第28話 熱いミルク
眠らない渋谷も、少しおとなしくなってきた。流石にこの喫茶店『トラッシュボックス』も、もう、出ていく人ばかりで入ってくる人はいない。それでも、まだまだ空席はまばらだ。誰もが力なく、ぐったりとしている。まさに、トラッシュボックス《ごみばこ》の名前にふさわしい有り様だ。
わたしは空になったコップを持ってカウンターへ移動した。暖かいカフェオレを頼みたくなったけれど、大きな声で店員を呼ぶには静か過ぎると感じたからだ。寝込んでしまっている客も多い。
カウンターまで行くと、わたしは小さな声で店員を呼んだ。店の奥から不精髭を生やした背の高い男がぬっと現れて、少し驚いた。
「注文ですか……?」
「カフェオレを……ホットで……」
「ホット? この暑いのに?」
何だか失礼な店員だ。客の注文に注文つけるなんてどういう事だ。それに、細い腕に似合わない、じゃらりと極太のブレスレットが不釣り合いだ。
「ホットじゃ……いけませんか?」
「いけなかないけど……そんなに冷房効いてないよ、この店」
「そうですか?」
「ちょっと……やばいんじゃない? この店ってそうなんだよね……そういう奴が集まってくるんだよ」
「そういう奴?」
「そうそう、体温低くて死にそうな奴らがさ、あんたもそうだろ? 死にそうな顔してるぜ?」
死にそうな顔……それは否定できない。多分、私は今、短い人生の中でも一二を争うひどい顔をしているだろう。かと言って、この店員にそんなこと言われる筋合いはない。
「ほっといてもらえませんか? それよりホットカフェオレ、早くください」
「ホットいて、ホットカフェオレ……ってダジャレ? 待ちなよ、時間かかるんだよホットは……まったく面倒くさい」
そう言いながら、やっと店員は静かになった。しゃがんでミルクを取り出してくると、小さな鍋に注ぎ始めた。電子レンジがないのか、ご苦労なことだ。確かにムッとするのも少しは分かる。油断しているとミルクはすぐに吹きこぼれてしまう。わたしが急に暴力的になるのに似ている。わたしもミルクもどちらも色白だし……。
「ところでさ」
またしゃべりだした。どれだけおしゃべり好きなんだ、こんな夜中に。鍋に集中していないと吹きこぼしてしまうぞ。
「そんなに睨むなよ、大丈夫だよ、吹きこぼしたりなんかしないから」
考えていることを読まれた? まさか……しかし、この男は何か、わたしを見透かすような怖い目をしている。ラテン系でタレ目がちの大きな目で、わたしをじっと見る。
「何もかも失ってしまったって顔しているぞ、あんた大丈夫じゃないな、ま、でなければこんな店にこんな時間に独りで来ることもないか……で、何があった?」
いきなりぶっこんできた。これほどぶしつけな質問をされて事はない。こんなにどうでもいい男に大切なことを話せるものか……。
いや、だけれども……どうでもいい男だからこそ、話してみてもいいのかもしれない。
どうせ、どうにもならないだろうけど、少しは楽になるかも知れないし、この男にどう思われようと、どうともない、そして、何を知られようが、わたしには何の実害もない。
「……いいわ、話してあげる。わたし……養護施設で育ったの……それで、母親になってくれると思っていた人は、わたしを選ばないで、わたしの幼馴染みを選んでね」
「ほうほう、それはそれは……」
「ちゃんといい子になれると思ったの、お母さんに気に入ってもらえるようにね、でも、ダメだったみたい……わたしはその後、親戚の家に引き取られたんだけど――死んだ父さんの妹のおうちにね、でも、その旦那さんが、いわゆるネグレクトってやつでさ、凄く怖くて……どうにか怒らせないように頑張っていたんだけれど、結局そこを逃げ出したの」
「イケてるね! 君イケてるよ!」
まったく適当な相槌だ、本当に聞いているのだろうか……まあ、どうでもいいや。
