4 ファビオラ

第53話 心

 長い事私が暮らしていたのは狭いトレーラーハウス。メキシコ人の父とスペイン人の母の間に産まれ、母は私が幼い頃どこかへ消えた。

 アメリカに住んでいても英語を話せない父の稼ぎは少なくて、働けるようになってからは私も家計を助ける為働きに出ていた。働かせてもらっていた場所はジャパニーズレストラン。私はそこでウェイトレスをしていたの。昔から父もそこの厨房で働かせてもらっていたから、オーナー夫妻には幼い時からお世話になっていた。コックをしている旦那さんが日本人で奥さんはアメリカ人。子供の頃の私の食事は主に、そこでもらって来る余り物の料理だった。

 自分で稼いだお金で通えるようになった大学で、私は一人の日本人と出会う事になる。何の苦労も知らないって顔で笑って、世間の厳しさを知らないおぼっちゃま。私が欲しくても手に入れられないものを持つ彼に、いつしか私は惹かれていた。

 世界はいつでも不平等。

 おぼっちゃまの名前は連城洸。彼の指には誓いのリングが常に輝いていた。日本へ残して来た彼女とペアなんだって、幸せそうに話している所を何度も見た。でも時間が経つにつれ、彼と親しくなるにつれ、洸の表情は陰っていく。彼女と中々連絡が取れなくなって寂しいと言って、悲しそうな笑みを浮かべるようになっていた。

『私が側にいてあげる。私なら、側にいてあげるわ』

 悔しくて、羨ましくて、妬ましかった。

 いつしか私は洸が欲しくてたまらなくなっていた。

『コウ……』

 お願い、私の手を取って。私を選んで。

 彼の瞳を見つめ、手に触れて、何度も何度も、私は甘い毒を流し込んだ。

『ファブ』

 優しく穏やかに微笑む彼の笑顔を、私のものにしたいと思った。

『だめだよ、ファビオラ。俺は君の想いには答えられない。俺は、ちぃと約束したんだ。彼女は俺を待ってくれているから』

 だけど今側にいるのは私よ? 今あなたに寂しい思いをさせているのは彼女。あなたの寂しさを癒しているのは――私。

『コウ。あなたが好き』

 いつだって不平等で厳し過ぎる程厳しいこの世の中。だけど自分で動いて必死に手を伸ばせば、掴めるものだってあるはずでしょう?

『コウ』

 お願い。私を選んで――――


     *


 トレーラーハウスの狭いキッチンで朝食を作って、中々起きない父親を怒鳴りつける。二人分の朝食を用意した私は自分の分を先に食べて家を出る。

 学費を稼ぎながらも必死に学ぶ日々。

 大学へ入ってからは、私は自分で部屋を借りた。這い上がる為、必死に勉強して大学を卒業した。

 就職して、私は自分で手に入れた私だけの人生を生きる。安定した収入のある仕事。住む部屋だって、セキュリティがしっかりしていて女の一人暮らしでも安全な地域と建物。仕事の後にはワインを飲んで疲れを癒す。そんな、昔の私が必死になって手に入れようと望んでいた生活。

 だけどこれは違う。空虚に感じてしまう。だってそこには……洸とエレナがいないんだもの。

「ファブ? どうして泣いているの?」

 降って来た柔らかな声に、悪夢からすくわれた。

「嫌な夢でも見ていた?」

 重たい気分のまま目を開けた私は急いで辺りを見回した。いつの間にか窓の外が暗い。腕の中には娘のエレナがいて、一緒に眠ってしまっていた事に気が付いた。ここは彼と娘と共に暮らす日本にある我が家で……目の前には、洸がいる。私の薬指には指輪があって、同じ物が彼の指にも嵌められている。そこまで確認して、私はほっと息を吐き出した。

