助けて! 勝さん!
◇◇
江戸幕府による『大政奉還』の動きが表面化しはじめた慶応三年(一八六七年)一〇月頃。
薩摩藩や長州藩を中心とした『倒幕』の動きは中断された。
しかしこの頃の政局は、御所のある京都を舞台にしており、そこから離れた江戸までは各藩も幕府も武士や浪人たちの動きを制御しきれなかったのである。
特に、過激な『攘夷派』の浪人たちは、幕府を支持する商人たちや有力者たちを容赦なく襲った。
彼らによる盗みや放火は日々過激さを増していき、江戸の治安を預かる庄内藩の藩士たちは、手を焼いていたのだった。
そんな不安定な情勢にあって、幕府の取り締まりが強化されるのは仕方ないと言えよう。
しかし、京から難を逃れて、ようやく安息の地にたどりついたと思えば、すぐに命の危険が迫ってきたのだから、俺、坂本龍馬が、やるせない気持ちになって、地団太を踏んでしまったのも当然だ。
それでも覆りようのない事実であるのは、『史実』からしても間違いない。
そこで俺は千葉重太郎の助言の通りに、赤坂に屋敷をかまえている幕府の重鎮、勝海舟を訪ねることにしたのだった。
なお、かつて坂本龍馬は勝海舟の付き人をしていたことがある。
つまり『史実』では俺たちは顔見知りであり、いきなり彼が俺を捕縛することはないだろうとふんでいた。
そして彼は今、とある事情で京からは一旦離れて、江戸の屋敷に引き籠っているらしい。
なんでも彼が進めていた幕府と長州藩との交渉において、将軍から水をさされたために憤った彼は、一人で江戸に戻ってきてしまったというのだ。
そんな状況ならば、よけいに俺の身柄を幕府に引き渡そうとは考えないに違いない。
もちろんそうでない恐れも多分に残っているが、とにかく今は彼しか頼りになる者がいないのだ。
俺はすがるような思いで、『護衛』のさな子と、『付き添い』の弥太郎とともに彼の屋敷へと急いだのだった――
◇◇
赤坂、勝海舟邸――
到着した俺たちを出迎えてくれたのは、なんと多くの若い女性たちであった。
「あらあら! これはまた珍しい御方がこられましたわ!」
「まあまあ! なんと坂本さんではありませんか!」
「早く旦那様をお呼びしなくてはなりませんね!」
屈託のない笑顔を俺に向けた彼女たちは「坂本さんは相変わらず男前だねえ」など言いながら、屋敷の奥の方へと消えていった。
後から知ったことなのだが、彼女たちは全て勝海舟の妾たちだそうだ。
なんと彼は妻や子供たちとともに、同じ屋根の下で妾たちも住まわせていたというから驚きだ。
もちろん過去の記憶のない俺は、彼女たちを知らない。
さな子も当然それを分かっているはずだが、俺を横目で見る彼女の瞳は凍えるように冷たかったのはなぜだろうか……。
殺気ただようさな子の隣で、肝を冷やしながらしばらく待っていると、奥から小柄で色黒の男が笑顔で近づいてきた。
そして小さな体に似合わない、大きな声で挨拶をしてきたのだった。
「おうおう! 坂本じゃねえか! なんでてめえが、墓場のような江戸にいるのかえ!?」
「こんにちは、勝さん。実は深い事情がありまして……」
「そのしゃべり方……。ただごとじゃあなさそうだな。おうよ、ひとまずあがれや」
彼は俺が『土佐弁』ではないことで、早くも何かを察知したようだ。
さすがは幕末の偉人の一人、勝海舟。頭の回転の速さや度量の大きさからしても、ただ者ではない。
――彼が勝海舟か……。
俺は、教科書や本でしか見たことのない彼の姿に、ささやかな感動を覚えながら、彼の背中を追っていったのだった――
◇◇
彼の書斎に入った俺は、さな子と弥太郎には別の部屋で待機してもらい、海舟と二人きりとなった。
そこで自分の記憶がないことと、京から命からがら逃げてきたことをつぶさに語ったのだった。
「あははっ! そいつはてえへんな目にあったなぁ、坂本! いかにもお前らしくていいじゃねえか!」
「わ、笑い事ではありません! これから俺はどうしたらよいものか……」
しょげる俺の顎をくいっと持ち上げる海舟。
俺は目を丸くして彼の半分閉じているような目を見つめた。
「俺は下を向く若者がだいっ嫌いでねぇ。面白えじゃねえか、坂本。敵も困難も多ければ多いほど、面白えってもんだぜ」
海舟はニヤリと口角を上げながらそう言った。
その言葉に俺は強く励まされると同時に、言い得ぬやる気のようなものがみなぎってきたのだった。
「いい目になってきたじゃねえか。……で、どうするよ、坂本。日本中どこを見渡したって、てめえの敵はわんさかいるぜ。まあ、ましなのは、『琉球』か『蝦夷』くれえなもんじゃねえか?」
「琉球か、蝦夷か……」
「それともいっそのことメリケンでもいっちまうか! あははっ!」
冗談とも本気とも思えない海舟の言葉に俺は本気で悩みはじめた。
そんな俺の様子をニタニタとした顔で見ていた海舟。
俺は少しムッとして口を尖らせた。
「ちょっとは一緒に考えてくださいよ! かわいい弟子が悩んでいるというのに!」