「家を飛び出したのはいいんだけど、行く宛もなくてね……とりあえず、秋葉原で適当に過ごしていたの、そこで、怖い男の人に声をかけられてね、どうしようかと、まごまごしていると、女の人が助けてくれたの」
「そうか、よかったね、それどんな人?」
「その人は
「牧園? 知らないな」
「知らなくても当然よ、地下アイドルっていうやつ? でもね、その中ではトップクラスで、秋葉原じゃ結構有名な人だったの。実際に助けてくれたのは鳴美さんのファンの人達なんだけどね」
「ほうほう、そんな世界があるのか……渋谷では見かけないね、そんなの」
「でしょうね、特殊な世界だから……で、その救ってくれた恩人はね、南千住のおうちに連れて行ってくれて、泊めてくれた……ううん、そのまま住まわせてくれたの、わたし行くところがないから」
「へぇ! そんなことがあるんだ! え? じゃあ、まだ家出中なわけ? 何年ぐらい家出してるの? あー、行方不明者ってそんな風に生きている人もいるんだぁ、知らなかった」
どうでもいい男なのは変わらないけれど、実害はあった。いちいちリアクションが腹立たしい。
「沢山いるんじゃないかな? 知らないけど、わたしにとってはそれが普通だから……今となってはね」
「なるほど、それもそうか……で、その人とは今もいっしょに住んでいるの?」
「……ううん……いなくなっちゃった」
「え? 行方不明?」
「そう……行方不明」
「なんで!?」
「それが……詳しく知らないけれど、大きな借金を抱えて……って、誰かが言ってた……」
「あれ? でも、その部屋、まだ君、住んでるんでしょ? 名義はどうなっているの?」
「そこは会社が借りてるところだから大丈夫。寮みたいなもんね。寮費さえ払えば住んでていいのよ」
「会社? 寮? 何だか臭ってきたね、なんの会社なの?」
「アイドル養成所だよ、わたしも入ったのよ、鳴美さんに紹介してもらって……何が臭うの?」
「……君、会社に借金してない?」
ドキリとした。なぜ、そう思うのだろう。なぜ、言い当てたのだろう。確かにわたしは会社に借金をしている。会社というか、レーベルにだけれど。プロモーションビデオの撮影料の三百万円……早く稼いで返さなければ……。
「そ、そんなのどうでもいいでしょ?」
「やっぱりそうか……」
「やっぱりって何がよ」
「いや、予測だから気を悪くしないでね、その、鳴美さんも実は家出少女だろ?」
確かにそうだ……後々、そう話してくれた「だから君のことほっておけなかったのよ」と言っていた。
「僕が思うに、きっと、その会社は家出少女に家をあてがって、寮費で利ざやを稼いでいる。うまいことアイドルとして売れたらそれでよし、売れなかったら借金を背負わせて……売り飛ばしてるんじゃないかい?」
「そんな……まさか……」
「以外と歌舞伎町辺りを探せば見つかるかもね、鳴美さん」
「や、やめてよ! 鳴美さんはスッゴクきれいで賢くて優しくて……そんなところで働かなくてもやっていける人なんだよ!」
「そんなところってのは偏見だなぁ……でも、ま、借金の額によるよね、あんた、借金いくら?」
「三百万円……」
「返せる宛はないよね? 危ないんじゃない? その辺の弁護士に相談してみたら? 転がってるよ、あのソファの辺りに」
「……頼めないよ。お金無いし、未成年の家出少女だよ? 家に連れ戻されるのがオチよ」
「売られるよりいいだろ?」
「売られた方がまし!」
「そうかな? 知らないから……売られた先を」
そんなこと……あの家以上の地獄なんてあるはずがない。でも、鳴美さんは……今、どこで何をしているんだろう。わたしを救ってくれた恩人は……。
「とにかくまずは、君が今、死にそうってことをどうにかしなきゃね……」
――ジュワー
「アッチ! しまった! 余計な仕事を増やした! 君のせいだからな!」
男は、やっぱり鍋のミルクを吹きこぼした。
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