江戸へ向かう

◇◇


 慶応三年(一八六七年)一一月一六日 正午――

 

「おお! 全速前進!! 目指すは江戸だぜよ~!! わっはははは!!」


 坂本龍馬となった俺は今、船の上にいる。

 なんと運よく堺から江戸への定期便に乗れたため、殺伐とした京都から脱出できたのである。

 まるで鳥かごから放たれた小鳥のような解放感にひたって船主に立ち、両手を広げた。

 真冬の空気は冷たい。容赦なく全身を凍りつかせるが、それ以上に燃え上がる興奮によって、むしろ心地よさすら覚えていた。

 

 そんな時だった。

 

「おいっ! 坂本! そんなところでなにをやっちゅう!?」

 

 と、岩崎弥太郎が薄着のまま、体を震わせながら俺に声をかけてきた。

 俺は彼の方へ顔を向けると、にこやかな表情のまま答えた。

 

「何をって、風を感じているに決まってるだろう!」

「はぁぁぁ!? どうしておまんは、そういう意味の分からんことを時折口にするのじゃ?」


 そうか……『前の』龍馬も同じようなことを口にしていたのか……。

 そう思うと感慨深いものだ。

 

 俺はいぶかしい顔の弥太郎の側まで寄ると、右手をまっすぐ差し出した。

 

「これからよろしくな! 弥太郎!」


 弥太郎は眉をひそめて俺と俺の右手を交互に見比べている。

 そして口を尖らせて言った。

 

「そもそもなんでわしまで江戸へ行かねばならんき!? わしは京都に用事があったのじゃ!」

「そりゃあ、これから俺が生き延びるのに、一人では心細いからに決まっているだろう!」

「なんでわしがおまんの『子守り』をせにゃいかんのか、その理由を聞いておるのじゃ!」


 彼の言う通り、京都に用事のあった彼を、俺は強引に船まで連れてきてしまったのだ。

 彼が文句をつけるのも当たり前だろう。

 しかし俺は知っているのだ。

 『未来』からやってきた俺は、今はまだ何の力も持たない彼が、血の滲むような努力をして、日本の経済を支える財閥を作り上げたことを。

 だから俺は素直に自分の気持ちを吐露した。

 

「岩崎弥太郎は、誰よりも信頼に足りる男だと知っているからだ」


 はっきりと言い切った俺の顔を、弥太郎はぽかんと口を開けながら見つめている。

 そしてみるみるうちに顔を真っ赤にして、しどろもどろに言った。

 

「な、な、何を言い出すかと思えば! お、お、おまんはよくもまあ、そんなでたらめを口にできるのう!」

「でたらめなどではない! 俺はお前を信用しているから、こうして側にいて欲しいのだ!」

「ば、ば、ばぁぁぁか!! 男はそんなこっ恥ずかしいことをやたらと口にするもんじゃねえ!」

「はははっ! 恥ずかしいことなんてあるものか! 本当のことを口にして何が悪い!」


 そこまで断言したところで、俺は彼の右手を強引に手に取った。

 そしてなおもとまどう彼を尻目に固い握手をかわしたのだった。

 

 だが、弥太郎はなおも食い下がってきた。

 

「わしの用事をどうしてくれるのじゃ! わしは京都に……」

「むむっ! そういえば弥太郎はどうして京都にいたんだ? 確か今頃は『海援隊』の仕事で忙しくしていたはずだが……」

「げっ!?」


 あきらかに彼の顔色が変わった。

 実に分かりやすい男である。この顔は、誰が見ても『うしろめたいものがある』顔だろう。

 

 そういえば何かの本で、雑用係を嫌がった彼は、何度も後藤象二郎(ごとうしょうじろう)という土佐藩士にかけ合って、もっと良い職場をあっせんしてくれと頼み込んでいたと読んだ記憶がある。

 まさか彼は職場を投げ出して、京都にいる象二郎のもとまでやってきたのではないか……。

 そんな予感がしたため、俺はさらりと問いかけた。

 

