妄想は天国、現実は地獄

◇◇

 

 少しだけ時を戻す。

 慶応三年(一八六七年)一一月一八日 早朝――

 

「おお! ここが江戸の街かぁ!!」


 俺、坂本龍馬は目の前に広がる光景に感動していた。

 せわしなく動いている無数の人々に、どこまでも続く商店の数々。

 殺伐とした幕末にあって、この街は活気と熱気に包まれていた。

 そんな風に俺が目を輝かせていると、背中から殺気をともなった言葉がぶつけられた。

 

「おいっ! どうしてわしがおまんの分の運賃まで払わないかんのじゃ!?」

 

 振り返ってみると、鬼のような形相で睨みつけてくる岩崎弥太郎の姿があった。

 

「その件は本当にありがとう! 俺は今、一文なしだから助かったよ」

「そんなの理由になっとらん! そもそも一文なしで、どういて船につまれていくっちゅう発想ができる!?」

「すまん、すまん! あの時は必死だったのだ! 許しておくれ! 全てが片付いたら、利子つけて支払うから!」


 と、必死になって手を合わせると、弥太郎は、「……ったく、やっぱりおまんはいっつも口ばっかり達者じゃのう」とそっぽを向きながら口を尖らせた。

 その様子を見て、どうやら腹の虫をおさめてくれたようだと判断した俺は、彼の肩を組むと、明るい調子で言った。

 

「さあ、もたもたしていると、また人斬りに会っちまうからな! 早く安全な場所へ行こう!」

「待て待て! おまん! 行くあてはあるんか!?」

「いや、ないっ!」

「おま……馬鹿か! ちょっと! 離せ!」


 と、ぐちぐちと小言を漏らす彼を連れながら、大股で街中へと歩いていったのだった――

 

◇◇


 同日 昼過ぎ――


 俺たちは桶町(おけまち)という地区に到着した。

 その名の通り、『桶』を作る職人さんが多く住む地区らしい。

 それを示すように、木を叩く乾いた音があちこちから響いてくる。

 その地区に俺たちの目的地である『千葉道場』はあった。

 『千葉道場』は、千葉定吉(ちばさだきち)という鳥取藩士が開いた北辰一刀流の道場で、そこなら隠れ場所としてはうってつけなのではないかと考えたのだ。

 それは江戸の街を歩きながらした弥太郎との会話がきっかけだった。

 

――ところで上手いことかくまってくれそうな人を知らないか?

――なんでわしがそんなことを知っちゅう! 知らん!

――誰でもいいから教えてくれよ、この通りだから!

――だから知らんもんは知らん! ……ただ、おまんが『江戸に置いてきたさな子が恋しい』っちゅうことを酒の席で口を滑らせて、おりょうさんに怖い目にあわされていたのは覚えておる……。

――さな子……千葉さな子か!! おお! でかしたぞ! 弥太郎!


 千葉さな子は、千葉定吉の二女だ。

 北辰一刀流の剣術を幼い頃から学び、男勝りの腕っ節と剣術の強さを誇っていたらしいが、『千葉の鬼小町』と称されるほどの美貌の持ち主でもあったとのこと。

 そして、なんと坂本龍馬と一時的に恋仲だったことで知られているのだ。

 

 強くて美しい――

 

 なんていい響きなんだ……。

 頭の中に孤高の美人剣士がふわっと浮かんでくると、これから千葉道場で繰り広げられるであろう、彼女との会話を勝手に妄想した。

 

――命を狙われているのだ。頼む! 助けてくれ!

――ええ、全部分かっております。私に全てをゆだねていただければ、必ず助けてみせましょう!

――全てをゆだねていいのか……?

――ええ、身も心も全てゆだねてください……。

――いいのか? さな子……。

――ええ、もちろん。きて、龍馬さん……。


 ああ、素晴らしい!

