坂本龍馬は何者なのか

◇◇


 千葉さな子から容赦ない折檻によって気を失っている間、俺は夢を見ていた。

 夢といっても真っ暗な空間の中に、見覚えのある少女が一人でポツンと立っているだけで、その他には何もないし、誰もいない。

 そして彼女は、謎のフードの美少女、つまり『龍馬の未来の娘』だ。

 もの悲しげに俺を見つめている彼女に問いかけた。


――なあ、お前のママは『千葉さな子』なのか?


 少女は俺の問いにうつむくと、ブルブルと首を横に振った。


――わからない……ママかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 そりゃそうだよな。それが分かっていたら、最初から教えてくれてもよさそうだしな……。

 そして俺はもう一つ、どうしても聞いておきたいことがあった。


――なあ、俺は『坂本龍馬』なんだよな?


 彼女にとっては意外な質問だったのだろう。

 彼女はぱっと顔を上げると、俺の顔を目を大きく開いて見つめてきた。


――うん、パパは『坂本龍馬』だよ。

――だったら、俺はなぜ『坂本龍馬』としての記憶がないんだ?

――それは、わからない……。

――なあ、教えてくれよ! 俺は俺のことを何一つ知らなくて、どうやって生きていけばいいんだ!?


 自分でも言っていることが難しいとは思うし、答えなんてないと分かっている。

 それでも聞かなくては気がすまなかった。

 中岡慎太郎は『坂本龍馬』に、『期待』を抱いていた。

 岩崎弥太郎は『坂本龍馬』に、『劣等感』を抱いていた。

 千葉さな子は『坂本龍馬』に、『憎しみ』を抱いていた。

 でも、俺は彼らがなぜそれらの感情を抱くにいたったのか、全く分からないのだ。

 

――いったい俺、『坂本龍馬』は何者なんだ!?


 少女はずっとうつむいたままだったが、しばらくすると瞳に涙をいっぱいためて言った。


――ごめんなさい。わたしには分からない。でも、わたしはパパがどんなパパなのか知りたい。

――俺がどんなパパ?

――うん。だからわたしが生まれてきたら、パパはどんなパパなのか教えて欲しい!

――つまり『坂本龍馬はこんなパパだ』って教えられるように、頑張れってことか?


 少女は大きくうなずいた。

 その様子を見て、俺はどこか諦めがついたように肩の力が抜けた。

 よくよく考えてみれば、俺だって『近藤太一が何者なのか』と問われても、しっかりと答えきれる自信なんてない。

 だからみな『自分が何者なのか』とか『自分はどう生きるべきか』というのを模索しながら、その日その日を懸命に生きているのだろう。

 ならば俺もそうやって生きていくだけのことだ。

 つまり、『坂本龍馬が何者なのか』ということを探っていきながら、『坂本龍馬としてどう生きていくべきか』を常に考えて生きていこう。

 そして目の前の少女が生まれてきた時に、胸を張れるような生き方をしたい、そう思ったのだった。


――そうか、ごめんな。変なことを言ってしまって。

――ううん……。

――もう少しだけ待ってろよ。優しいママを見つけて、すぐにパパになってやるからな!


 俺の力強い言葉に、少女の顔がぱっと明るくなった。

 彼女の太陽のような笑顔を見ながら、俺は締めくくりに告げたのだった。


――そしたらお前が思わず自慢したくなるパパになるからな!


 この言葉の直後だった。

 俺の意識は急速に現実へと引き戻されていったのだった――


◇◇


――バシャッ!!


