薬の国内生産の促進、火薬工場の建築など……。
挙げればきりがないほどの実績を誇り、日本の近代化の原点を築いた偉人と言えよう。
さらにフランス外交官のロッシュとのコネクションもあり、そして元は彼の小姓であった三野村利左衛門、つまり三井財閥の中興の祖という大物が支援者として裏にいる。
能力、人脈、資金力を兼ね揃えた傑物が、今は蟄居の身となって、上野国の寒村でひっそりと暮らしているのだ。
そんな彼だが、坂本龍馬と同じように敵が多かったのも事実だ。
将軍、徳川慶喜をはじめとする『反抗戦派の旧幕府』。
そして薩長をはじめとする『主戦派の新政府』。
いわば日本の政治家たちのほとんどが、彼を敵視していたのだから、まさに針のむしろの上に座っているような心地であっただろう。
閏四月四日、東北戦争に向かう新政府軍の手によって『反乱を企てたくせ者』と、いわれなき疑いで囚われた彼は、翌々日に処刑されてしまう。
今が四月一五日だから、もう一カ月もない。
もはや『ワンチャンス』しか存在しないだろう。
その『ワンチャンス』をいかにものにするか……。
まさに綱渡りの大勝負に、俺は乗り出すことにしたのだった――
◇◇
明治元年(一八六八年)四月二〇日 京、土佐藩邸――
「お、お、おまんは……! ほ、ほ、本当に……!?」
「ああ、俺は坂本龍馬。正真正銘、本物の坂本龍馬だぜよ!!」
なんと俺が京都の土佐藩邸を、事前の連絡もなしに訪れたのだから、目の前の濃い顔つきをした男が、口をぱくぱくとさせながら腰を抜かしているのも不思議はない。
そんな彼に俺の背後に立っていた、箱館府副知事の寺村道成が声をかけた。
「後藤殿。アメリカが坂本の保釈を許してくれたんや。やきこうしてここまでやってきたっちゅうわけじゃ。ついては容堂公に御取次願えんやろうか?」
「わ、分かった! ちょっと待っちょれ!」
彼はそう言うと、転がるようにして奥の方へと消えていった。
それを見届けた寺村が、俺にこっそりと耳打ちした。
「あれは後藤象二郎殿じゃ。容堂公の『犬』であり、新政府の『犬』にもなっちょる。げにまっこと器用な男じゃ」
そうか……。彼が『土佐三伯』の一人で、坂本龍馬とも新たな世作りを語りあったとされる後藤象二郎か。
今後のことも考えると、彼とはすぐにでも親しくなっておきたいところだ。
なお、俺はとある目的のために、山内容堂と面会を求めてここまで足を運んでいる。
もちろん寺村道成には『全面的』に協力してもらっているわけだが、彼の心を動かしたのは、『嘘をつかぬ誠意』であったことは言うまでもない。
俺のお供には彼の他に、陸奥宗光と新宮馬之助の二人だ。
しばらく玄関先で待っていると、見覚えのある顔が屋敷の奥からやってきた。
それは佐々木高行であった。
「おお! 佐々木さんかい! 久しいなぁ!」
俺は笑顔になって、大きな声で彼に声をかけると、彼もまた笑顔となる。
「坂本! 元気そうでなによりじゃ! しっかしおまんは、どいてわざわざ『敵中』に乗り込んできたんや?」
「あはは! 土佐藩邸を『敵中』を言ってしまってよいのか? どこに耳があるかわからんぜよ」
「それもそうだ! あはは! そんなところに立っちょらんで、まあ上がれや!」
親しみがこもった彼の誘いに乗って、屋敷に上がった俺たちは、広い客間に通された。
そこで佐々木高行が、あらためて俺がここにやってきた目的を聞いてきたのだった。
「理由……それは、容堂公のお力添えで、岩倉具視様に会わせてもらえないか頼みにきたのだ」
「岩倉様に? どいてじゃ?」
「……小栗忠順殿のお命を函館でお預かりいたしたくてな」
「な、なんだと!?」
佐々木高行の目が驚きに見開かれると、さらに追求してきた。
「どうして小栗を箱館に?」
「そりゃあ、箱館を戦争に巻き込ませないためだ」