 ひっそりと身をひそめながら、しっとりと二人で愛を育む……。

 俺は早くも『美少女のパパになる』というゴールが、ぐんぐんと近づいてくる手応えを感じていた。


「えどぉぉぉぉ!! さいこぉぉぉぉ!!」


 いぶかしむ弥太郎をよそに俺は喜びを爆発させると、町民たちから聞いた千葉道場へ向けてスキップしていったのだった――

 

◇◇


「さ、さ、坂本か!? 本当に坂本なのか!」


 千葉道場に入るやいなや一人の壮年が俺の両肩をがっちりと掴んで驚愕の表情を浮かべていた。

 恐らく彼は千葉定吉の長男で、さな子の兄にあたる千葉重太郎(ちばじゅうたろう)だろう。

 俺の記憶が正しければ、この時彼は道場の師範を任されているはずで、歳は確か五〇歳前後だったと思う。

 普段から鍛えているおかげもあってか、五〇にはとても見えないほどに見た目は若いが、いかにも師範という貫禄はひしひしと感じられた。

 

「はいっ! 確かに坂本龍馬でございます!」

「おおおおっ! なんだかしゃべり方も雰囲気も全く違うが、声と姿はたしかに坂本だ! しかしまた突然だな!? なんでも『京の都ででっかい動きがあるから、江戸にはもう戻らんぜよ』とかなんとか言ってたではないか! どうして戻ってきた!?」


 そう彼が問いかけた時だった。

 遠くの方から、凛とした若い女性の声が響いてきたのは。


「いったいどうしたの、兄さん。さっきから大声でお話しして」

「ああ、さな子。実はな……」


 今確かに『さな子』と言った。

 間違いない! 千葉さな子だ!

 俺は彼女の方へと目を向けた。

 するとそこには想像を絶する美女が汗を拭きながら近づいてくるではないか!

 長くて艶やかな黒髪。大きくて少しだけつり上がった猫のような瞳。すっと通った高い鼻。そして小さな唇。

 俺は思わず見とれてしまった。

 すると彼女は俺の視線に気付いたのか、はっと視線を俺と合わせたのである。


 目と目が合う俺となさ子――


 彼女の透き通るような白い頬がわずかに桃色に染まっていく。

 俺はそれを見て、心臓が飛び出てしまうのではないかと思うくらいに、胸を高鳴らせていた。

 そしてほぼ無意識のうちに妄想の中の言葉を叫んだ。


「命を狙われているのだ。頼む! 助けてくれ!」


 目を丸くして互いの顔を見る重太郎とさな子。

 すると口を開いたのは、さな子の方だった。


「……私は龍馬の全て分かっているわ。だから兄さん、全て私にゆだねて欲しいの」

「あ、ああ。さな子がそう言うなら、俺は別に構わん。坂本もそれでよいな?」


 こ、こ、こ、この展開は!?

 『妄想』の展開そのままじゃないか!

 なんの迷いもなく首をブンブンと縦に振った。

 するとニコリと天使のような笑顔を振るまいたさな子は、俺に言った。


「きて、龍馬!」

「は、はい!」


 即答した俺は、早足で前を行くさな子の背中を跳ねるような足取りで追っていく。

 途中一度だけ振り返って、あ然とした顔で俺を見ている弥太郎に向けて、親指を立てた。


「大人になってくるぜよ」


 と――



 そしていよいよ、とある大きな引き戸の前までやって来ると、さな子はすっと開けた。

 そこは剣の稽古場だった。


「入って、龍馬」


 なんと剣術家にとって『聖域』とも言える稽古場で、二人きりになるというのか……。

 ゴクリと唾を飲み込むと、思わず足がすくんだ。

 すると俺の背中に優しく手を置いた彼女は、「早く入って」と、俺を促した。

 そうか……。彼女は『禁断』の恋を望んでいるのかもしれない。

 そう思い込んだ俺は、コクリとうなずくと、稽古場の中へ一歩足を踏み入れた。


――ピシャッ……。


 静かに引き戸が締められる音がした。


――ドックン……! ドックン……!


 心臓の音が大きくなっていく。

 いよいよ俺とさな子が一つになる時が近づいてきた。

 そして俺は我慢しきれず、くるっと振り返ると、


「さな子!」


 と、叫んで背後の彼女に向かって抱きつこうとした。


「龍馬!」


 彼女も叫ぶ。

 さあ、二人の距離はあと数センチだ。

 目の前に彼女の少し控えめな胸が迫ってきた。


 その時だった……。


 俺を待っていたのは彼女の胸ではなく、『蹴り』だったーー


――ドガァッ!!


