閑話 とある人形師の工房で
トリストニアは三つの区画からなる。
外縁部にある貧民街。
中間層の商業区。
中心地であるセントラルブレイン。
そんな商業区の外れに、一軒のこぢんまりとした工房があった。
家主の名前は、ジャヴィール。
ジャヴィール・ハイヤンの工房と呼ばれる、自動人形の産まれる場所だった。
ひとりの老婆が、つかの間の日光を浴びながら、ロッキングチェアで紅茶を嗜んでいる。
そのそばに仕えているのは、黒髪の自動人形ジーナだった。
「それで? あのろくでなしは、なにをやらかしていったのかしら?」
老婆は優しげな表情で、しかしその眼だけをキラキラと好奇心に輝かせながら、ジーナへと事情を聴く。
ジーナは頷きもせず、答える。
「はい。碩学者とオカルティストの争いを煽るだけ煽りましたお客様──ヘルメスさまは、両者に様々な錬金術の産物を売りつけていかれました。件のレースマシーンに使用された、未知の技術です」
「錬金術は、神秘と科学の中間にあるもの……どちらも躍起になってほしがるでしょうね」
「はい。彼が残していったものは、どちらの陣営にとっても迅速に解析を行うべき、貴重な代物でした」
「そこに注力する必要ができてしまったから」
「そうです、結果として争いは一時中断という形に落ち着きました。オカルティストも、碩学者の卵たちも、両者が余力を失って、もっと別のものに目を向けなければいけなくなったからです。つまり、全員が詐欺師のカモにされたのです。バーベス老とアニースター師だけは、すべてを知る立場の、共犯だったようですが」
「あらあら」
老婆は楽しそうに微笑みながら、カップを手に取った。
その手はカップと同じ、陶磁器でできていた。
義手だった。
懐かしむように、老婆が、その名前を舌の先で転がす。
「ヘルメス……ね……」
彼女の知るヘルメスという錬金術師は、こういったことがひどく得意だった。
すなわち、両者の諍いを治め、自分の懐も潤すという所業である。
「変わっていないのねぇ、ヘルメス。寄って行ってくれればよかったのに」
「絶対に会いたくない。会うぐらいなら
「あらあら。お茶目さんなんだから」
若かりし頃、肌を重ねた相手を想い、老婆はころころと笑う。
きっとその外見は、いまも変わっていないのだろうと理解しつつ。
「あのときは、ヘルメス・サン・ジェルマンを名乗っていたのよ、あのひと」
「そのころから、あのような口の悪さを?」
「……あら、だめよ? あのひとが誑し込むのは、人間だけじゃないんだから」
「…………」
老婆の忍び笑いに、ジーナは口をつぐんだ。
もとより明確な感情というものを、ジーナは産まれ持っていない。
しかし天才と称される人形技師、ジャヴィール謹製のオートマタであるジーナは、ある意味でひどく、人間に近い存在でもあった。
彼女は器用に咳払いをすると、ヘルメスたちのやらかしたことの続きを語る。
「結局、ケモノ憑きの少女は治療を受けることもなく、旅立ちました。自分の母親にも、これはあったものだからと言って」
「強い女の子ね。彼のそばによくいるタイプだわ」
「はい。そして、禍根は取り除かれました。街は大きく様変わりし、技術革新を急ぐため、これからもしばらくは争いはないでしょう。ただ」
「ただ、なにかしら?」
「……あのレース、あまりにセンセーショナルで、前例がなく、おまけに思ったより好評でしたので」
なるほどと、老婆は手を打った。磁器同士がぶつかる、高質な音が響く。
老婆──ジャヴィール・ハイヤンは、その盲いた目を閉じ。
そっと、未来のトリストニアに思いを馳せた。
そこでは、オカルティストと碩学者が同じ飯を食べ、同じ酒を飲み、同じ話題に花を咲かせ。
そして年に一度、公平なレースでお互いの技術を競い合うのだ。
そんな、祝祭が生まれる未来を、彼女は予見した。
彼女こそ、ステラの到来を予知し、二つの陣営に情報をリークした元凶であり。
未来を予知することができる、特別な人間だった。
ジャヴィールは、穏やかに微笑む。
「きっと、それって素敵な未来だわ」
「はい、当方もそう思います」
「ねぇ、ジーナ」
紅茶を飲みほした老婆が、傍らに控える自動人形をゆっくりと見上げる。
そのなにも写さない瞳には、なにかの影が──未来の情景が映っていた。
「きっとね、必要になる日が来るのよ」
「…………」
「出会いと別れが、人の未来を築いていくの」
「…………」
「あなたもまた、ヘルメスに会いたいのでしょう?」
「……!」
思わぬ言葉に、面食らったように目を丸くするオートマタ。
老婆はまた、おかしそうに笑う。
彼女にとってジーナは、間違いなく最高傑作であるようだった。
「行ってらっしゃい、ホテルのことは任せておいて。あのひとたちの未来が、まばゆいものであるように、あなたの力を貸してあげて頂戴。ずっと昔、あの人が私に、そうしてくれたように」
「……了解しました。ご主人様」
「次からは、彼をそう呼んであげるといいわ。きっと、すごく嫌がるわよ?」
お茶目にウインクして見せる老婆を見て、ジーナは少しだけ考える。
はたして。
はたして、齢百五十を数えるこの創造主が、あのひとと呼ぶ錬金術師は、いったいどれだけの歳月を生きているのだろうかと。
彼女はそのことを少しだけ考えて。
すぐに、やめた。
出立の準備は、じつは整っている。必要になりそうなものから、不要そうなものまで、とにかく持てるだけまとめ上げたのだ。
追いつくには少し時間がかかるが、きっと顔を見せれば彼は──
「当方を、罵倒してくれることでしょう」
そのことを思うと、彼女の
老婆がふと、なにかを思いついたように、テーブルの下から荷物を取り出す。
「そうそう、これをもっていってあげて?」
「これは?」
「彼の旅路。その区切りに必要なものよ」
「承知しました。それではご主人様、しばらくのいとまを、頂戴します」
「いってらっしゃい。彼を助けてあげてね」
「御意に」
かくしてジーナは、旅立つ。
すでに町を出てひと月は経つ、錬金術師と魔女のコンビを追いかけて。
まさかそのころ、ヘルメスが敗北しているなどとは、つゆ知らず──
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