「おいおい! 俺はいつでも本気だぜ!? しかもてめえを『弟子』にしたつもりは、ただの一度だってないからな!」
「むむぅ……。ところで高飛びするにしても、俺はどうやってそこまで行けばいいんですか? まさか咸臨丸(かんりんまる)で送り届けてくださるとか?」
「ばかやろう! 今の俺には小舟一つ動かせねえよ」
「じゃあ、どこを選んでも無理ではありませんか……」
再びしょんぼりする俺。
しかし海舟は俺が下を向くのを許さなかった。
ぐいっと顎を持ち上げられると、彼は真面目な顔で言った。
「てめえに一つ教えてやんよ。てめえは自分の船と船乗りを持っているのを忘れちゃなんねえぞ」
その言葉に俺ははっとした。
「海援隊か……」
「おう、よく覚えてるじゃねえか。てめえは中途半端に色々と知ってやがるな」
訝しいものを顔に浮かべたのも束の間、彼は先程までの不敵な笑みを浮かべた。
そして続けたのだった。
「てめえの付き添い……土佐のやろうだな? ならやつを長崎に駐留している海援隊のやつらのもとへ行かせろ。そしててめえをここまで迎えにこさせればいい」
「なるほど! そうすれば江戸を脱出できるということか!」
一筋の光が胸のうちに差し込んできたのを感じて、顔が明るくなる。
すると海舟はぼそりとつぶやくように言った。
「まあ、それを待ってたんじゃ、年越しは江戸で迎えなきゃなんねえがな。果たしてそれまで針のむしろの江戸で逃げ切れるかねえ?」
「な……なんですと……」
「言っておくが俺は江戸でてめえをおおっぴろに助けられねえぞ。てめえは幕府の敵、俺は幕府の人間なんだからな」
くっそ……。
上げたと思えば、落としやがって……。
しかし、諦めてたまるか。
俺は中岡慎太郎の言葉に誓ったのだ。
生きて、貴い人になると――
俺は目に再び炎を宿すと、海舟を見つめて問いかけた。
「勝さん! 江戸から交易船は出ていませんか? 蝦夷でも琉球でも」
「まあ少なくとも琉球へは出てねえな。出ているとすれば『蝦夷』。しかし冬のこの時期だ。出ていても数日に一度あるかないかじゃねえか」
「それを調べる手立てはありませんか!?」
「おう、ずいぶんと前のめりにくるじゃねえか! いいねえ! まあ、港のやつらに聞くしかあるめえ! よしっ! ここは一つ、俺が使いを出してやろう! それが帰ってくるまでは、てめえはここで大人しく待ってるんだな」
「えっ……!? でもさっきは、手助けはできないって……」
「ばかやろう! 人の厚意にけちつけるんじゃねえよ! こう見えても俺だって江戸っ子でえ! 困ってるやつ見て、見放したら、お天道様に顔向けできねえってもんよ!」
そう鼻を鳴らすと彼は小姓を呼んで、外へと使いを出した。
未だに彼の厚意が信じられない俺は、ぽかんとしながら彼の顔を見つめていた。
すると彼は口角を上げたまま告げたのだった。
「記憶がなくなる前の『坂本龍馬』に感謝するんだな。俺はてめえに惚れているから、こうして我が身の危険をおかしてでも助けてやるんだからよ」
「……勝さん。一つ聞いてもよいですか?」
「なんでえ、今さら。さっきから質問攻めじゃねえか。いいから早く聞けよ」
「勝さんの知る『坂本龍馬』ってどんな人ですか?」
抽象的な質問に、海舟は目を丸くしたが、すぐに元の眠そうな目に戻した。
そして俺の頭をぐわしと撫でると、これまでで一番優しい声で言った。
「坂本龍馬って男はよぉ。いっつも『人を驚かせるのが得意』な男だったんだぜ。……まあ、今のてめえにも十分に驚かされているがな。これからも俺をいっぱい驚かせてくれよな」
人を驚かせるのが得意な男……。
なんだかすごく親近感がわくような、それでいて遠い存在のような、不思議な感覚がした。
しかし、果たして俺に他人を驚かせるようなことができるのだろうか……。
ただ逃げて、少女のパパになるために、どこかでスローライフを送ろうとしか考えていない俺に、そんなことをできるはずもないのではないか。
そんな風に思えてならなかった。
「じゃあよお、再会を祝して一杯やるとするか! となりで待ってるべっぴんさんと小汚ねえ男も呼んでよぉ!」
「はいっ! お願いします!」
「あははっ! やっぱりそのしゃべり方はてめえには合わねえな!」
俺の頭を荒々しくなでつづける海舟。
その手は大きくて、優しい。それでいて、彼のほとばしる情熱が伝わってくるようで、熱かった。
もし史実の通りであれば彼はこの数カ月後に西郷隆盛と極秘裏に会談し、江戸の街が戦火に巻き込まれるのを防ぐことになる。
いわゆる『江戸城の無血開城』だ。
そんな歴史的一大事を成し遂げる彼が今、可愛い『弟子』を愛でるような目で俺を見てくれている。
俺はあらためて『坂本龍馬』の人脈の広さと、偉大な人物にまで愛されていたことへの敬意を感じていた。
そうして江戸から蝦夷への交易船が三日後に出るのが分かると、それまでの間は勝邸で過ごさせてもらうことになったのだった――
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