 という鈍い音が俺のみぞおちから響いてきたかと思うと、鋭い痛みが走った。

 そしてあまりの衝撃に俺はもんどり打って倒れた。


「ぐはっ……な、なにをするんだ……」


 どうにか意識だけは保ったが、脂汗が額にういてくる。

 俺は必死に顔を起こして、彼女の方を見た。

 すると色のない冷酷な目を俺に向けた彼女が、竹刀を一本、俺の足元に置いた。


「取れ、龍馬」

「な、なんで……?」

「もちろん、私と勝負するためだ」

「な、なんで君と勝負しなきゃなんねえだ?」

「なんで……ですって……」


 ふるふると震え始める彼女。

 俺は意味が分からず、素直な気持ちをぶつけた。


「俺は君に助けて欲しいんだ!」


 しかしどうやらこの一言が『地雷』だったようだ。

 キリッと俺を睨み付けた彼女は、瞳に涙をいっぱいに浮かべながら吠えた。


「どの口が言うかぁぁぁぁぁぁ!!」

「ひいっ!」

――バシンッッッ!!


 彼女が竹刀で床を思いっきり打ち込むと、わずかに道場が揺れた。

 俺は思わず後ずさる。


「私という『婚約者』がいながら、何も言わずにここを立ち去っておいて!!」

――バシンッッッ!!


「しかも他に女を作ってぇぇ!」

――バシンッッッ!!


「結婚までしやがってぇぇぇ!!」

――バシンッッッ!! バシンッッッ!! バシンッッッ!!


 ついに壁際まで追い詰められた俺。

 すると彼女は竹刀を両手で持って大きく振りかぶった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! これには深い事情が……!」

「事情? なによ! 言ってみなさい! もし私の納得がいく事情なら許してやる。しかし、納得がいかなければ……分かってるわね」


 俺はゴクリと唾を飲んだ。

 たった一回だけ、この場を乗り切るチャンスができた。

 さあ、考えろ。

 彼女が納得する『事情』を。

 その為には、状況整理だ。

 俺は『千葉さな子と婚約していたらしい』『しかし彼女を置いたまま黙って出ていった』『そして他に女を作って、結婚してしまった』……。

 そこまで整理ができれば十分だ。

 俺は一つの結論に達した。


――どこから、どう考えても、俺は最低のゲス野郎じゃねえか!!


 もはや言い逃れはできない。

 ならばここを乗り切るには開き直るしかないのだ。

 そこで俺は『賭け』に出ることにした。


――お茶目な振りをして、笑いを誘うしかない!


 ペロッと舌を出して、ちょっとだけ高い声で言った。


「ごめんなさい! 事情なんて思いつかなかった! てへっ!」


 しばらく凍りついたような沈黙が場を支配した後、さな子は重い口を開いた。


「言いたいのはそれだけ?」

「え、ええ、まあ、はい」

「そう……」


 再び沈黙が続くと、彼女の瞳が再び冷酷なものに変わっていった。


「龍馬は『命を助けて欲しい』のよね?」

「あ、ああ! 助けてくれるのか! 頼むよ!」

「ふふ、安心して。わたしは龍馬を殺させなんかさせない」

「えっ! 本当か!」


 なんという急転直下な展開なんだ。

 俺は歓喜をあらわにした。そして思わず腰をあげようとした。

 しかし……。


「死んだ方がまし、と思えるくらいに、さんざんいたぶってあげるんだから!」

「はい?」

――バシィィィィン!!


 考えを巡らせる隙すら与えないほどに鋭い一撃が、脳天を直撃すると、浮き上がりかけた腰は床の上に叩きつけられた。


「いてぇぇぇぇっ!!」

「わたしの受けた心の痛みの方が、百倍は痛いのよ!! ええい!!」

――バシィィィィン!! バシィィィィン!! バシィィィィン!!



 こうして千葉さな子による、容赦ない折檻が始まると、俺はいつの間にか気を失ってしまったのだった――






 



 

 

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