歴史を動かす者たち
◇◇
慶応三年(一八六七年)一一月一九日――
京での暗殺の魔の手を逃れた坂本龍馬が、江戸の勝海舟を訪れていた頃。
瀬戸内海に面した周防国(現在の山口県)にある港町、三田尻は、異様な雰囲気に包まれていた。
その中心にいるのは、身長約六尺(約一八〇センチメートル)、体重は約三〇貫(約一〇〇キログラム)の巨体を西洋式の軍服に包んだ大男。太いげじげじ眉に、黒目の大きい瞳。小さく締まった口。何よりもその男が放つ他を圧倒する雰囲気は、彼がただ者ではないことを如実に示していた。
そんな彼の名を呼ぶ人々の声が、三田尻の空を興奮の色に染めていたのだった。
――西郷どん!!
と――
彼の名は、西郷隆盛。この頃は、まだ通称である「吉之助」で通っており、諱(いみな)も隆永(たかなが)と言った。「隆盛」と名乗るのは、もう少しだけ後のことである。
この頃の西郷吉之助は、薩摩藩の陸軍掛(りくぐんがかり)として薩摩の精鋭たちを束ねる立場にあった。
そして、『大政奉還』の成立を知った彼は、満を持して、兵三〇〇〇を率いて海路で京を目指していたのだ。
その目的は、ただひとつ。
江戸幕府を『武力』で倒すことなのは言うまでもない。
薩摩を出た彼は、ここ三田尻という軍港で、長州藩との出兵の機会を確認した後、いよいよ大阪湾目指して出港しようと、意気揚々と船に向かって歩いていた。
しかしその顔は決して上機嫌ではなかった。
むしろ殺気をともなうほどに、憤りに満ちたものであり、彼を見送りにきた人々が思わず息を飲んでしまうほどだった。
すると、そこに現れたのは、いかにも病気がちそうな色白の男だ。
彼の名は木戸孝允(きどたかよし)。この頃は木戸準一郎と名乗っている彼は、長州藩の中でも軍事に外交に八面六臂の活躍をしていた。
表向きは京に入るのを禁じられている長州藩士ということもあり、彼は京から離れたこの場所で、もっぱらこの後控えているであろう、幕府との一大決戦に備えて軍備を進めていたのであった。
彼は西郷を一目見るなり、口角を上げて言った。
「西郷さん、あんまり不機嫌すぎると、体に毒じゃよ」
「木戸どん! おいは不機嫌ではなか!」
「あはは! 西郷さんは相変わらず嘘が下手じゃのう! はあ、そん怖い顔に出ちょる!」
「むむぅ……! じゃっどん、土佐のやつらに腹を立てるのは仕方なかことでごわす!」
「あはは! やはりそうじゃったんか!」
準一郎が笑い声を大きくする一方で、吉之助の顔はますます苦虫をつぶしたように歪んでいった。
彼をそのような顔にしている要因は、実は『大政奉還』であった。
江戸幕府が政権を天皇へ返上した歴史的瞬間であり、『倒幕』を目指す薩摩や長州にとっては、悲願とも言える出来事と言えよう。
しかし吉之助が面白くなかったのは、そのタイミングであった。
彼の目論見としては、上京中の将軍、徳川慶喜を武力をもって降伏させた上で、将軍の政治的な権力を全て削いだ後に『大政奉還』をさせるつもりだったのである。
だが武力衝突を「良し」としない土佐藩、藩主山内容堂や藩士の後藤象二郎らの暗躍によって、薩摩や長州が軍事行動を起こす前に、『大政奉還』を実現させてしまった。
しかも、将軍慶喜が『武家の棟梁』のままの政権返上であったのだ。
これにより江戸幕府に代わる新政府内においても、将軍家の政治的地位は守られてしまうことになったのだった。
「幕府を完全に壊さねば、日本は変わらんじゃらせんか! まったく土佐の考えとることが分からん!」
「あはは! そうじゃのう! じゃが、京じゃあ岩倉様も頑張っちょる。それに慶喜公は将軍職を返上するっちゅうのを決めたと聞いちょるけぇ、ここは大きく構えちょればええと思うがのう!」
「あほ言うなぁ! 京には坂本どんもおっでなあ! なにを企んどるか知れたものじゃなか!」
「坂本のぅ……」
そこで言葉を切った準一郎は、吉之助の側まで寄ると、そっと耳打ちした。
「坂本は今頃もう暗殺されてしもうたかもしれん。どうやらそんなん動きがあるらしいからのう」
それを聞いた吉之助の目が大きく見開かれた。
そして彼は急いで準一郎の顔をのぞく。
とても冗談を言っているようには思えない準一郎に対して、吉之助は唾を飛ばした。
「そんただめだ!! 坂本どんを死なせてはいけん!」
「西郷さんは、坂本のことが邪魔なんか、大切なんかよう分からんのう」
肩をすくめる準一郎に対して、吉之助は顔を真っ赤にして言った。
