第37話 いろいろな、恋の歌 6
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パパが悟おじさんに話して会社から許可を貰い、即座に引越しは実行に移された。朔も元々一人暮らしを考えていたからって、ご両親の許可もすぐに下りたみたい。私達の休暇が終わる前には三人分の荷物が運び込まれ、静かだった我が家は一気に賑やかになった。
朔は未成年だし、家主であるうちの両親はもうすぐオーストリアへ戻らないといけない。だから引っ越し祝いの食事会を開いて朔の両親を招いた。旭さんと翔平さんは顔見知りだったみたいだけど私は初対面。緊張しながら挨拶した朔のご両親は、朔と違って社交的だった。ギター教室をやっている朔のお父さんは体格が良くて笑顔が素敵なおじさまで、朔のお母さんはにこにこ優しそう。一緒に暮らす中に女の子がいると聞かされていなかった様子の二人は最初とっても焦っていたけど、うちの両親が説き伏せた。
「これで一安心だわ。娘をよろしくね? 特にサク」
ママが朔の肩に手を置いて微笑んだ。朔は当然だという顔で頷いているけど、側にいた私は首を傾げる。
「どうして朔なの?」
「それはチトセだって、自分でわかっているでしょう?」
曲に全部出ていたといっても名前まで歌詞に入れた訳じゃないのに、ママは鋭い。でも私は頷く事なんて出来ない。暗い表情で俯いてしまった私を、ママが抱き寄せた。
「ねぇチトセ。欲しいものには手を伸ばしなさい。確かに、自分勝手な行動は周りを不快にさせるし迷惑だって掛けるわ。でもそれでも、我慢すべき場所を間違ってはいけないわ」
少しだけ困惑して、私はママを見上げる。
「コウだって自分の責任で選んだの。うちの可愛い娘を泣かせた事には腹が立つけれどそれはそれ。これはチトセだけの、チトセの人生なのだから」
私達の休暇が終わると同時に、両親はオーストリアへ帰って行った。
*
休暇も学校の夏休みも終わり、仕事、学校、レッスン、作曲に忙殺される日々に戻る。だけど変わったのは、四人の帰る場所が同じになった事。孤独に悩む暇なんてなくなった。
「千歳。起きてるか?」
自分の部屋で寝る準備をしていたら、朔が部屋のドアを叩いた。朔はこうして、眠る前の短い時間によく顔を出す。
「起きてるよ」
「アイス、食う?」
「食べる。旭さんと翔平さんは?」
「下で酒飲んでる」
「よく飲むねぇ」
「だな」
旭さんと翔平さんは、仕事が終わって帰って来るとよく二人で酒盛りをしてるんだ。参加出来ない私達は自然と二人一緒にいる事が増えた。ただ側にいて漫画や本を読んだり学校の宿題をしたり。そうして今夜も私の部屋で、ベッドを背凭れ代わりにして並んで座った私と朔は棒アイスを食べる。私はバニラ。朔はチョコ。
「チョコ、美味しい?」
「食う?」
「食べる」
朔が一口かじった後で、私はチョコアイスをもらう為に近付いた。だけど顎を掴まれ、キスされる。朔の舌と一緒に溶けたアイスが流れ込んで来た。
「うまい?」
朔の唇が離れ、囁かれる。どういう反応をしたら良いのかわからなくて、私の視線は彷徨った。答えないでいたらアイスを持つ手が捕まり、手首からアイスに向かって朔の舌が舐め上げる。
「な、何してんの?」
動揺した私の顔を見て、朔は平然と答えた。
「溶けてる」
指摘され、慌ててアイスを食べたら頭の奥がキーンとした。静かに苦しんでいる私をバカだなと笑い、朔も自分のアイスをあっという間に完食する。
どちらからともなく視線が絡まり、でも私は動けない。動いたのは朔で、そっと唇が重なった。朔の瞳は私の様子を窺っている。
「今まで、何もしなかったじゃん」
何かを誤魔化したくて、私は頬を膨らませ憎まれ口を叩く。
「油断してたのか?」
素直に頷くと、朔が笑った。育てずに殺してしまったはずのものが、胸の奥で小さな痛みを訴える。
「そろそろ、良いかなって」
「何が?」
「千歳が泣きそうな顔しなくなったから」
「何、それ」
「なぁ……もっと」
「ダメ」
「嫌なの?」
わかっていて、朔は聞いてるんだ。口元が意地悪な笑みを形作っているから、わかる。
「お前は難しく考え過ぎなんだ。考えないで、捕まっちまえ」
朔は私を捕まえて、引き寄せた。後頭部を掴み、逃がさないというようにもう片方の手では私の二の腕を掴んでる。ずっと私の様子を窺っている朔の瞳が近付いて、私は目を閉じた。
与えられたのは溶け合ってしまいそうな程甘ったるいキス。それはなんだか、幸福の味がした。
*
アイスのキスから、朔は毎日寝る前、私にキスをしに来る。どんなに疲れていても必ず。
「千歳」
掠れた朔の声に呼ばれると、私は思考を放棄する。夜の私の部屋で、二人だけの日課。決定的な言葉はない。ただキスだけが私を甘く痺れさせる。
「千歳に、触れたい……」
何度目かもわからない夜。朔が切なそうな、切羽詰まったような声で囁いた。
胸の奥、私の心が喜びで震える。
「朔の好きにして」
「……初めて?」
それに対する答えは少し、難しい。洸くんの顔が頭を掠め、あの時悩んで彼を押しとどめていた理由を思い出す。ここ最近は――というか朔といる時には、前世の記憶で思い悩む事はなくなっていた。
「どう思う?」
意地悪く微笑んだ私の頬を、朔の指が滑る。
「確かめろって事?」
熱い視線に絡め取られ、だけど私はまだ、答えをあげない。
「……確かめたいの?」
「確かめたい」
朔との駆け引きはぞくぞくして、癖になりそうだ。
「旭さんと翔平さんは?」
「下で酒飲んでる。気付いても、なんも言わねぇだろ」
それでやっと私は、手を伸ばす。ねぇ朔、私はもう素直になっても良いかな。難しく悩むのは、終わりで良いのかな?
「……確かめて、いいよ」
思わず声が震えてしまった。誤魔化すように指先で朔の唇をなぞると、噛み付かれた。
「悪女が似合う癖に、似合ってねぇな」
歯で挟み込んだ私の指先を放し、朔が笑った。そのまま距離がゼロになる。焦ったようなキスは、求められていると実感出来て気持ちが良い。朔の手が私の肌に触れ、私の心を暴いていく。瞳は余裕がなくて獰猛なのに、朔の全部が優しい。
境界なんて曖昧になっちゃうほどに朔と溶け合うその行為は、胸にぽっかり空いていた穴を温かく満たしてくれた。
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