2 広瀬の

第50話 秘

    1


 ――どうしてこうなった?

 私が頭を抱えている場所はベッドの上。しかも仕事で来た場所で、最悪な事に受け持ちのミュージシャンに割り振られた部屋のベッドで裸。どうしてこうなった? 何度もぐるぐる頭の中を回る問い。答えは決まっている。私が彼に体を許してしまった理由は……恋に落ちてしまっていたからだ。二十八にもなって、まさか職場の、しかも私が望んでいる安定とは程遠い場所にいるミュージシャン。マネージャーとしての私のプロ意識が消えた訳じゃないと信じたい。

「恵美、起きたのか?」

 シャワーを浴びていたのか、タオルを首へ掛けた状態で現れたスキンヘッドの男。彼の耳の後ろに小さな刺青が入っている事を私は知っている。だって、昨夜見つけてしまったから。マネージャーとミュージシャンとしての距離感を保てていたのなら、背の高い彼のそんな場所は見られないもの。旭――やっぱりなんて、良い男。体に無駄な肉がついていないどころか筋肉質で、顔も整っている。これまでの私だったら最高の商品としてしか見なかったはずの相手。

「恵美?」

 何も答えずぼんやりしたままの私の様子に首を傾げ、旭が歩み寄って来る。

「なぁ。煙草吸いたいから、もう一回」

 旭が発したその言葉。これはこうなってしまった要因の一つ。昨夜の口実。口寂しい旭の、私は煙草代わり。

「私、バレない内に戻らないと」

 きっとこれは、南国の雰囲気にやられたの。煙草を吸う場所が少ないハワイの所為。だってそうじゃなきゃ、こんな良い男が私を欲しがってくれるなんておかしいもの。

「これっきりだとか……言わないよな?」

 どうして? どうしてそんな瞳で私を見るの? 勘違いしちゃうじゃない。ただの煙草の代わりじゃなくて、本当に彼が、私を求めてくれているのかもしれないって。

「恵美、好きだ」

 私が欲しいのは、堅実と安定。危険な恋なんていらないはずだった。でも――

「私も旭が好き」

 落ちてはいけない相手に、恋をしてしまったの。


 彼ら、ホリホックのマネージャーに私が選ばれたのは偶然だった。ボーカルの姫君が社長の関係者だから、彼女の安全を考慮して女の私が選ばれたっていうだけ。その時私はいくつかの新人を担当していて、ホリホックもその中の一つだった。でも一番音に力があって、一番売れるグループだと思ったのも事実。はじめて彼らの曲を聞いた時は誰もが期待でその身を震わせた。それでも私は深く付き合うつもりなんて微塵もなくて、ただの仕事相手として接していた。だって、これだけ実力のあるアーティストだもの。きっとすぐに私の手を離れてもっと上の人が担当するようになると思っていたから。

 ボーカルの姫君は高飛車そうな見た目とは裏腹に元気で明るく気さくな子で、ギターの朔は不愛想だけど腕は確かな男の子。年長者の旭はしっかりしていて周りへ気を配る事も出来て、一番屈折していそうなベースの翔平とも仲良く付き合っている。私の最初の直感通りホリホックは破竹の勢いで芸能界の階段を駆け上がり、でも私の想像とは違って担当マネージャーは私のまま。他に受け持っていたグループを違う人間へ引き継いで、私がホリホック専属のマネージャーとなった。そうして彼らと過ごす時間が増えて行った私は特に、リーダー的存在の旭とはよく話をした。内容は全部仕事の事。彼はメンバーを気遣い、気配りの出来る大人の男性だった。三歳も年下のくせにそうは見えなくて、なんだかんだと私も彼を頼るようになっていた。

 恋愛感情なんて抱いていないつもりだったのに、いつの間に私はこんなにも、彼に溺れてしまっていたのかしら。戸惑いつつも関係は切れなくて、彼に触れられる幸福を手放せなくて、私と旭の関係はハワイ以降も続いていた。彼が私に手を伸ばすのは決まって会社内の物陰。人目を憚りつつも逢瀬を重ね、私は抜け出せない。職場でこんな事をしている同僚も何人かいたけれど、そんな彼らへ軽蔑の眼差しを向けていたこの私が、溺れて囚われ、逃げられない。

「恵美、好きだ」

「もっと言って?」

「好きだよ」

 重ねれば重ねるだけ、愛しさが募る。言葉を求めるくせに、私は決して自分の本心は口にしなかった。だって、口にしてしまえばもうダメになる。本格的に溺れてしまう。もう手遅れになっている自分の気持ちからは必死に目を逸らし続ける私。物陰で、隠れた場所だけで許される私と旭の秘密の時間。その時だけ、私は彼の恋人になれる。

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