第30話 大きく白い翼

(おーい、おーい)


 遠くから声がする。


(おーい、おーい)


 真っ暗で何も見えない。


(おーい、目を開けているかい?)


 わたしはパッと目を開いた。

 すると、目の前には、立ち込めたモクモクしたものが漂っていた。少し息苦しい。


 暗いような、明るいような、どちらが上か下かもわからない。


 周りを見回しても、モクモク以外は何も見えない。


 わたしは、より大きく目を見開いた。


「あ、目を開けた! 君はこんなところで何をしているんだい?」


 モクモクの向こう側から声が聞こえる……こちらからはまだ見えない。


「あなたは……だれ?」


「え? 何だって? 聞こえない、なあ、もう少し近づけないのかい?」


 わたしは声のする方へ行こうと手足をばたつかせた。手も足も、空を切るように何の手応えもない。ただ、モクモクを掻き回すだけだ。


 それでもわたしは必死でモクモクを漕いだ。バタバタ音が聞こえそうなぐらい、手足がちぎれるほどに振り回した。


 すると、声のする方にだんだんと影が現れ、次第にハッキリと見え始めた。


「やあ、こんな雲の中に誰かいるとは思わなかったよ。もしかして、天使かい?」


 声の主は小さな少年だった。


「天使? わたしが?」


 何と返事をしようかと戸惑っていたけれど、彼は特に返事を待っているようでもなかった。


「今日はね、二度目の挑戦なのさ。君はこの、煙と雲の先に何があるか知っているんだろう? だって飛べるんだからね」


「え? 飛べる?」


「なんだい! 君は自分が飛べることも知らないのかい? 今も飛んでいるのに?」


 わたしは飛んでいるようだ、さっきから、手も足も空を切るようだと思っていたけれども、その通り、プカプカと浮かんでいるらしい。


 わたしは今、空を飛んでいる、周りが雲と煙ばかりで何も見えないので気がつかなかった。


「いいな君は、僕みたいに苦労しなくていいからさ」


 彼は小さな飛行船に乗っていた、それは、とても小さく頼りなく、何より、風船をたくさん集めて作ったおもちゃのようなしろものだった。


「あなたは何をしているの?」


 問いかけても、彼は、もうわたしを見ていない。せわしく、おもちゃのような飛行船を操っている。


「一緒に来るかい? もっと高いところへ行くよ」


 ドタドタと小さな飛行船の中を行ったり来たりしながら、やっぱりこっちを見ずに、彼はそう言う。


 もっと高いところへ……一体、どこへ行くと言うんだろう。それに、ここはどこなんだろう。


「あなたの船に乗せてくれるの?」


「よし、準備オーケー……え? この船に乗りたいのかい? それより、自分で飛んできた方が速いでしょ? じゃあ行くよ」


 忙しく動き回っていた彼は、やっと落ち着いて、船内を指差し確認しながらそう言った。


「自分で飛ぶなんてできないよ、どうすればいいの?」


「あはは! 冗談だろう? 白くて大きな翼! そんなに立派な翼を背中に生やしていて飛べない筈がないだろ? さぁ、レッツゴー!!」


 翼? 背中に? わたしは顔を後ろへ向けて、背中の方を見た。


 そこにはなんと、本当に白くて大きな翼があった。わたしの背中には、天使のような翼が生えている!


「ひゅー! 急上昇だ!」


 彼がそう言うが早いか、飛行船はぐうんと上昇し、たちまちモクモクの中に姿を消した。


「まって!」


「あはは! もう待てないさ! さあ、羽ばたいて!」


「羽ばたく? 羽ばたく!」


――バサッ


 背中から、大きな風が吹いた。

 わたしの金色の長い髪をなびかせる。


 周りのモクモクを吹き飛ばし、わたしの体は彼の飛行船と同じように高く舞った。


「よし、抜けた! 成功だ!」


 声のする方へ向かって羽ばたくと、身体中がスピードを感じた。その時――


「星空……」


 視界を遮っていたモクモクを、あっという間に置き去りにすると、その上には、空一杯にきれいな星達が輝いていた。


「なんて……きれい」


 言葉をなくすとはこの事だ、圧倒的な光の芸術は、わたしの心も頭も、何もかもを掴んで離さない。


 これまで見た、何よりも美しい。比較できるものを知らないわたしは、ただただ、この星空を眺めるしかなかった。


 胸の奥がじんと熱くなる。この感じ……何かに似ている……何だったろう? でも、これ以上考えられない。


 ぼうっとしたまま、どれぐらい経っただろうか。


 やがて、一筋の涙が頬を伝うのを感じた時、心も頭も、やっとわたしのもとへ帰ってきた。


「きれいだろ? 僕は前に、お父さんと一緒にこの星を見た。君は誰と見たい?」


「わたしは……わたしは!」


 叫ぼうとした時、わたしは急激に連れ戻された。ガタンと大きな音が聞こえて、驚いて顔を上げると、目の前には、あの男がいた。


「おかえり、トラッシュボックスへのご帰還お疲れ様。本当に疲れていたんだろう? よく眠っていたよ」


――夢……を見ていた。


 わたしは絵本を読む内に眠ってしまったらしい。そして、夢を見た。夢というには生々しい感触を手や足が覚えている。


 ただ、背中には羽はなかった。


「背中に羽が生えて、飛ぶ夢を見たの……」


「そうかい、僕には初めから見えているけどね、大きな白い翼がね……羽ばたいてみたらどうだい?」


 翼が? そんなはずはない、あれは夢だ。


「そろそろ、始発が出るから……」


 わたしは南千住へ戻ることにした。見えない翼はわたしを南千住まで運んではくれない。


 でも……。


 お会計を済ませて店を出ようとすると呼び止められた。まだ、何か言うことがあるのだろうか。


「絵本を持っていくなよ、自分で買いなさい」


 



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