第36話 わたしわたし

 私は誰だろう、つくばから渋谷まで電車に揺られながら改めて考えていた。


 早川愛花、私は間違いなく早川愛花だった。でも、早川愛花のいる場所はもう消えてしまった。幼い頃の父と母のおぼろげな思い出と、二人を失った事故の記憶だけが私の原点を示してくれる。


 さざんかにいた頃はとても幸せだった。いつか両親が迎えに来てくれると信じて、弟を守ると誓って、毎日歯を食いしばっていた。リコちゃんと一緒に暮らして、お互いの不幸な生い立ちを幼いながらにも理解しあっていたと思う。


 対等で平等な関係だった。後にも先にもリコちゃんと同じ感覚で接しあえた人は誰もいない。環境は過酷だったけれども、リコちゃんというお友達に恵まれたことは、私にとって何ものにも代えがたい幸せの条件だった。


 そして、私は奥山愛花になることを決意して、弟をさざんかに置き去りにする決意をする。同時に、リコちゃんから新しいお母さんを奪い、最愛の友人を裏切り、失うことになる。


 この時点で私は不幸だったのだろうか。奥山家は私を愛してくれた。『普通の子』という環境も与えてくれた。私がいなくなったことで、弟の幸太も新しい家庭への養子縁組が決まった。良いことばかりだ。ただ、リコちゃんはいなくなってしまった。親戚のおうちへ行くことになったという話だけはかおりちゃんから聞いていた。でも、連絡先を聞くことができなかった。私は既にリコちゃんを失っていたからだ。


 リコちゃんはきっと私を憎んでいる。


 最愛の友人から恨まれている奥山愛花は、やはり、不幸だった。


 そして、母に望まれるまま、奥山真奈美になって私は過去をかき消した。早川愛花も、奥山愛花も消してしまった。不幸な愛花はもういない。私は幸せな奥山真奈美だ。


 渋谷駅を出ると私は『トラッシュボックス』という喫茶店を目指した。リコちゃんとの待ち合わせの場所だ。待ち合わせとは言っても、来てほしいというラインでの連絡に、私は返信していないので、リコちゃんがいるかどうかはわからない。いなければすぐに帰ればいい。そう思いながら喫茶店の重いドアを開けた。


 喫茶店の中は渋谷のトラッシュボックス(ゴミ箱)をそのまま再現したのだろうか、雑然としていて、いろいろなものが目に飛び込んでくる。まるで海賊のアジトのように口から金貨が飛び出した宝箱が置いてあったり、古い海図のタペストリーがかけてあったり、その隣にはアメリカの青春時代を思い起こさせるスターの古い写真や、仰々しいスポーツカーの模型が飾ってあったり、そうかと思えば、誰もいないカウンターには美しい絵本が並べてある。


「いらっしゃい」


 誰もいないと思っていたカウンターから細身の背の高い男がぬっと現れた、どうやら、カウンターの中で作業をしていたのに気が付かなかったようだ。私は不意をつかれて、返事に戸惑った。


「ま、待ち合わせなんです」


「待ち合わせ? こんな店で待ち合わせなんて変なことするねぇ、ここはゴミ捨て場だよ、いろんなものに捨てられた人間が集う店……ふうん、あんたもそんなに不似合いってわけでもないか」


 何もかもを見通すようなラテン系でタレ目がちの大きな目は、まるで占い師か魔法使いの様だ。私はその視線を避けて店内を見回した。リコちゃんの姿は見当たらない。私はやっぱり捨てられたのかもしれない。この店が私にはお似合いだとリコちゃんは言うのだろうか。


「真奈美……」


 私を呼ぶ声がして驚いた。私を真奈美と呼ぶ人はそう多くはない。声の方を見ると、落書きだらけのパーティションの奥から、見知った顔がこちらを覗いている。


「お母さん」


 驚いて駆け寄ると、奥まった席に、今度は懐かしい顔を見つけた。


「かおりちゃん? かおりちゃんがどうしてここに? なぜ、お母さんと一緒に?」


「真奈美……いいえ、愛花、実は……」


 お母さんから久しぶりに愛花と呼ばれて、胸がズキンとした。


「実はさざんかのかおりさんが、お家へいらしたの……愛花は元気ですか? ってね、そして、たくさんの話をしたの、あなたがうちへ来てくれてから今日までのこと。私は、私はね、ま……愛花、あなたのことを本当に、本当に大切に思っているの、私は、私は……」


 お母さんは必死だった。混乱していることもわかる。お母さんはこんなに早口で話す人ではない。いつもはゆったりと、フルートを奏でるように静かに厳かに話す人だ。でも、私のために必死になってくれているのだと思う。もしかしたらさざんかへの体裁を整えるためなのかもしれない。でも、単純に嬉しかった。


「愛花ちゃん、ずっと気がついていなくてごめんね、お父様の話を聞いたときに、こうやって奥山さんとあなたに会いに来るべきだったと後悔しているわ、本当にごめんね、でもね、リコちゃんが教えてくれたの、愛花を助けてあげてってね。でも、聞いて、奥山さんはね、愛花ちゃんのことを決して忘れていないのよ、あなたは、愛花、奥山愛花なのよ」


「リコちゃんが?」


 私にはよくわからなかった。リコちゃんは昔のことをすっかり忘れてしまっているようだった、あるいは演技かもと疑ったこともあったけれども、どちらにしても、自分から昔をほじくり返すようにかおりちゃんに連絡するはずがなかった。


「愛花、私は、あなたのことをとっても大切に思っているわ、でもね、ごめんね、亡くしてしまった真奈美のことも同じように大切なの、あなたがいてくれるのに、本当にごめんね、私は真奈美のことを忘れなければって、ずっと頑張ってきたんだけど、どうしてもできなくて、あの家の至る所にあの子の思い出が詰まっているの……」


 お母さんはその後はどんどん支離滅裂になりながらも私と真奈美さんへの思いを語った。その言葉に嘘はなかった。私は愛されていたという実感を少しずつ噛み締め始めた。とてもいびつで不格好な形だけれど、私とお母さんは、きっと親子でいられる、そう思えた。


 片隅に咲く、小さな雑草の花弁のように、今にも散って、消えてしまいそうだった私の心は、地に落ちる寸前に颯爽とした風に運ばれて、青く澄み切った空へと舞い上がった。花弁は、ほんのり色味を帯びて、ピンク色が雲一つない青に映えた。


「さあ、行きましょう! リコちゃんが待っているよ!」


 かおりちゃんは大きな声でそう言うと、私たちの肩を叩いて微笑んだ。


「ご注文は?」


「あ、すみません、結構です! ごめんなさい!」


 私たちは勢いよくドアを開けた。暗い店内に光が差し込み、目がくらんだ。


「まあ、必要なさそうだからいいけどね……」


 トラッシュボックスのマスターがそんな事を呟いたけれど、私はもう振り返らなかった。

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