「おまんはアホか! 小栗っちゅうたら新政府の敵。そんな奴をかくまえば、むしろ戦の的になってしまうがや!」
彼が声を荒げて俺に詰め寄ったところで、後藤象二郎が再び俺たちの前に現れた。
「殿がお会いになるそうじゃ」
「おお! ではさっそく参ろうではないか!」
「待て! 坂本! 話は終わっちょらんぜよ!」
なおも食らいつくのは、俺のことを本当に心配してくれているからだろう。
俺は彼に笑顔を向けながら言い残した。
「今は分かってくれなくてもよい。我が成すことは、我のみぞ知るってやつだ」
とーー
◇◇
「酒くさっ!!」
それは後藤象二郎に連れられた部屋に入った時の、第一声だった。
まだ昼前だというのに、床には酒瓶が散乱しており、中央には顔を赤くした初老の男が鎮座している。
どうやら彼が山内容堂であろう。
勝海舟を初めて見た時も同じだったが、『大物』というのは、独特の威圧感をそなえているものなのかもしれない。彼もまた同じであった。
そして、すわった目は「食ってやる」という気迫で不気味に光っていた。
「坂本か。おんし自らここにやってくるとはのう……。どういう風の吹き回しじゃ?」
立ったままの俺に容堂は粘り気のある口調で問いかけてきた。
俺はぐっと腹に力を入れると、彼の目の前に座って、小さく頭を下げた。
「一つお願いしたい儀がございまして、はるばる箱館からやってまいりました」
「お願いじゃと? まさかアメリカがおんしに吹っかけてきた賠償金を払え、とかぬかすんじゃなかろうな?」
「いえ、かような面倒に容堂公を巻き込むつもりはございません。ただ、一筆したためていただきたいのです」
「一筆じゃとぉ?」
容堂が酒臭い顔を俺に近づけてくる。
俺は少しだけ顔をそらして言った。
「厄介者は箱館の牢獄へ」
容堂は姿勢を元に戻すと、冷酷な視線を浴びせてくる。
身が凍りつくような恐怖を覚えたが、彼から目を離すことなく、ぐっと強い眼光を向け続けた。
すると容堂は、相変わらず絡みつくようなねっとりとした口調で問いかけてきた。
「七万両はどうしよった?」
やはりそうだったか……。
彼がしつこく俺の身柄を確保したかったのは、海援隊が得た七万両が目当てだったのだ。
それが分かると、自然と恐怖で凍った心が解けていく感覚がした。
そして口元に笑みを浮かべながら答えた。
「メリケンにたんまり絞られてしまいましてな」
「……嘘を言うな。おんしほどの『金の亡者』が、そう簡単に下手をうつとは思えんがな」
「そう言われましても、昔の自分の記憶がございませんので、仕方ありません」
「ほう……ならおんしは『無一文』ちゅうことか……」
「それよりも先ほどの『一筆』のお話、受けてはもらえないでしょうか?」
「わしが受けると、本気で思っちょるのか?」
「ええ、もちろん思っております」
「くくっ……うわっはははは!!」
容堂の大きな笑い声が部屋中に響き渡る。
そしてしばらくすると、彼が再び顔を近付けてきた。
「金のない貴様に用はないぜよ。帰れ。そして二度とわしの前に姿を見せるな」
彼はそう吐き捨てるように言うと、姿勢を戻して酒をあおり始めた。
もう話すことはない、という強い意志表示であることは、誰の目からも明らかだ。
しかし俺は微動だにせずに、肩を震わせた。
容堂の顔が怪訝そうに歪んだが、彼は言葉を投げかけることなく、ひたすら盃と酒瓶に目を向けている。
……と、次の瞬間だった。
「あはははははっ!!」
と、俺は腹を抱えて大笑いし始めた。
容堂は醜いものを見るような視線を俺に浴びせてきたが、それでもなお何も口に出そうとはしない。
そこで俺は「パンッパンッ」と二度手を叩いた。
再び冷たい沈黙が部屋に充満し始める。
だが……。
次の瞬間に容堂の表情が変わった――
――スッ!
