第34話 いろいろな、恋の歌 3
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飛行機の中、朔は私にただ見守るだけだと告げた。長い移動中に寂しい思いをしないよう、一緒に来てくれるだけなんだって。それを過保護って言うんだよ、朔。
洸くんの大学はもう夏休みに入ってるはずだけど、今年も夏学期を利用して勉強するらしく日本には帰って来ない。空港に着いたのは朝の早い時間。タクシーに乗って洸くんが住むアパートメントへ向かった。今日の訪問について、実は伝えていない。サプライズで顔を見せたら喜んでくれるんじゃないかなっていう思惑もあるけど、事前に知らせておいたら洸くんは時間の調整をしてくれるかもしれない。でもそれは、頑張っている洸くんの邪魔になっちゃうから。許されている滞在時間もそんなに長い訳じゃないし、悟おじさんにも驚かせたいから言わないでねってお願いしてあるんだ。
「んじゃあ、俺らはここで待ってるから。いってらっしゃい」
翔平さんに手を振られ、私は笑顔で頷く。この近辺でタクシーを拾うのは大変だから、タクシーの運転手さんにはチップを渡してその場で待っていてもらう事にした。旭さんと翔平さんと朔もその場で待つと言っている。でも気にしないでゆっくりしておいでと送り出され、私は逸る気持ちのままに駆け出した。
まだ起きるには早い時間だけど、家には確実にいると思う。直接声が聞きたかった。顔を見て、触れて、キスして――洸くんは、喜んでくれるかな。笑ってくれるかな。私の大好きなあの笑顔に、早く会いたいよ。
エントランスを潜り、階段を駆け上がる。辿り着いたドアの前で呼吸を整え、ベルを鳴らした。まだ寝てるかな? ごめんねって心の中で謝って、もう一度鳴らしてみる。
「え? ち……ちぃ?」
開いたドア。会いたくて堪らなかった人が顔を出す。
「洸くん! 会いたかった!」
相当驚いたみたいで洸くんの目がまん丸に見開かれた。私は笑顔で手を伸ばして触れようとしたんだけど、躊躇う。何かが違った。想像と違って洸くんは笑ってくれない。そこには歓喜は見受けられなくて、あるのは――焦り。よく見てみると、洸くんの目が泳いでいた。そういえばと視線を下げる。目の前の彼は上半身裸の状態。今は夏間近で確かに暑いけれど……洸くんてこんな格好で眠る人だったかな?
『コウ。誰?』
部屋の中から聞こえた、少しハスキーな女性の声。英語で話す彼女は何故か、寝室から現れた。ダークブラウンの波打つ髪をした、ラテン系の女の人。どうして下着姿に近い格好でここにいるの?
「ちぃ、これは……彼女、同じ大学の友人で……」
しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ彼から香ったのは、私のじゃない、女性用の香水。それと気付いちゃった。洸くんの手に指輪がない。どくりと嫌な音が、胸の真ん中で鳴った。体を巡る血がどろどろとした液体に代わってしまったみたいに、体が重くなる。
『初めまして。ちょっと旅行で来たので寄ったんですけど、もしかしてステディな関係の方ですか?』
努めて明るい声を出して、私は女性へ話しかけた。心の中では必死に願う。お願い。お願いだから、否定して。レポートだとか学校のそういう何かで友人関係で集まったりして、昨夜は遅くなったからここに泊まったとか……彼女の服装はほら! パジャマがなかったからだとか――
『そう。コウの恋人なの。可愛い子ね? 妹かしら?』
ぐらり、世界が揺れた。
『お邪魔しちゃったみたい。こんな朝からごめんなさい』
逃げたい。逃げたいけど、話さないと。だって今を逃したら、私達はただ遠くなる。すれ違ってしまう。
「実は私、すぐに帰らないといけないの。仕事でアメリカに来たから寄ったんだ」
「ちぃ、違う。待って」
「とりあえず服を着たら? 彼女が訝しんでる」
自分で、自分の冷たい声に驚いた。洸くんの後ろでは、洸くんの恋人だと名乗った彼女が日本語での会話に首を傾げている。仕事で鍛えた笑顔のポーカーフェイス。私は上手に笑って、彼女への誤魔化しの言葉を口にする。