 それは冷水が顔にぶつけられた音だった。


「のわっ! 冷たいっ!!」


 俺は思わず起き上がると、そこは気を失った稽古場の片隅であることが分かった。

 体が冷えないように気遣ってか、丁寧に上掛けがはおられていたようだ。

 寝ぼけたまなこで周囲を見回していると、目の前には空の桶を手にした千葉さな子の姿があったのである。


「朝よ。そんなところでいつまでも寝られていると、稽古の邪魔なの」

「だ、だからって冷水をかける必要ないだろ! ううっ! 寒い! 風邪ひく!」

「グチグチと男のくせに、うるさいわね!」


 と、彼女は吐き捨てるように言うと、俺の前にふわりと手ぬぐいを落としてきた。

 俺は急いでそれを手に取ると、濡れてしまった上半身を拭き始める。

 すると昨日打ち込まれて怪我をした部分が、丁寧に手当てしてあるのが分かった。

 俺は顔を上げると、そっぽを向いている彼女に、恐る恐るたずねた。


「も、もしかして手当てをしてくれたのかい?」


 その問いかけの瞬間に、さな子の顔が沸騰したやかんのように、みるみる赤くなっていく。

 そして彼女は竹刀を振り上げながら赤鬼のようになった顔を俺に向けて怒鳴った。


「ち、ちがうわよ!! 早くここから出ていきなさい! 稽古の邪魔だって言ってるでしょ!!」

「わ、分かったよ!!」


 昨日みたいに竹刀で叩かれたら堪ったものではない。

 俺は転がるようにして稽古場を出ていったのだった。


◇◇


 稽古場を出た俺は、まだぎすぎすと痛む体を引きずりながら、ここに来た時に通された居間へと向かった。

 そこで出迎えてくれたのは、千葉重太郎と岩崎弥太郎の二人だった。


「おはよう、坂本。昨日はさな子に随分とこっぴどくやられてしまったようだな」


 重太郎は心配そうに眉をひそめながら俺の顔を覗いてくる一方で、背後の弥太郎は「ざまあみろ!」と言わんばかりに顔をニヤつかせている。

 弥太郎に対して面白くないものを抱えながらも、目の前の重太郎に不機嫌な顔を見せるわけにもいかず、必死に口元に笑みを浮かべて答えた。


「ええ、しかし、さな子さんの言い分はもっともですから……仕方のないことです」

「言い分? はて? どんな言い分だった?」


 重太郎はますます怪訝そうな顔をしてたずねてきた。

 そこで俺はなんの疑いもせずに、昨日のさな子とのやり取りを話したのだった。


 俺が話し終えると、重太郎は頭を抑えながら、「はぁ……」と大きなため息をついた。

 そして俺に対して、深々と頭を下げてきたのだった。


「すまん! 坂本! この通りだ! 許してくれ!!」

「えっ? いや、許すも何も、悪いのは俺の方ではありませんか!?」

「いや……その……少し言いにくいのだがな……『全て』、さな子の勝手な思い込みなのだ!」

「ええっ!? どういうことですか!?」


 思わず目を見開いてしまった俺に対して、重太郎はポツリポツリと話し始めた。


 どうやら龍馬とさな子が恋仲であったのは確かだったようだが、『正式な婚約』までには至らなかったようだ。そして、龍馬が千葉道場での剣術留学を終えて江戸を離れる際も、千葉家の人々へしっかりと挨拶したらしく、黙って出ていったという事実もないと、重太郎は教えてくれたのだった。


「どうもさな子は思い込みが激しい性格でな……一度、『こう』と決めたことは、絶対に曲げぬのだ。本当にすまなかったな、坂本」


 単なる思い込みで、気を失うほどに痛めつけられたのか……。

 普段の俺であれば、逆上していただろうが、不思議と憤りの感情は生まれてこなかった。

 そして口をついて出てきたのは、素直な気持ちだった。


「はぁ……それはよかった」

「よかった? おまん何を言っちゅう? さな子さんの勘違いで、おまんはえらい目にあったんよ?」


 俺の言葉に、弥太郎が食いついてくる。


「そりゃあそうだが、それよりも『坂本龍馬』が不義理な男でないと分かって安心したのだ」

「まったく……おまんはやっぱりどこかおかしい男じゃ」


 呆れる弥太郎をよそに、俺は重太郎に向きあった。

 俺の雰囲気が固くなったためか、重太郎もまた緊張した面持ちで俺を見つめてくる。

 この時俺は、昨日のさな子の瞳を思い出していた。

 怒りに満ちた瞳の奥に、悲しげなものが映っていたあの瞳を……。

 千葉道場を離れていく坂本龍馬が、どんな使命感を胸に秘めていたかは分からない。

 それでも一人の女性を悲しませてしまったのは、覆しようのない事実なのだ。

 ならば今、俺がしなくてはならないのは、ただ一つだ。

 そして俺は腹を決めて、深々と頭を下げた。


「重太郎殿! この通りだ! 許してくれ!!」


 重太郎は驚きを隠せない様子で、「ど、どうした!?」と頭上で声をかけてきた。

 俺は顔を上げると、腹に力を入れて告げた。


「昨日、さな子さんは『私は心を痛めた』と、言ってた。たとえ彼女の思い込みが強くても、心を痛めてしまったのは事実。そしてその原因を作ったのは俺であるのもまた事実です! 大事な妹さんを傷つけてしまったこと、どうかお許しくだされ!!」

