第27話 大切な出会い

 中野の家を出た後は比較的よく覚えている。今、渋谷の喫茶店に緊急避難しているように、わたしは、家を飛び出した後、夜を秋葉原の缶詰バーで明かした。


 たまたま身に付けていた財布だけを持って、私は秋葉原へ向かった。秋葉原を選んだのには特に理由があった訳じゃない。無機質な路線図を眺めたら、秋葉原だけが少し光って見えたからだ。


 ずっとアイドルに憧れていたから、行ってみたいと思っていた。


 中野の家では自分がやりたいことや欲しいものにお金を使うなんてことはできなかった。学校にも行っていなかったし、友達もいないから、ほとんど中野駅周辺しか私は知らなかった。


 財布に入っていたのは、全財産の千二百円だけだった。電車代を払えば、小銭しか残らない。不安にさいなまれながら混雑した車内で所在なく中吊り広告を眺めた。


 不安はどんどん増していった。この電車は本当に秋葉原駅に到着するのだろうか、何度も確認したけれど、それでも信じられなかった。電車をではなく、自分を……。


 やっと不安から開放してくれたのは車内アナウンスだった。心の底から車掌さんにありがとうを呟いた。乗客のほとんどが秋葉原駅で降りるようだ。私はぎゅうぎゅうと押し潰されながら、やっとホームを踏み締め、そのまま人の流れのゆくままに改札へと向かった。


 そこは、まるで夢の世界だった。


 キラキラ輝く街並みに、可愛らしいメイドさんや、おしゃれをした女の子や外国からの観光客で溢れていた。ビルの全面に貼り付けられたキラキラした大きな看板に引き寄せられて、私はアイドル劇場の前にやって来た。


 劇場には長い列が続いている。わたしは入れなかったけれど、にこにこしながら開場を待つ女の子たちと同じ気持ちで、その様子を眺めた。それだけで、夢の中にいるようだった。


 長い列が劇場に吸い込まれていくのを何度か見送ると、遂に、夢は覚めてしまった。大きな看板から明かりが消えると、まるで、お祭りの様に賑わっていた劇場前も、火が消えたように静まり返った。


 気がつけば、すっかり夜になっていた。わたしはフラフラとさまよう内に、駅の近くの缶詰バーへ辿り付き、一番安いサバ缶をちびちび閉店まで時間をかけて食べた。それは、長い長い夜だった。


 まだ、朝日も浴びない内に缶詰バーを追い出され、しょうがないので、また、劇場前にやって来た。公園のように少し広くなった歩道脇のベンチで、劇場看板を見ながら夢と現実を行き来した。


 目を瞑れば、わたしはたちまちアイドルに変身し、輝く舞台でスポットライトを浴びている。しかし、目を開ければ劇場にも入れず、笑顔で並ぶ人達を羨ましく眺めるばかり。


 そうやって、私は二日間、缶詰バーと劇場前公園を往復した。


 そして、また、朝が来る。もう、缶詰バーでサバ缶を食べるお金さえない。


 あと、100円あれば、もう一個サバ缶が買える。こんなにも100円を欲しいと思ったことはなかった。けれども、それでもただ一日先送りにするだけだということもわかっていた。


 また、夜が来る。


 込み上げてくる、何かしなければ先はないという焦りと、わたしの身の上を呪う呪文が、ぐるぐると頭と心をかき回した。


 どうしたらいいんだろう。わたしには何か選択肢が残されているの? もうゲームオーバーじゃないんだろうか……どうしてわたしはこんなにも不幸なんだろう。物心つかない時にも、親は必ずいると思い込んでいた。


 家族だと思っていた人達は、施設の職員や同じ様に行き場のない子供達だった。もちろんみんな大好きだ。大好きだけれど、それとは関係なく、どうしても心が欲しがる。


「おかあさん……」


 わたしはその時、どんな顔をしていただろうか、きっと、捨てられた仔犬のように、二度と戻ってくることはない飼い主を、ただ、ダンボールの中で待ち続けているような、無防備極まりない顔をしていたのではないだろうか。


 だからだったと思う、通りかかった男に声をかけられた。


「君、行くとこないんだろ? 僕はこの辺に住んでいるんだ、よかったらうちへこないかい?」


 私は怖くなって無視していたが、男はお構いなくしゃべり続けた。


「いいだろ? ご飯だっておごってあげるよ、大丈夫だよ、心配しないで……さあ、おいでよ」


 わたしは男に手を引っ張られて、無理矢理立ち上がらせられた。その頃のわたしは、ただ怖いばかりで、体を硬直させたまま、突っ立っているしかなかった。今なら、既にボディーとアッパーを繰り出していたに違いない。


 どうしてよいかも考え付かずに、ただただ怖がっていた。もう、どうなってもいいから、ついていってしまおうか、そうすれば、きっと、今感じている恐怖からは逃れられる……そんなバカなことを考え始めた時だった。


「やめなよ、いやがっているだろ?」


 急に現れた女性が男に話しかけてきた。小汚ない私と比べると、まるでお姫様のようにキレイな人だった。


「なんだ、お前……へぇ、可愛い顔しているじゃないか、じゃあ、代わりにお前でもいいよ、付き合えよ」


 男は彼女の腕を掴んで引っ張った。


「痛い!」


 彼女が悲鳴をあげた。その直後、なんだかわからない現象が起きた。たちどころに人だかりができて、二人を取り囲んだのだ。


 その人垣は、一言も発せず、ただ、周りを取り囲んで黙っている。なんとも不気味な光景だ。


「な、なんだ? お前ら、見せもんじゃねぇぞ!」


 男が凄むと、人だかりはさっと逃げ出し、しかし、すぐに戻ってきて、また周りを取り囲んだ。


 それはまるで、牧場で牛の尻尾にはたかれるハエ達の様だった。パタリと尻尾が振られるごとに飛び上がり、また、同じところに戻ってくる……わたしにとっては頼もしいハエ達だった。


「なんだ? 気持ち悪い……もういいよ! 俺は善意で言ってんだ! バカバカしい」


 男は、訳のわからないことを言いながら去っていった。それを見届けると、集まった人垣も去っていく。


 頼もしいハエ達は、わたしを助けてくれた彼女に軽く会釈して、少し微笑んで、その場を去っていく……よくわからないが、とにかくわたしは助かったようだ、そして、彼女にお礼を言おうと駆け寄った。


「あ……ありがとうございます!」


「うん……あなた、何日か前からずっといるでしょ……そういうの良くないよ、早く家に帰んなね」


「……帰れないの」


「そりゃ、事情はそれぞれあるだろうけどさ……でもね……」


 何も言えない。


 事情を話しても、そんなこと、人には関係無いし、かと言って、行くところなんかなはい。


 ただ、一瞬、さざんかのみんなのことが頭に浮かんだ。みんな、どうしているだろうか、元気かな……わたしが家を出たことを知ったら悲しむかな……そんなことを考えはじめて、涙がぶわっと吹き出してしまった。


「お、おいおい……君、わかったよ、しょうがないから今日はうちに泊まんなよ。南千住なんだけど……来る?」


 わたしは初めて救われた。


 彼女はわたしの救世主だった。彼女に会わなければ、一体どうなっていたのだろう。


 彼女は鳴美なるみという名前の、劇場に出演しているアイドルだった。

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