『お邪魔だとは思うんですけど、久しぶりに兄に会えたものだから。少しお借りしても?』
『構わないわ。私の事は気にしないで』
『ありがとうございます』
もしこれが朔へ抱いてしまった私の感情への罰なんだとしても、こんなのってないよ。自業自得なのかな。私が失うのは、両方だったって事なのかな。ぐるぐる、頭の中を言葉が巡る。外で待っているみんなの前に、私はどんな顔して出て行けば良いんだろう。私は今から何の話を、洸くんとするんだろう。
シャツを羽織った洸くんを連れ、彼女のいる部屋を後にした。だけど建物から外へは出ないで、一階のエントランスで足を止める。
「みんながすぐそこにいるの。だから、ここで良い?」
真っ青な顔で黙り込む洸くんを、私は見上げる。洸くんがこんなに動揺している姿なんて、初めて見た。
「ちぃ。待って。違う。違うんだ」
喉の奥がひり付いて、痛い。涙の気配を無理矢理飲み込み私は笑う。だってどちらかが冷静にならないと、会話が成り立たなくなっちゃうから。
「うん。それはさっき聞いたよ? 話したいの。聞きたいの。だから洸くん、落ち着いて?」
泣きたいけど、叫びたいけど、私は微笑み彼を宥めた。だけど手は動かない。知らない香りを纏った彼には、触れられない。
「ごめん。ちぃ、ごめん……耐えられなかったんだ……」
「寂しかった?」
「寂しかった。連絡も取れなくて、会えなくて」
「そうだよね。ごめんね? 朔の事も関係ある? 私を、信じられなくなっちゃった?」
「違う。ちぃの事は信じてた。俺が、耐えられなくて……ごめん。ごめん」
泣き出してしまった彼。私はどうすれば良いんだろう? どうしたいんだろう? わかるのは、今までとは変わってしまったという事。
「彼女を、抱いた?」
躊躇った後で、泣きながら洸くんは頷いた。
「彼女を好き?」
「……ご、ごめん」
謝ってばかり。私も泣きたい。でも私にそんな権利、あるのかな? 私も彼を裏切っていたのと同じなのかもしれない。選んだからって元通り、手に入れられるなんて許されなかったのかな。ねぇ洸くん、私は貴方と一緒に、この人生を歩んで行きたかった。
「……これ、返さなくちゃかなぁ?」
ずっと大事に身に着けていた誓いのリング。私はそれを首から外し、彼へ差し出す。
「待って。ちぃ、待って」
罰なんだ。これは罰。朔にキスされ、縋り付いてしまった私への罰だ。私に彼を詰る資格はない。
「洸くん大好き。でももう、私に縛られなくて良いよ? 日本に帰って来ても、変な態度なんて取らないから」
笑え。笑え。笑え。震えも何もかも全部、全力で抑え込む。だって、ここで私が泣けば洸くんが悪者で、泣かなければきっと、私の方が悪者になれる。私に彼を縛り付ける権利はあるのかな。失いたくない人、でもだからこそ、未来の彼には幸せそうに笑ってもらいたい。その為に今邪魔なのは、私の存在なのかも。
「帰るね。バイバイ」
受け取ろうとしないネックレスを無理矢理押し付け、私は踵を返す。外へ出た私を洸くんは、追い掛けて来なかった。きっと、それが彼の答え。
鼻から大きく息を吸って、涙の気配を吐き出した。
「みんな、お待たせ!」
待っていてくれた三人へ駆け寄って、幸せそうな笑顔を受かべる。悟らせないよう、私は自分に暗示を掛ける。
「帰ろう!」
「おい。なんかあっただろ?」
「何かって? 久しぶりに恋人に会えて幸せ! 泊まってもっと一緒にいたかったなぁ」
朔は気付いちゃう。お願いだから、今は何も言わないで。私は自分の力で立たなくちゃいけないの。
「朔。とりあえず、ここ離れるぞ」
旭さんには心の中でお礼を言って、待たせていたタクシーへ乗り込んだ。
泣くな。涙よ零れるな。堪えろ。笑え――
「千歳。泣け」
「っ、さ……朔の、ばかッ」
自分の膝に顔押し付けて、決壊してしまった涙腺をどうすることも出来なかった。
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