「ごめんなさい。眠っていたみたい。……それは?」

 彼は大きな花束を持っていた。逆の手には大きなうさぎのぬいぐるみ。

「君とエレナに」

 かつての私が手に入れたいと思っていた柔らかな笑みと共に、抱えきれない程の花が差し出される。

「……だでぃ?」

「ただいま、エレナ」

「おかえんなさい。きゃー、うさちゃん!」

 大きなうさぎに飛び付く娘を、夫と共に見守った。

「今日、ちぃに会ったよ」

 静かなその声で、私は嫌な夢を見た理由を悟る。洸の大切な彼女が今日ついに、別の誰かのものになった日だからだ。私が引き裂いた二人への罪悪感は未だ心の底で凝っている。

「ねぇファブ」

「なぁに?」

 花の香りを嗅ぐ事で暗い感情を隠して誤魔化した私を、彼が捕まえる。

「愛しているよ。俺は今、とっても幸せなんだ」

「そう。……でもね、洸。例えあなたが不幸だと思っていたって私、あなたを逃がしてなんてあげないわ」

「逃げないよ」

 歪んだ私の心を包み込むように、彼は私を抱き締めた。その腕の中、私はじっと目を閉じる。

「ファブとエレナがいる今が、本当に幸せなんだ」

「……私も。私も幸せよ? 洸とエレナといられる日々が、泣きたくなるくらい……毎日幸せなの」

 許して欲しいなんて言わない、思わない。だって私が、洸を全力で幸せにするんだって決めたんだもの。

「マミィ、ダディ。エレナもぎゅー」

 消えない罪悪感を背負ってでも手に入れたかったもの。彼の笑顔とぬくもり。そして私へ向けられる想い。

「ちぃ、幸せそうだった」

「そう。ここには明日来ると言っていたわ」

「ちぃちゃん、エレナと遊ぶんだってぇ」

 欲しかったものは今ここにある。だからこそ過去にばかり囚われていないで私は――私達は前へ進むの。

「愛しているわ、洸」

「俺も、ファビオラとエレナを心から愛してる。……ファブ、日本語本当に上手くなったよね。親父も褒めていたよ」

「昔から勉強は得意なの」

 抱えきれない程の花束は、抱えきれない程の幸福。大きなうさぎのぬいぐるみは、大きな愛。それらに囲まれる日々の中、心の中の罪の意識はいつしか溶けていく。



「こんにちは。ファビオラ、エレナ。エレナにお土産だよ!」

「ちぃちゃんいらっしゃーい! おみやげなぁに?」

「お土産はぁ、エレナの好きなプリンでーす」

「プリン、やったぁ!」

 次の日、忙しいだろうに彼女は結婚の報告にやって来た。よく千歳はここへ遊びに来る。お茶を飲みながら、私達はたくさんの言葉を交わす。

「結婚おめでとう、千歳」

 エレナが飛びつこうとしている箱を受け取ってから私は、千歳へ祝いの言葉を贈る。

「ありがとう!」

 彼女の笑顔は可愛らしい花のよう。幸福が、そこへ咲く。

「私は幸せだから、ファブばかりがそうやって悲しそうに笑わなくたって良いんだよ?」

 千歳の言葉に、驚いた。そんな笑みを浮かべていた覚えはない。

「あなたが幸せそうで、私は嬉しい」

「マミィ? どして泣く?」

 心配そうに見上げて来た娘を抱き上げ、いつの間にか溢れ出していた涙を拭った。

「エレナのママはね、幸せだなって泣いてるんだよ」

「そなの? マミィしあわせ?」

 小さな手が頬に添えられ、そのぬくもりにまた涙が滲む。

 洸みたいに柔らかな笑みを浮かべた千歳が、私を見ている。

「とっても幸せよ。エレナも千歳も、大好き」

「エレナも! マミィもちぃちゃんも、ダディもじぃじもばぁばもみぃんなだいすきー」

「私もエレナとファブが大好きだよ!」

 ずっと、不平等で厳しいだけだと思っていた私の世界。必死に手を伸ばした末に手に入れたのは大切で失いがたい、大きな幸福。

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