勢い良く開けられた襖の向こう側に、数人の男たちがそれぞれ木箱を抱えて現れたのだ。
彼らは無言のまま俺の前にそれらの箱を置く。
全部で十個の箱がずらりと容堂と俺の間に並んだところで、俺は高らかと言い放った。
「一文字千両!! で、いかがでしょうか?」
「なんだと……」
容堂が思わず漏らしたところで、俺はそれらの箱を一つずつ開けた。
そこには大量の小判が、ぎっしりと詰められていたのだ。
それは『千両箱』だった――
「厄介者は箱館の牢獄へ……ちょうど十文字ございますゆえ、『一万両』の『誠意』をお支払いいたしましょう!」
「き……貴様ぁぁぁ!!」
「ふふふ……別に容堂公でなくともよいのです。何ならこの足で薩摩藩邸におもむき、大久保殿に頼んでもよい。しかし、私は土佐の出身ならば、容堂公への大恩に報いたく、どこよりも先にここへ参ったのです。いかがしますか? 悪い話ではないと思いますが?」
「ぐぬぬぬっ……」
「もちろん、箱館の牢獄は『土佐藩士の副知事』が責任をもって管理してくだされ」
「それは、何かあれば『土佐』へ責任をなすりつける、っちゅうことか!」
「ふふふ……一万両ならそれくらいの価値はございましょう。しかし私は『坂本龍馬』でございます。容堂公のおっしゃる通り、『簡単に下手はうちません』のでご安心くだされ」
「き、貴様……」
「もう時間がないのです。もしお受けいただけないのでしたら、一万両ごと『薩摩』にもっていくまでのこと。そうなれば箱館の実権も『薩摩』に移りましょう。よろしいのですかな?」
完全に形成が逆転し、赤い顔を真っ青に変えた容堂を、今度は俺がじっと見つめていた。
苦悶に顔を歪めていた容堂であったが、しばらくすると、ついに肩をがくりと落としてつぶやいたのだった――
「……筆と紙を持ってこい」
◇◇
――厄介者は箱館の牢獄へ。
山内容堂がしたためた一枚の紙が持つ効果は絶大であった。
なぜなら、新たな世へ移行するために『排除』したい人々を『土佐』の責任で『牢獄』で監視できるとなれば、余計ないざこざを生まずにすむからだ。
さらに何か問題が生じて土佐の手におえなくなってしまったなら、牢獄ごと潰してしまえば、反乱分子を一掃できる。
もちろん有象無象の者たちも含めて全員を箱館に送りこむのは不可能だが、少なくとも『大物』をおしつけるには、京や江戸から遠く離れた『箱館』は格好の場所と言えた。
俺は容堂の書状を手に入れたのち、すぐに御所近くの岩倉邸へと入った。
はじめは『坂本龍馬』の突然の登場に目を丸くしていた彼であったが、容堂の書状に目を通すやいなや、ニヤリと口角を上げた。
その顔を「頃合い」と見た俺は『誠意』を示しながら、一つ彼に提案をしたのだった。
「本来ならば『死罪』となるところを、『罪一等減じて死罪は免除』としたならば、『寛大な心を持つ大将』として、世間に広まりましょうな」
「くくくっ……お主は相変わらず『悪』よのう」
「いえいえ、岩倉様にはかないませぬ」
「くくくっ……ではお互い様ということだな」
「はははっ! 『お互い様』とは良い響きじゃ」
なお、小栗忠順をとらえて処刑にするのは、岩倉具視の息子、岩倉具定が総督を務める軍勢だ。
まだ若く、何の実績もない息子に対して、何らかの武功を挙げさせてやりたいというのが、親心なのだろう。
特にこの頃は、圧倒的な軍事力を誇る薩長の英傑たちに、岩倉は押され気味であった。
彼が息子たちの将来を心配して、『この戦争で是非とも存在感を示せ』ときつく命じていたのは、推し測るまでもない。
そして新政府の仇敵で、『大物』の小栗忠順を処刑したとしたならば、世間に示せる立派な功績となるはずだ。
だが「厄介者は箱館の牢獄へ」という容堂の提言を知っていたにも関わらず、反乱の兆しがない小栗忠順を処刑にしたなら、かえって悪名が広まってしまうことは目に見えている。
もしかしたらそれをきっかけに『岩倉降ろし』の機運が高まってしまうことすらありえなくない。
もはや考えるまでもなく、岩倉具視に残された答えは一つしかなかったのだった。
「では、具定にこれを」
「ええ、確かに受け取りました」
岩倉具視から一通の書状を手渡されると、大事にそれを懐にしまった。
中は確認するまでもなく「小栗を箱館へ送れ」という指示だろう。
用を終えてすぐさま部屋を出ていこうとする俺に対して、彼は高い声をかけてきた。
「坂本! お主は『戻ってくる』つもりなのか?」
その問いかけに対して、俺は顔だけ彼に向けて笑みを浮かべたのだった。
「戻る? 俺は『前に進む』しか能のない男だ」
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