「坂本どんは日本を良くするのに必要な男でごわす! じゃって絶対に死なせてはならん!」
「なんで、そげぇーまでして坂本の肩を持つん?」
「そんた……」
今度は吉之助が一度言葉を切った。
そして彼は鼻の穴を大きく膨らませながら大声で言ったのだった。
「そんたおいが坂本どんのこっを好いちょっでに決まっちょっじゃろう!!」
吉之助の突然の『告白』に、幕府との一大決戦へ向かう人々も口をぽかんと開けて、彼を見つめている。
場はしんと静まり返り、吉之助の荒い鼻息だけが、こだましていたのだった。
なぜかまで気恥ずかしくなった準一郎は、「ごほん」と咳払いをした後、吉之助の背中を押しながらささやいた。
「あんま、えっとォ大声で言わん方がええで……。変な勘違いを起こす者もおるけェね」
「勘違いなんかなか! おいは坂本どんが……」
「はァ、ええけぇ行けや! 京でみんなが待っちょるんじゃろ!」
「話しはまだ終わっちょらんじゃ!」
顔だけ背を向けながら船へと押し込まれていく吉之助。
そうして最後の最後まで納得いかない様子だった彼を乗せて、船は大阪へと出航していった。
準一郎はその船を見送りながら、ふぅと息を吐くと、目を細めながら漏らしたのだった。
「坂本龍馬……。どこでなにをしとるか分からんが、あの男を生かしておく意味はあるのかのう……」
◇◇
西郷隆盛がいよいよ京へ向けて出立した頃、京の二条城では第一五代将軍、徳川慶喜を中心として江戸幕府の重臣らの議論が紛糾していた。
――薩長など恐れるに足りず! 兵力はこちらが数倍も勝っておれば、この機にやつらを叩きつぶしてしまうに限る!
――何を申すか! 今の薩長と戦って負けでもしたら、上様の御命すら危うい! ここは大人しく従って、期をうかがうべきだ!
『大政奉還』によって、江戸幕府は終焉を迎えた。
そして薩長を中心とした『新政府』が設立したわけだが、その『新政府』に『恭順』か『抗戦』かで、徳川家内は真っ二つに割れていたのである。
連日連夜繰り広げられている論戦は、先の見えぬ路に迷い込んだようだ。
そこで一旦休憩をとるように命じた慶喜は、げっそりとした顔で家老の大久保忠寛(おおくぼただひろ)を手招きしたのだった。
静かな場所で二人となると、慶喜はがっくりと肩の力を抜いて言った。
「もうよいのではないか?」
「はて? なにが、でしょう?」
黒い髭を豊かにたくわえた忠寛が、ゆったりとした口調で問いかけると、慶喜は眉間にしわを寄せて口を尖らせた。
「分かっておるくせに。お主も意地が悪いな」
「ほほほっ。だったら上様の胸のうちを皆に告げればよろしいではありませんか」
「それができておれば、最初からそうしとるわ! できぬから、お主に相談しておるのだろう」
「ほほほっ。そんなことを相談されても、わしは困ってしまいます。まさか『上様は、もうめんどくさいことはこりごりじゃ! 薩長に全面降伏して田舎でのんびりと暮したい、とお考えです』なんて大声で言えるはずもないでしょう!」
「ば、ばかぁ! 声が大きい!! 小栗や滝川に聞かれたらどうするのじゃ! われはあやつらが恐ろしゅうてかなわんのじゃ!」
慶喜は慌てて忠寛の口をふさいだ。
もし今の忠寛の言葉が、徹底抗戦を訴えている過激派たちに聞かれでもしたら、たちまち慶喜は彼らに詰め寄れられてしまうだろう。
彼はそれをひどく恐れていた。
「しかし、今のわしの言葉は、上様の御考えをずばり言い当てておるのでしょう?」
慶喜は顔を真っ赤にしながらコクリとうなずいた。
それを見た忠寛はニコリと微笑むと、一つだけ慶喜に忠言したのだった。
「上様。当主たるもの、必ずや決断せねばならぬ時がございます。もしそれが嫌なら、徹底的に逃げるしかございませぬ。『決断』か『逃亡』か。道はどちらかしかございませんからな」
答えになっているようで、なっていない忠寛の言葉に、慶喜は恨めしそうに彼を見る。
しかし忠寛は彼の視線などどこ吹く風といった調子で廁へと消えていったのだった。
こうして先の見えぬ議論は再開された。
慶喜の取った選択は、言わずもがな『逃亡』だった。
すなわち確固たる決断をくだせぬままに、いたずらに時だけが流れていったのであった。
しかし、これよりわずか数日後のこと。
硬直した議論を強烈な力で引っ張っていく『幕府最後の英雄』が現れることになる。
しかし、今の慶喜らが知る由もなかったのだった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます