chapter1
潮騒と共に、濃い海の匂いが漂っている。空には雲一つ無く、街の光に薄められた星々の姿が、穏かな水面に揺れていた。
夏特有の気だるげな暖かさを含んだ風が沖から吹き寄せ、陸地に登るや否や堅牢なコンクリートの壁にぶつかり幾筋にも散っていく。一帯の海岸線には、無数の建造物が乱立していた。簡素なプレハブ小屋、巨大な倉庫、骨を露出させているかのようなパイプや配管で組み上げられたプラント等など、姿形は様々で、配置にも全く統一感は無い。
建造物の群は、地方有数のコンビナートである。複数の大企業が隣接し、その中にさらに多くの企業を内包しながら、この海岸線を支配しているのだ。整備された道路と縦横無尽に奔る金属管に繋がれ膨れ上がったそれは、さながら生物の肉体の模倣図だった。
その中でも目を惹くのは、やはり中央にそびえ立つ煙突だろう。巨大という他ない灰色の姿は、天を突かんと建造された古代の塔を彷彿とさせる。近づけば余りの大きさに遠近感が狂い、ただのコンクリートの壁にしか見えないだろう。
地上より一一〇メートルに位置する煙突の口に、うずくまる影があった。
影の姿は、一見人の形のようで、どこかひどく
闇の中で輝く金色の瞳が二つ、遥か眼下のコンビナートに向けられている。
夜をおして稼動し続ける、眠りとは無縁だった機械たちが、今は完全に沈黙していた。絶えず往来していた千人規模の作業員の姿も見えない。朽ちるのを待たずして、周囲には死んだ廃墟の匂いが立ち昇っている。
荒涼とした空気の中に、影は闇に紛れる微かな蠢きを嗅ぎ取っていた。獣にしか察知できない獣の気配。この広大なコンビナートには今、文字通り血に飢えた獣が巣食っているのだ。
「──ああ。配置についた。獲物も見えている」
吹き荒ぶ強風が、低くくぐもった男の声を掻き消した。
「ざっと二〇はいる。お前にはまだ気付いてないようだが」
眼を細めて、どこか愉快そうに影は呟いた。
「お前が追い掛け回されるのを眺めるのも面白そうだ。……冗談だ、安心しろ、仕事はする…………む」
言葉を切り、煙突から大きく体を乗り出す。
「妙だな。……いや、奴ら以外に何かいる。まさか、民間人か? ……おい、やめておけ、まだ早い。ふざけるな、待て……! …………くそ」
悪態を付き、影がのそりと起き上がった。立ち上がっただけで、何倍にも膨れ上がったように錯覚するほど、その姿は巨大だ。
闇夜に生まれた猫背の怪影が、躊躇無く煙突の壁を蹴る。奈落のように昏い闇の底へと、風を切り、灰色のロングコートが舞い降りて、消えた。
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