「さ、坂本! しかし、全てさな子自身の思い込みで傷ついてしまっただけだ。それなのにお主が謝る必要などなかろう!」

「そんなことはありません! 俺は『過去』の俺がしてきたことと、その結果に対して責任を持たねばならぬのです! それが『過去の記憶を全て失った俺』が取れる、せいいっぱいの罪滅ぼしなのです!」

「き、記憶を失っている……だと……」

「お、おまん! どうしてそんな大事をはじめから言わん!?」

「あはは……すまん。なかなか言える機会がなかったのだ」


 目を丸くしている二人。

 そりゃあその通りだろう。何の予兆もなく、目の前にいる人物が記憶喪失であると告げられたのだから。

 俺だってつい昨日までは、隠し通して生きていくつもりだった。

 でも、そこから逃げてばかりいる訳にはいかないと、夢の中で少女と出会ってから決意した。

 だから、知らないなら少しずつ知っていけばいい。そして、過去の坂本龍馬を俺は背負って生きていこう、そう心に決めていたのだ。

 それこそが、『自慢できるパパ』になるための条件のように思えてならなかったのだった。


 そして……。

 もう一人、彼ら以上に衝撃を受けた者がいた。


「うそ……そんなのうそよ……」


 それは千葉さな子だった。

 いつの間にか俺の背後に立っていた彼女は、大きく目を見開いたまま、一歩二歩と後ずさりした。

 俺は彼女の声とともに振り返って、彼女に対して頭を下げた。


「すまん、さな子。本当は昨日言うべきだった」

「うそ……じゃあ、わたしのことも全く覚えていなかったってこと……?」


 俺は口で答える代わりに、小さく頷いた。

 そしてもう一度、謝罪の言葉を述べたのだった。


「本当にすまなかった。君を傷つけてしまったことを、もう一度謝らせてくれ! すまん!」

「なんでよ! なんでそんな簡単に謝れるのよ! わたしのことを何も知らないくせに!!」

「ああ、知らない。知らないけど、すごく悲しい想いをさせてしまったことだけは、君から受けた傷から伝わってきたんだ!」

「そんなのいらない! わたしが欲しいのは……」


 そこで一度言葉を切ったさな子は、涙をいっぱいに瞳にためて言い放ったのだった。


「あの時にわたしに向けてくれた龍馬の笑顔だけなの!!」


 さな子はそう言い終えると同時に、部屋から走り去っていく。

 俺は考える間もなく彼女の背中を追いかけた。

 そして彼女は稽古場へと駆け込んでいくと、俺も転がるように入っていったのだった。


 俺に背を向けて震えているさな子。

 そんな彼女にどう接したらよいものか、全く分からずに、俺はただ彼女の背中を見つめていた。


 しばらく気まずい沈黙が流れた。

 冬の稽古場は寒く、冷たい床で全身が凍えてくるようだ。

 それでも微動だにせずに、じっと彼女を見つめていると、彼女はゆっくりと稽古場を歩いていき、武具が置いてある場所で立ち止まった。

 そして二本の竹刀を手に取ると、一本を俺に手渡してきたのだった。


「これは……?」

「勝負して。わたしと」

「えっ……? しかし今の俺は……」

「剣も忘れたとは言わせない……」


 有無を言わせぬ彼女の瞳に、俺はゴクリと唾を飲み込むと、恐る恐る竹刀を手にとった。

 剣道なんて中学校の時の授業以来で、全くの素人だ。

 かつて坂本龍馬は相当な剣の使い手だったと何かで読んだことがある。

 そんな彼に比べれば雲泥の差であり、彼女の期待に応えられるはずもない。

 しかし、ここで投げ出すわけにもいかないのは、彼女の瞳から溢れ出ている大粒の涙を見ればあきらか。


――もうどうにでもなれ!


 と、半ばや破れかぶれとなって、俺は剣を構えたのだった。


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