命と貞操の危機
◇◇
「ぜえぜえ……さ、坂本……結局『近江屋』に戻ってきてしまったではないか……」
「ば……馬鹿な……」
俺は目の前の光景に愕然としていた。
なぜなら中岡慎太郎の言うように、『近江屋』の看板がすぐそこにあるからだ。
角が見えれば曲がり、どんどん進んでいたつもりだったのに……。
「お……おまさん……全ての角を『左』に曲がれば、ぐるりと一周するに……決まっておろうが……」
そう言えば京の道は規則正しく碁盤目状になっていたような記憶がある。
……となれば『左』へ四回回れば元の道に戻ってきてもおかしくないか……。
俺はようやくそれに気付くと頭を抱えた。
「うおぉぉぉ!! やっちまったぁぁぁ!」
すると次の瞬間、
――バッ!!
と、いきなり中岡慎太郎が俺に覆いかぶさってきたかと思うと、道外れの影へと俺を連れ込んだのだ。
「な、なにをする!?」
「いいから黙っちょれ!」
中岡の分厚い胸板が俺の顔にくっつく。
ほんのりと男の汗の臭いが鼻をくすぐった。
しかも人影のない暗い所に二人っきり……。
ま、まさかこの展開は男同士のめくりめく禁断の……。
「ちょっと待て! 俺はそんな趣味は……うぐっ!」
「ちと黙っちょれっつーに! すぐに済むき!」
すぐに済む……だと……?
俺は中岡に口を塞がれて身動きが取れない。
このままでは俺は……。
いやぁぁぁぁぁぁあああ!
心の中でそう叫んだ同時に、耳に飛び込んできたのは男たちの会話だった。
「おいっ! 坂本と中岡はどうした!?」
「廁から出た後、部屋に戻らずに一目散へどこかへ消えたらしいぞ!」
「なにぃ!? それでは我らの企みが水の泡ではないか!?」
「まだ遠くへは行っていないはずだ! とにかく探せ!」
「おうっ! 見つけ次第『斬れ』……これは上意である!」
俺はこっそり影から男たちの様子を見たが、もちろん見覚えなどない者たちばかりだ。
しかし明らかに俺と中岡の命を狙っているではないか。
もしここに隠れている所を見つかったら……。
俺、死んじゃう!
俺は呼吸すら止めて、じっと彼らの行方を見守る。
――行け! 早くどっか行ってしまえぇぇ!
心の中で何度も唱えていると、それが通じたのか、しばらくして男たちは街中へ散っていった。
そして同時に中岡慎太郎が俺から少し離れたのだった。
俺は心底ほっと胸をなでおろしたのは、『命の危機』と『貞操の危機』の両方を脱したからである。
そうして完全に人の気配が消えた後、中岡慎太郎がぼそりと呟いた。
「どうやら近江屋も危ないっちゅうことか……」
「あ、あ、あれは誰なんだ!?」
「知らん! 恐らく幕府の手の者じゃなかろうか。『上意』とか言っとったからのう」
幕府の手の者……。
それは言うまでもなく『江戸幕府の人間』であるという意味だ。
なお、この頃の日本は真っ二つに分かれていた。
それが、江戸幕府の継続を願う『佐幕派』と、幕府を倒し新たな世の中の仕組み作りを目指す『倒幕派』の二つだ。
ちなみに坂本龍馬と中岡慎太郎は共に土佐藩の出身であり、『倒幕派』に与している。
『倒幕派』は、大久保利通や西郷隆盛を擁する薩摩藩、桂小五郎を擁する長州藩の二つの藩が中心となって激しく幕府派を追い詰めていた。
その中にあって坂本龍馬は『海援隊』という組織のリーダーとして『倒幕派』に武器や物資を斡旋し、彼らの動きを支援していたらしい。
そしてついに『倒幕派』は幕府と『佐幕派』を京都で追い詰めると、幕府との完全決着を付けるべく、続々と兵を引き連れて京都へと上っていったのだ。
その中の一人が俺、坂本龍馬だったという訳だ。
つまり俺は幕府や『佐幕派』からすれば仇敵。
いつ命を狙われてもおかしくなかったのである。
実際に京都では幾度となく襲撃され、その都度宿舎を変えていた。
そうして行きついた先が『近江屋』だったのだが、どうやら『近江屋』に潜伏していたのは、『佐幕派』に見つかっていたようだな。
しかしさっきの様子からすると、俺たちの命を付け狙っている輩が、京都の街中にゴロゴロといそうだ。
例え『近江屋』から脱出したとしても、暗殺の危険度はマックスのままじゃないか。
「くそ……周りが鬼だらけの鬼ごっこなんて面白くも何ともねえよ」
俺は絶望のあまりにガクリと肩を落とす。
――ごめんよ……。
俺は『坂本龍馬の娘』と名乗った美少女に、心の中で頭を下げた。
――俺は君のパパになれそうにないや……。
そう諦めかけたその時だった。
中岡慎太郎がそっと俺の右肩に手を乗せてきたのだ。
そして彼は力強い口調で言った。
「諦めたら全て終いじゃ! 坂本、諦めたらいかんぜよ!」
その瞬間、俺の心が震えた。
俺は暗がりの中で彼を見つめる。
未来への希望と果てなき野心に燃える彼の瞳に俺は吸い込まれていた。
彼は二九歳。
しかし自分の命が危機的な状況にあるにも関わらず、彼からは恐怖も悲観も全く感じないではないか。
――なんて強いんだ……。
そして煌々と瞳を輝かせていたのは、彼だけではないはずだ。
『志士』と呼ばれた若さ溢れる日本の未来の担い手は、どんなに命の危険にさらされようとも、決して振り返らず、そして怖がらずに前進し続けたのだろう。
だから新しい世の中を作り上げられたに違いない。
そして俺もそのうちの一人なのだ。
冷え切った心に小さな火が灯ると、みるみるうちにぐんっと体温が上がっていく。
そして沸き立つ感情は抑えきれず、顔が紅潮していくのが自分でも分かった。
俺だって……。
負けてられるか!!
