1-4
突如、綾也を取り巻く夜気が瞬時に膨れ上がり、爆裂した。防御など全く頭にない人狼たちは、途方も無い破壊の余波に巻き込まれ、一匹残らず吹き飛ばされた。想像を絶する光景は、鵜流辺に瞠目する事しか許さなかった。
対して、訪れる数瞬後の未来を予期していた綾也は、平然と、目の前に突如現れたフード付きコートの灰色の背中を眺めていた。
「最高のタイミングじゃないか、ガウル」
「……全く、良いご身分だ」
満足げな綾也に、灰色のフードの男は振り向かぬまま、溜息を
だが、灰コートの男の姿は、人間として酷く歪だった。並外れた巨躯は差し置くとしても、そのシルエットは、一部が膨れ上がり、一部が異様にやせ細り、アンバランスに形状を保っていた。例えるとするならまるでそれは──二足歩行を覚えた野獣であった。
「ガウル……、「
恐れに掠れ切った声が、ライアの口から零れ落ちた。綾也を除く、居合わせた者全てが、同時に理解する。ガウルと呼ばれた男の、フードに隠されたその正体を。
「俺を知っているのか、女」
体を捻り、フードの男──ガウルが少女へ黄金の視線を投げかける。正面から彼の相貌を直視したライアは、今度こそ力なく地面へと座り込んだ。
ガウルの頭部は、体格とは違い、完全に人間のそれとはかけ離れていた。
突き出した長い顎、その両の根元まで裂けた巨大な口に、唇の間から漏れ見えるズラリと並んだ鋸の如き牙。爛々と金色の光彩を放つ双眸と、頭頂部に生える二つの三角形型の器官は、耳だ。そして、顔の全ては、光滴る銀の長毛に覆われている。
狼。
彼の風貌を形容するにおいては、これ以上も、これ以下の言葉も存在しない。
幾多の英雄譚、悲劇、ホラーにその名を刻む怪物、「狼男」。ガウルの体躯はまさに、その伝説を顕現した姿であった。
「おいおい、女の子を怖がらせるなよ」
綾也が顔をしかめて
「彼女にとって俺は天敵だ。無理もないだろう」
「ああ、やっぱりそうなのか? まぁ、僕は望む所なんだが」
「……お前の無茶の後始末には、そろそろ付き合えん」
「そう言うなよ。正体不明のミステリアスな美少女を救うんだぞ? 全世界の男が憧れる絶好のシチュエーションだろうが」
ガウルが放つ威圧感に全く気後れすることなく、綾也の声はあくまで親しげだ。それは、戦場の乾いた空気の中で、どうしようもなく浮いていた。
「「
生気の抜け切った虚ろな声が大地に転がった。綾也が見上げると、鵜流辺が呆けた表情でガウルを凝視していた。
「何故貴様が……! 我々と同じ、いや、更に高貴な血を有する貴様が、何故、私の邪魔をするのだ!?」
血を吐くように放たれた詰問は、痛切なる哀願に満ちていた。身を捧ぐと誓った邪神に見捨てられた、悲しき狂信者のように。
縦横に毛細血管を血走らせた彼の瞳に、理性の色は欠片も残されていない。むしろ、狼の異相を持ちながら、確かな知性を瞳に宿らせるガウルに、綾也は言いようのない悲しみを覚えた。
「無論、貴様等とは相容れないからだ」
「そんな事はない!」
静かなガウルの返答を、鵜流辺は即座に否定する。
「その姿が全てを物語っている! 貴様には
「──黙れ」
ガウルの声が、氷刃の怜悧さを帯びる。だが、鵜流辺はなお言いすがった。
「「緋森」や吸血鬼に飼い慣らされ、牙を折られたというのか、ガウル・オーラント!」
警告は一度のみだった。
綾也の動体視力を持ってしても、ガウルの姿は突然掻き消えたようにしか見えなかった。
