第七章 竜の試練 ~決然たる選択が拓くから~

第二十五錬成 はるかに遠いユメの出来事

 夢を見ている。

 そう理解できる。

 俺が夢を見る頻度は、多くない。おそらく不要なものだと、肉体が理解しているからだろう。

 それでもときには、夢を見る。

 それは空想などではなく。

 過去の、断片──


§§


 俺は夜の森の中を、息を切らして走っていた。

 なにかに急き立てられるように。

 鬱蒼と茂る木々の根や、草になんども足を取られて、転倒しながら。

 

 ──付き合い方を、間違えた結果だった。

 

 息が切れる。

 呼吸など、不要なものなのに。

 汗が噴き出る。

 冷却など、不要だというのに。

 恐怖に目が眩む。

 感情など、どれほど残っているのかわからないのに。


 それでも俺は走った。

 どこまでも逃げた。

 俺を追う猟師から少しでも距離をとるために、居もしない断罪者から逃れるために。

 ……違う。

 彼らを、これ以上傷つけてしまわないように。


 逃避行はいまに始まったことではない。

 神秘の結晶にして、真理の扉ヘブンズドア。いまもこの手の中にある真なる賢者の石を生み出した瞬間から、それは始まった。


 同じ場所に長くとどまることはできない。

 俺は齢を取らず、老いることはない。

 そんな自分の正体が、人々に知られるたび。

 俺の力を知って、彼らが欲望の化身へと堕落するたび。

 俺は耐えきれなくなって、何度も逃げ出したのだ。

 そんな愚行を、繰り返してきたのだ。

 今回もそうだ。

 俺は自分が怖くて、それ以上に彼らが恐ろしくて、逃げ出したのだ。


 逃げて、逃げて、逃げて。


 やがて、力尽きて、崩れ落ちる。

 肉体に異常はない。

 賢者の石の心臓が、すべてを黄金律に保っていた。

 ただ、精神だけが磨滅していた。

 あまりに擦り切れてしまって、このまま木々の栄養になるのもいいのではないかと、愚かしいことを大真面目に考えていた。


 そんなとき──彼女に出逢ったのだ。


「──なによ、森が騒がしいと思ったら、とんだ拾い物だわ」


 閉じていた瞼を、俺は力なくひらく。

 飛び込んできた光のまぶしさに、思わず顔をしかめた。

 銀。

 白銀の輝き。

 月光を束ねたような、美しく、冷たく、優しい光。

 賢者の石のように赤いその瞳が、俺を静かに見つめていて──


「首に巻いたきつねの毛皮。賢者の石がはめ込まれた支配者の王錫。人の思考をくらます、眩い黄金瞳おうごんどうの錬金術師。理解したわ。この数日、世俗せぞくを騒がせていたのはあなたね?」

「…………」

「ダメよ、不用意に海を割ったり、無償で半死人を生き返らせちゃ。疫病を全部治しちゃうのもダメ。それって奇跡じゃない? そりゃあ、人間はびっくりしちゃうわ。そうでしょう──」


 彼女は、そして俺の名を呼んだ。


「ヘルメス・トリスメギストス?」

「……違う。俺はもう、その名前を名乗れない。。それに……」


 ひどく億劫な口を、それでも開き、俺は反論する。


「好きで、やったんじゃない。望んだものたちが、いたからだ」


 そうだ、俺は自発的に行動したわけではない。

 確かに奇跡を起こした。

 なにかを救った。救おうとした。

 だが、すでに俺は、神秘の代行者になり果てていた。自動的な、世界の装置に過ぎなかったのだ。

 人でもないし、神のような威厳もない。

 真理をこの世に示すだけの、機械のような奴隷。

 それが、俺なのだ……


「やめてちょうだい。世界で唯一、ひとのまま真理に至った錬金術師が、そんな弱音を吐かないで。まったく、ほかの魔女が悲しむわ」

「悲しむ……なぜだ?」

「魔女は生まれつき、魔法という真理を行使する。でも、それは真理に至っているということじゃない。あたしたちは真理を認識できない。この世の最果てに辿り着けない。そう、死の一瞬まで肉の檻に縛られて、いま見える以上のことはわからないのよ。それでも、あたしたち魔女は探求をやめない。だからこそ、真理を体現したあなたが、うらやましい」

「…………」

「それにね、あなたは自動的なんかじゃない。神様の奴隷なんかじゃない。機械じゃなくて、人間だから。そして──人間の魂は、自由なんだから」


 その女は。

 魔女は確かに、そういったのだ。


「自由、だと?」

「そう、あなたは自由。どんなことだってできる力と、この世のすべてを知っていて、そしてそのうえで、人を救うことも救わないこともできる。そんなただの人間よ。もちろん……今日みたいに正体がばれて、逃げ出すことだってあるだろうけれどね?」


 彼女は笑った。

 胸のすくような、綺羅星のような笑顔で。

 優しく、俺という存在を肯定してくれた。


「ねぇ、あたしの家にいらっしゃいよ。温かいスープを御馳走してあげるわ。ひよこ豆、お嫌い?」

「……見てわかるだろ、俺は狐なんだ。肉のほうが好きだし、ひとを化かす。やめておけ」

「じゃあ、ひよこ豆のペーストにしましょう! 焼きたてのパンもあるのよ! それに、とっておきのアイスワインも! あまあまなのよ!」

「俺の話、聞いてるか?」

「フォックスフェイス」

「は?」

「今日からあなたのことを、そう呼ぶことにするわ。だってもう、三倍に偉大な錬金術師ではないのでしょう? だから、自分に嘘をつくのが得意な、大馬鹿者って意味で」

「おい」

「そうね。そして代わりに、あたしのことはこう呼んでちょうだい。祝福のステラ──」


 ステラ・ベネディクトゥスと。


祝福された綺羅星ステラ・ベネディクトゥス──」


 それが。

 俺と彼女の、出会いのすべて。

 星に愛された魔女、初代ステラ・ベネディクトゥスと。

 世界でたったひとりの到達者、真理の錬金術師、フォックスフェイスの御伽噺。


 はるかに遠い、ユメの出来事──


 彼女のことを、俺はいまだに覚えている。




 ──俺から、真なる賢者の石エメス・シナバルを奪った、盗人として。

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