「そう言えば、後藤様には会えたのか?」

「いんや、会いに行く途中でおまんに捕まって……あっ!」


 冷や汗を珠のように額に浮かべた弥太郎を見て、俺はにやっと口角を上げた。

 そして彼の肩を組んで、そっと耳元でささやいた。

 

「ここにいることは俺と弥太郎だけの秘密だから安心してくれ。その代わり、いろいろと力を貸してくれ、頼むよ」

「ぐぬぬぅ……そうやっていつも人の弱みにつけこむのも変わらんのう……!」


 確かに自分でも嫌な奴だと分かってはいるが、とにかく今は生き延びなくてはならないのだ。

 ある程度の目途がつくまでは、彼に行動を共にしてもらうのが、安全策と言えよう。

 そして俺はさらに声をひそめて告げた。

 

「もし全てが上手くいったなら、弥太郎に『海援隊』の全てを譲ってやるから」

「なにぃぃぃ!?」


 今度は青くなった顔を真っ赤にして驚く弥太郎。

 それもそのはずだろう。

 大型の輸送船を何隻か所有し、グラーバー商会など海外の商社とのパイプもある『海援隊』は、この時代では新進気鋭の『ベンチャー企業』と言っても過言ではない存在だ。

 リーダーである俺、坂本龍馬から、それを譲ってやると言われれば、目玉が飛び出るほどにびっくりするのは当たり前だろう。

 

 ただ、史実の通りであれば、坂本龍馬亡き後の『海援隊』は、後藤象二郎が主導となって『土佐商会』と名を変えた後、事業の多くを岩崎弥太郎が発展させていくことになる。

 つまり本来ならば、俺が何もしなくても『海援隊』の多くは、彼が受け継ぐことになるのだ。

 

 なおも興奮と疑念の二つの感情で、複雑な表情をしている弥太郎は、先ほどとは打って変わって大人しい口調で問いかけてきた。

 

「い、いつまでおまんの『子守り』をすればいいのじゃ?」

「うーん……『パパ』になるまで……かな」

「パパ? なんじゃそりゃ!? おいっ! また適当なことを言うて、わしを騙そうとしちょるんじゃなかろうな!」

「あはは! そんなことはない! さあ、これ以上ここにいると体が冷えちまうから、早く中に戻ろう!」


 俺は彼の手を引いて、すたすたと歩き始めた。

 江戸と言えば、江戸幕府の本拠地だ。

 考えるまでもなく、江戸に入っても困難が待ち受けているに違いない。

 それでも俺は『生き延びて美少女のパパになる』ために強い味方ができたことに心が躍っていた。

 そして……。

 

――あんな美少女なんだから、絶対に『ママ』は美人に違いない! つまり俺はまだ見ぬ美女と……!


「ぐへへへへっ!」


 と、思わずいやらしい笑い声が漏れでた。

 弥太郎がそんな俺を見て眉をひそめる。

 

「な、なんじゃ!? 気持ち悪いのう!」


 だがすっかりのぼせてしまった俺は、天にも浮くような軽い足取りで船の中へと入っていったのだった。

 

 そして江戸についた俺は、すぐに『ヒロイン候補』に出会うことになる。

 しかしまさか、あんな目にあうなんて……。

 

◇◇


 江戸のとある道場で、竹刀で人を叩く、乾いた音がこだましていた。

 

――ビシッ!! バシッ!!


 的確に急所ばかりをついてくる一撃は、叩いている者が相当のてだれであることを示していよう。

 痛い……。ものすごく痛い……。

 そう……叩かれているのは、俺、坂本龍馬なのだ。


「いてっ!! も、もう勘弁しておくれ! これ以上は叩かないでおくれぇぇ!」

「うるさいっ! 龍馬!! 今のいままで顔も見せないで何をしていたかと思えば……! ぜったいに許しません!!」


 そして竹刀で俺を滅多打ちする美女……。

 それは『千葉さな子』の鬼神のごとき姿であった――


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