「中岡さん! どうにかならんかね!?」
俺の瞳に光が灯ったのを確認した中岡慎太郎は、にやっと口元を緩めた。
そして彼は声を低くして言ったのだった。
「薩摩藩邸に逃げ込むぜよ。あそこなら幕府の奴らも手出しができんちゃ!」
「おお! 薩摩藩邸か! よしっ! 急ごう!」
「では、坂本……」
中岡慎太郎の頬が赤く染まっている。
恐らく彼もこれからの逃亡劇とその先の未来に興奮しているのだろう。
俺も鼻息を荒くして彼を見つめていた。
しかし……。
「すっと手を離してくれんちゃ?」
なんと俺はいつの間にか彼の両手をしっかりと握っていたのである。
俺はすぐに手を離すと、彼に頭を下げた。
「のわっ! すまん!」
「いや、いいのだ。しっかし坂本は女たらしと聞いちょったが、そっちの方もイケる口なんか?」
「違う! 断じて違う!!」
「はははっ! 何も隠すことはなか! しっかし今宵の部屋は別々で願いたいところだのう!」
「ご、誤解をするでない! 俺は女の子だけが大好きなんだ!」
しかし彼は俺の言葉に反応する事なく、周囲を素早く見回すと迷いなく歩き始めた。
俺は慌てて彼の背中を追いかけていく。
そしてわずか一〇分程で錦町にある薩摩藩邸へと到着したのだった。
◇◇
錦町薩摩藩邸の一室……。
数人の若い薩摩藩士が小声で話し合っていた。
――おいっ! 坂本がこけ入ったちゅうたぁ本当か?
――ああ、今は客間に通されちょっ.
――では、分かっちょっな?
――もちろんだ。西郷どんがこけ来っ前にいけんかせんななんねえ。
――西郷どんな坂本に弱かでのう……。
――噂によっと『デキてっ』って話や。
――まあ、今はどげんでん良かこと。そいよりも手はずはえね!?
――中岡は我らと同じ志を持つ男。狙うは坂本ん命だけじゃぞ。
――おうっ!
◇◇
その日の夜――
薩摩藩邸の客間にて俺たちはささやかな歓待を受けた。
もちろん派手な宴会が催されたという訳ではない。
単に料理と多少の酒が振舞われただけだが、それでも十分な贅沢と言えよう。
身の安全が確保されているという後世では当たり前の事が、こんなにも幸せなことなんて……。
俺はかつてないほどに伸び伸びと食事をし、少しばかりの美味しいお酒をたしなんだ。
そして中岡慎太郎と熱い議論を交わした。
……と言ってもほとんどの間彼の方が一人で話をしていた訳だが……。
彼いわく、この頃の日本は、イギリスやフランスといった海外の列強国からの経済的、軍事的な脅威にさらされているらしい。
まずはそれをどうにかしなくてはならない、それが『倒幕』という使命に燃える若者たちの共通認識だそうだ。
その為には今の幕府の体制ではどうにもならない為、自分たちで新たな政治、経済、軍事の仕組み作りをして、列強国に追いつくのだ、と考えているようだ。
そして……。
「しかし坂本は甘い!」
急に中岡慎太郎は俺を叱りだした。
俺は目を丸くして「どうしてそう思うんだ?」と問いかけた。
「幕府の奴ら……勝、小栗、そして榎本といった輩は何を考えちょるかわからん! 将軍慶喜公にしても同じ! 奴らを野放しにしたまま倒幕などありえん!」
「ふむ、そうなのか」
「坂本は『日本人同士が争って血を流したらあかん!』とか言っちょろうに、けんど流さねばならぬ血もあろう! でなければ膿は出せんちゃ!」
そうか……世が大きく動く時はいつでも大きな戦争がつきもの。
それは幕末の今であっても変わらない訳だ。
しかしその戦争は同じ日本人同士が血で血を洗う凄惨なものとなるだろう。
――だが、そんなことが許されていいのだろうか……。
中岡慎太郎は他の『倒幕派』と同じ様に、武力行使で幕府を倒そうと考えているのに対し、坂本龍馬は話し合いによって成立させたいと考えていたようだ。
彼は「考えが甘い」と一喝するが、『日本人同士が争って血を流したらあかん!』という『前の』坂本龍馬の言葉が、俺の心にはズシリと重くのしかかっていた。
俺は出すべき言葉を失い、酒の入った盃に目を注ぐ。
するとそれまで燃え盛る炎のように熱くなっていた中岡慎太郎が、落ち着いた声でぼそりと呟いたのだった。
「……けんど、そんな甘っちょろい坂本だから皆、好いちゅうというこっちゃ」
「えっ……」