アスファルトを踏み割り、ガウルの巨躯が豪風となって宙を駆ける。その速度たるや、稲妻と比してもまるで遜色が無かった。
その進路を妨げるべく、鵜流辺の傍に控えていた二匹の人狼が、ガウルの前に踊り出る。だが、猛る雷光を食い止めるには、その二枚の防壁はあまりにも脆弱過ぎた。
ガウルの右腕の一振りで、その最たる武器である五条の爪が、人狼達をまとめて両断した。深紅の血飛沫が盛大に吹き上がり、直後、灰と舞う。斬り捨てられた人狼は、その体が地面へ落ちる前に塵と化し、風に消える。主を失った衣服が、虚しく宙へ翻った。狼の血に穢された体は、大地に還る事すら許されない。
しかし、障害によって生み出されたごく僅かな猶予が、鵜流辺に命を拾わせた。鵜流辺は紙一重でガウルの剛腕をかわし、再び距離を離した。激情に駆られたガウルも、それ以上追撃するような真似はしなかった。鵜流辺との間合いを詰めれば、逆に人狼に囲まれた綾也たちを守り切れなくなる。鵜流辺も十分それを承知しているのだ。
「……望みとあらば、僕が貴様等を導いてやろう。地獄へ、だがな」
「……所詮は同族殺しの裏切り者というわけか……! そんな力を持ちながら、嘆かわしい!」
「言ったはずだ。
「──いいだろう」
度重なる嘆願をにべもなく拒絶された鵜流辺の声が、ストンと低くなった。
「我々ではなく、そこの人間共に与すると言うのならば、傷一つ付けぬよう、精々守って見せろ」
鵜流辺の言葉の意味するところを察し、ガウルの体に力が篭もった。「偽人狼」の険しい顔には、命を賭す覚悟がありありと刻まれていた。
人狼を総動員してもガウルに太刀打ち出来ない鵜流辺が、綾也たちを狙うのは当然の策だろう。だが、鵜流辺の手の内を読み切った今、その程度の枷では圧倒的な戦力差は覆らない。まして少なくとも綾也は、逃げ惑うのみのただの草食獣ではないのだ。
「行くぞ」
鵜流辺の宣言に、綾也が身構えたその瞬間──人狼たちは同時に反転し、闇の奥へと姿を消していく。
「……退却だと?」
今更手を引いた所で、ガウルと遅れて到着する部隊が、今度こそ人狼たちへ引導を渡すだろう。こんな消極的な戦法に何の意味があるというのだろうか。
「何のつもりだ? 今更尻尾を巻いて逃げたところで……」
「貴様を相手した所で、命の無駄だ」
胡乱な眼差しを送るガウルに、鵜流辺は肩をすくめて嘯いた。
「連中は街へ向かった」
「なに……!?」
「あれだけの数を一人も逃さず食い止めることなど、叶うまいよ」
慌ててガウルは超感覚を駆使し、闇に消えた人狼たちの気配を追った。散開したと見えた人狼たちはいつの間にか合流を果たし、一丸となって疾走していた。その進路は一切の乱れなく、街へと向かっている。
一刻も早く追わねばならなかった。一人でも市街に紛れれば、甚大な被害が……三年前の再現に繋がってしまう。
「人間共が可愛いならば、早く追うことだ」
鵜流辺と綾也の視線が、一瞬交差する。
「そこの二人の命が惜しくなければ、の話だがね」
ガウルと綾也が共に同時に、置かれた立場を理解する。
どちらを救うか、選んで見せろ。
老獪な鵜流辺の策略は、ガウルへ選択を迫っていた。鵜流辺が逃げることに徹すれば、一分、もしくは二分、彼の寿命は延びるだろう。だが、その僅かな時間で人狼たちは市民の喉元にまで迫る。だからと言って、無視してしまえば、鵜流辺の牙は確実に綾也とライアの喉笛を切り裂くだろう。
判断する時間すら惜しいというのに。焦燥に駆られながらも、ガウルはその場に釘付けとなった。
