6 旭
第55話 歌詞
はじめて吸った煙草がメンソールだったからか、今でも俺が気に入って吸うのはメンソールが強いもの。タールが重めで煙草吸っているって感じがするものが特に好みだ。いつもはじっくり味わいながら吸うが、今日は口に咥えて煙を燻らせながら悩みに悩む。今書いているのは姫に贈る歌。曲は朔が付ける予定だ。姫と朔は、最近では作詞も作曲も自分でやる事が多いけど俺と翔平は作詞が主。作曲の方はあんまり得意じゃない。代わりに編曲は俺と翔平の仕事で、姫と朔は編曲が得意じゃないんだ。
俺は、結婚してあの家を出た。代わりに今は愛香ちゃんがあそこで三人と一緒に暮らしている。翔平はどうやらまだ焦らし中らしい。彼女が焦れて、自分からその話題を出してくるのを待つのだとか。本当に捻くれた男だ。
姫は毎日幸せそうに笑っている。朔と楽しそうに騒いで、喧嘩もたまにして。寄り添うようにしながら二人はいつの間にかどんどん夫婦らしくなっていく。
「旭、まだ悩んでいるの?」
メンソールの煙を深く吸い込み、吐き出した。
「どうにも、姫に贈るって考えると余計に難しくてな。中々納得いくやつが書けないんだ」
「あなた達って本当に姫君が大好きよね」
恵美は苦笑を浮かべながら背後から腕を回し、俺の背に身を寄せて来る。彼女とは身内だけの式をした。互いの家族とホリホックのメンバー、それと社長だけのささやかな式。その式で姫は式中の聖歌を担当してくれて、朔と作ったという曲をプレゼントしてくれた。ピアノとアコースティックギターで朔と二人で歌うウェディングソング。社長が相当気に入って、CDを出すのが即決定したくらい良い曲だった。
「……姫はさ、埋もれて諦め掛けていた俺を見つけてここまで引き上げてくれたんだ」
あのライブハウスで、突然駆け寄って来て俺の手を握った女の子。あの時はまさか、その子とバンドを組んでデビューする事になるなんて欠片も思っていなかった。
「それが、あなた達の絆のきっかけなのかしら? 私が初めて会った時は既に、姫君ってあなた達にとても大切にされていたわよね」
「そうだな。俺も翔平も限界悟って諦めようとしていた時だったから……彼女がいなかったらどんな人生送っていたのか、想像すると怖いな」
きっと会っていなければ、俺のバンドは解散して、音楽に関われる仕事なんて探してみたりして……それともすっぱり諦めてどこかで就職でもしたのかな。今ではそんな自分が想像出来ないけど、今みたいに自分の仕事に誇りを持ちながらは働けていなかったかもしれない。
「私も姫君に感謝しないとならないわね。彼女がいなければ、あなたに会えなかったもの」
「そうだな」
人生ってのは、どこでどうなるかなんて誰にもわからない。諦めなければ叶うものでもないし、かといって諦めてしまえばチャンスすら掴めない。俺はチャンスを掴んだというよりも、運命の女神が与えてくれたって言葉がしっくり来る。彼女が俺の手を掴んだあの瞬間に道が開け、引き上げられた。導かれた。彼女がいなければ俺も翔平もきっと、今この場所に立ててはいない。
紫の宝石みたいな瞳をした、俺達の運命の女神。彼女に贈る曲は何よりも特別なものなんだ。
「少し、姫君が羨ましいわ」
寂しそうな呟きを拾ってすぐに、俺はするりと離れようとした恵美の手を掴んだ。
「不安にさせたか?」
「そうじゃないの。ただ何というか……本当に、羨ましいと思っただけ」
心を探るように見つめた先、恵美の顔には陰がある。俺達四人は仲が良すぎる自覚はあるから、奥さんを不安にさせないよう、寂しい思いをさせないよう気を付けないとならない。だって人の心は、努力なしじゃ繋ぎ留められないだろう。
「俺が愛しているのは恵美だ」
「えぇ、わかってる」
「姫へは恋心とか、そういう男女の感情はない」
「大丈夫、理解しているわ」
苦笑を浮かべた恵美の唇に、触れるだけのキスをする。
「煙草の匂い」
「悪い」
慌てて煙草を灰皿へ押し付け火を消した。
「あなたの匂いって感じで、嫌いじゃないわ」
俺は、彼女のこの静かな笑みが好きだ。大人だけど完璧じゃなくて、弱さもあって。人間らしく悩んで、それでも自分の足で踏ん張って生きている。そんな彼女の隣へ並んで一緒に生きて行きたいと思った。
「……子供、欲しくないか?」
「まだ明るいわ」
「時間なんて関係ねぇよ」
歌詞で悩むのは休憩で、愛する奥さんとの時間を過ごそう。
彼女が不安を感じたら、なるべく早く気付きたい。そして出来る事なら拭い去ってやりたい。そうやって寄り添って、言葉を交わして、時にはぶつかる事だってあるだろうけど放棄せず、背を向けず、共に悩んで解決して……一緒に生きるって、夫婦になるってそういう事なんじゃないかな。
「本当はね、よく、姫君に嫉妬するわ」
彼女が本音を隠して一人で泣かないよう、話し易い環境を作るのも大事だと思うから。
「だって私、あなたの全てを独り占めしたい。誰にも分けてあげたくなんてないの」
ベッドの上、恵美の手が俺の耳の裏にある刺青を撫でた。そこに彫られているのは馬で、仕事への願掛けって意味を込めて選んだ。でもその馬には他の意味もあって、家庭運を安定させる力もあるらしい。
「でもそんな事は無理だって理解はしているわ」
そう言って、恵美は寂しそうに微笑んだ。
「ならベッドの上では、俺の思考も全部独り占めしてくれ」
「ふふっ。あなたって本当に、良い男よね」
「そりゃどうも」
深い口付けを合図に俺達は、互いしか見えなくなる。
気だるく幸福な疲れが体に残っているのを感じながらも俺は、パソコンの前でメンソールの煙を吸って吐き出した。書き上げた歌詞のデータは朔へ送信して、スマホで翔平にもメッセージを送る。朔が曲付けをする間、姫を朔から引き離しておくのは愛香ちゃんの仕事なんだ。
朔と姫は、結婚式を挙げていない。姫自身は特に興味がないようだけど残念ながら、周りはそうじゃないんだな。姫のウェディングドレス姿を見たくて、社長に副社長、姫の両親も交えたこの計画。準備は姫に隠れてこっそりと進められている。作戦決行はもう少し暖かくなってから。
姫は驚くだろうな。そしてきっと、笑ってくれる。姫の笑顔を想像すると胸が温かく幸せな気分になるんだ。姫の笑顔の為ならきっと、俺達はなんだってする。
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