第51話 密

     2


「広瀬さーん!」

 満開の愛らしい笑顔を浮かべて駆け寄って来たのは姫君。いつでも笑顔を絶やさず可愛いらしい女の子。だけれど妖艶な美女の顔も出来る、不思議な子。

「おめでとう、姫君」

「ありがとう!」

 喜びを全身で表現して、私に抱き付き頬へキスをしてきた彼女は今日、ホリホックのギタリストである朔と入籍したばかり。つい先日二十歳になった彼女は、自分の人生をあっという間に決めてしまった。それを目の前で見ていると余計に、自分の境遇が悲しくなる。三十も過ぎて秘密の恋だなんて……やめるべきよね。

「千歳」

「はいはーい」

 呼ばれ、姫君は嬉しそうに夫となった朔のもとへと駆けて行く。

 最初の頃、てっきり私はこの二人が恋人同士なのだと思っていた。でもそれはどうやら違っていたみたいで、専属マネージャーとなってからよく観察してみた二人の関係は難しいものだったみたい。その真相を私は旭から聞かせてもらったけれど、私個人としては、姫が朔を選んでくれて良かったと思う。だって今の二人は本当に幸せそうで、互いを想い合っているのが傍目でもよくわかるもの。

「朔も、おめでとう」

「どうも」

 あんなに不愛想だったはずの朔が、照れつつも幸せそうに笑っている。

「これから社長の所かしら?」

「そう! 悟おじさんと洸くんに報告しに行くの!」

「あいつには会いたくねぇな。殴りたくなる」

「こら朔、副社長をあいつ呼ばわりしないの」

「副社長だなんて認めねぇ」

「朔が認めなくたって副社長は副社長だからね!」

 心底不愉快そうに舌打ちしている朔は、社長の息子である副社長の事を嫌っている。彼が帰国した後での最初の顔合わせの時には殴り掛かり、それを旭も翔平も止めようとはしなかった。

 頭に血を上らせ暴走し掛けた朔を止めたのは、姫君の涙。

「朔! 朔っ、朔……朔!」

 何度も自分を呼ぶ声に、朔は慌てて姫君の所へ駆け戻った。

「朔、だめ。だめだよ。怪我は? 指は大丈夫?」

 朔の手を心配した姫君。

「お前はもう、大丈夫なのか?」

 姫君の心を心配した朔。

「大丈夫だよ。朔がいてくれるから」

「そうか」

 私はそれを見て、二人が心底羨ましかった。

 社長室へ向かう二人を見送る私のスマホに、メッセージが届いた。「いつもの場所」。短いこれは旭からのメッセージ。呼ばれてすぐに向かってしまう私は結局、不毛なこの恋をやめられそうにないみたい。

「恵美」

 だってこんなにも、彼に呼ばれる自分の名前が特別に響く。伸ばされた手に歩み寄り、ご褒美みたいに与えられる深いキス。旭の腕の中、私の思考は停止して他の事なんて全部消えてしまう。

「朔と姫に、会った?」

「……会ったわ。幸せそうだった」

 今その事を言わないで欲しい。現実を思い出してしまうじゃない。

 思わず目を伏せた私を見て、旭が笑う気配がした。

「恵美が欲しい堅実と安定。俺ってどうかな?」

「え?」

「恵美の嫌がっていたたミュージシャンだけど、これからもたくさん作詞して稼ぐから――俺と、結婚しないか?」

 一瞬で色々な事を考えた。マネージャーとミュージシャンの結婚なんてゴシップかしらとか。こんなに美形の旦那だったら嫉妬の日々かしらとか。結婚式は出来ないのかしらとか。だけど本当は、ずっと欲しかった言葉。

「その涙は、どっちの意味?」

「……指輪は?」

「ある」

 泣きながら要求する私の左手を取り、旭が嵌めてくれたのはダイヤモンドの指輪。

「ベタね」

「恵美は好きだろ、ベタ。ほんとはさ、誕生日にって思ってたんだ。だけど恵美があまりにも切なそうに朔と姫を見てたもんだから……フライング」

 見られていた事実に、私の顔には熱がのぼる。油断していた。

「返事は?」

 薬指のダイヤを眺め、旭の顔を見上げて……だけどもう、余計な事を考えるのは放棄した。

「イエスよ!」

 彼の首に抱き付きキスをして、笑い合う。

 私と旭は、姫君と朔に続くように極秘で入籍する事となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る