「それが、今の貴様の限界だ」
諭すような口調で、鵜流辺が呟く。
「人間に囚われた貴様は、十全に力を振るえない。貴様の力は我等と共にあってこそ、輝くのだ。今からでも遅くは無い──」
「ガウル!」
堂々に巡る思考の呪縛を断ち切ったのは、たった一太刀の言葉だった。名前を叫ばれた、ただそれだけで十分だった。熱を帯びた綾也の声に尻を蹴飛ばされ、ガウルは砂塵を巻き上げ跳躍する。最早、鵜流辺にも、綾也へさえ一瞥もくれず、一陣の銀風となって狼群を追った。
「見事な振られっぷりだな、人狼」
その背中を見送り、込み上げる笑みを抑えようともせず、綾也は嘲った。
「あいつが人間に囚われてると言ったな? なら、あいつを解放出来るのも僕達だろうさ」
「……貴様は、つくづく忌々しい男だな、緋森綾也」
憎悪と嫉妬が織り交ぜられた鵜流辺の気迫が、実体を持っているかのように、綾也の肌を逆撫でた。気圧されないよう不敵な笑みを浮かべながら、綾也は思考回路を猛回転させる。
手持ちの武器は、ハンドガン一丁に予備カートリッジ二倉、スラックスの下に忍ばせた小ぶりのナイフ一本のみ。警戒心を煽らぬ為の超軽量装備が、ここに来て響いた。至近距離からの不意の銃撃をかわす敵を相手どるには、泣きたくなるくらいに貧弱だ。
無論、逃げるなどという選択肢は、自殺以上の意味合いを持たない。背を向けた瞬間に、食い殺されるのは明白だ。行くも退くも、待ち構えるのは絶命の暗闇のみ。ガウルを行かせた時点で、綾也に残された抵抗の手段は何一つ無かった。
綾也には、だが。
彼の後ろで、未だにへたり込んでいる少女。薄々感づいてはいたが、ガウルの言葉で確信に至っていた。人狼と双璧を為す、常夜を統べる怪物の一族。人の血を糧とし、その血により破滅的な破壊を呼ぶ異業の遣い手。彼女もまた、人類の及ばぬ域に立つ超常の存在であった。
「ライアちゃんと言ったね」
視線を鵜流辺へ据えたまま、綾也が敵に悟られぬよう小声で呼びかける。仮にも、麗しき美少女に強引に迫るなど、彼の信条に反する行為だったが、彼女自身も危険に晒されているのだ。
「手を貸してくれないか。ここを切り抜けるには、君の──吸血鬼の力が必要なんだ」
切実な綾也の言葉だったが、少女の荒い呼吸が耳に届くばかりで、応答は無い。
ライアに戦う意思も、力も無い、と綾也は予感していたが、無言の返答はそれを如実に物語っていた。
彼が生涯を通して出会って来た吸血鬼たちは、一目で吸血鬼だと分かるほどに、禍々しいオーラを放っていた。そのオーラは「黒の暗泥」と呼ばれる漆黒の念体となり、人狼を滅ぼす無数の剣となった。
だが、ライアにはそれが全く感じられない。彼女がもし年若き未熟な吸血鬼ならば、それも仕方ないことだが、今は歓迎したくない事実だった。
「神への祈りはすんだか?」
「待ってくれた、って言うのか? そりゃ意外だな」
「ああ。生き残ろうと必死にあがく貴様の姿は、実に見苦しく滑稽で、何よりも私の心を満たすからな」
ぎり、と綾也が奥歯を噛み締める。
「泣き叫ぶ貴様の顔を見れば、私の溜飲も下がるだろう。覚悟はいいな?」
鵜流辺の体が沈むのを見て、綾也はじっとりと汗ばんだ掌で、ハンドガンのグリップを握り締める。
戦うしかない。例え鵜流辺の牙にかかろうと、ただではやられない──。
──それは完全な不意打ちだった。
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