俺がきょとんと彼を見つめると、彼は照れて横を向いた。
「か、勘違いするな! 俺がおまんの事を嫌っちゅうのは、おまんが一番分かっちゅうやか!」
彼はそう言い捨てると、すくりと立ち上がって「廁へ行く!」と言って、大股で部屋を立ち去っていったのだった。
部屋に一人残された俺は、ごろりと仰向けに寝転がって天井を見つめる。
冬の冷たい空気が床を伝って全身を冷やすと、にわかに酔いが醒めてきた。
それと同時に湧水のように色々な事が頭に浮かんできたのだった。
元の時代の俺はどうなってしまったのだろうか……。
『坂本龍馬の娘』なる少女は一体何者だったのだろうか……。
この後俺はどうなってしまうのだろうか……。
そして今の俺は幕末の英雄、坂本龍馬だ。
しかし『坂本龍馬』の記憶は一片も残されていない。
つまり俺は龍馬であって龍馬ではないのだ。
考えれば考える程に、糸が複雑に絡み合うように混乱が深まっていく。
しかし考えようにも俺は『自分』『世の中』『敵』『味方』と全てを知らない。
それらを知らなければ、自分が取るべき行動が分からないのは当たり前だ。
そうして結局行きついたのは、
――ひとまず今俺がやるべきは、『生きる』ってことなのかもしれないな……
という極めて単純な結論だった。
そんなことを考えているうちに、中岡慎太郎が廁から戻ってきた。
「おう! 意外と長かったな! 中岡さんも『苦戦』したのか?」
俺は冗談のつもりで軽く声をかけたのだが、中岡慎太郎は引きつった笑いを浮かべて答えた。
「いや……そんなことはない……」
「ん? どうしたんだ? 何か気に障ることを言ってしまったか?」
「いや、それは違う……もうよい、今日は寝よう」
「あ、ああ」
妙に堅苦しい空気を醸し出す彼をいぶかしく感じたが、俺は彼の言葉に従って、先に案内された自分の部屋へ移ろうとした。
しかし彼が呼び止めてきた。
「坂本! おまんはここで寝ちょれ! 今宵は俺がおまんの部屋で寝るちゃ」
「はぁ……まあ構わんが……どうした急に?」
「い、いやほんに何でもない!」
中岡慎太郎は部屋に戻ってきたのも束の間、結局一度も座ることなく隣の部屋へと移っていこうとした。
俺は慌てて「おやすみ!」と声をかける。
すると彼は振り返らずに、小さな声で言ったのだった。
「坂本……今日賎しいものが、明日には貴いかもしれない。小人か君子かは、常に己の中にある……おまさんは『生きて』、貴い人でいてくれ。よいな?」
「お……おう。分かった。頑張ってみる」
俺は彼の真意を計りかねて、生返事をした。
それでも彼は大きく一つ頷くと、右手をひらひらと上げた。
「ほんなら、また」
そう言い残して彼は立ち去っていったのだった――
◇◇
夜更け――
日付が変わった頃。
数人の男たちが音もなく薩摩藩邸の廊下に集まっていた。
彼らの手にした抜き身の刀は、窓から漏れる月に照らされて、妖しく光っている。
そして彼らのリーダーであろう男が小声で誰ともなく問いかけた。
「坂本はどっちん部屋や?」
「奥ん部屋でごわす」
「よし、では坂本ん部屋だけに押し入っど」
男たちはすり足で目的の部屋の前までやって来ると、一度立ち止まった。
そして互いの顔を見合わせて、一つ頷き合うと……。
――ピシャッ!!
と勢い良く襖を開け放った。
そして彼らのリーダーが声を轟かせた。
「坂本龍馬!! 裏で幕府を助けっ『犬』め! 天誅や!」
次の瞬間、膨らんだ布団目がけて男たちが一斉に斬りかかった。
――ザンッ!!
数本の刀が無慈悲に掛け布団を貫く。
しかし男たちはいぶかしいものを顔に浮かべた。
なぜなら人を突き刺した手応えが全くなかったからだ……。
すると背後から低い声が聞こえてきた。
「廁の近くで悪だくみを話し合うのは御法度だぜよ……」
男たちが青い顔をして振り返ると……。
そこには刀を構えた一人の志士。
中岡慎太郎の姿があった。
彼はくわっと表情を仁王のごとく厳しいものに一変させると、藩邸中に響く声を上げた。
「坂本ぉぉぉぉぉ!! 逃げろぉぉぉぉぉ!! うおぉぉぉ!!」
そして面食らう男たちに向かって斬りかかっていったのだった――
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