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 カツカツと、革靴の硬い音が長く尾を引いて、静寂の中にリズムを刻んでいた。その間隔は精確に測られているかのように一定で、僅かな乱れもない。

 頭上に連なる配管の隙間から漏れる星明りが、まだらに足音の主の姿を照らし出した。

 紺のスーツをきっちりと着込んだ、恰幅の良い四十歳代の男である。頭髪は薄くなりかけているが、漂わせる厳めしさからか貧相な印象は全く感じられない。茹だる様な暑さの中、額に汗一つ浮かべず、涼しげな表情のまま一人、寂れ切ったコンビナート内を闊歩していた。

 彼の頭上には、かつては夜道を照らし安全を確保していた電灯が、列を為して並んでいた。そのどれもが輝きを失い、今は力なく項垂れている中、風前の灯のように小刻みに明滅する一灯があった。

 その人造の光の下に小さな人影を認め、驚いた男は淀みなく運んでいた足を止めた。

 その姿はまず少女であったが、彼女が人間であるかの判断を男はすぐには下せなかった。何せ、この世界には人の姿をした化物が少なからずいる。その認識を持つ彼にしてみれば、虚空に視線を漂わせている少女は、人が発する事のない雰囲気を漂わせているように見えた。

 年の頃は、十四、五という所だろうか。身長は一五〇にも満たず、細身。髪は肩までに切り揃えられており、薄暗さゆえにはっきりとした色までは判別できないが、星や電灯の光を弾くそれは恐らく白髪か銀髪の類だろう。

 赤い大きな襟が特徴的なセーラー服に似たシャツとスカート。腕や脚は、容易く折れるのではないか、というほど細く、病的なまでに白かった。

 男の無遠慮な視線に、少女はまだ気が付いていないようだった。男は少女の横顔を眺めながら、しばらく言葉を探した。そして、

「──ここで、何をしている」

端的に、最も重大な問いを少女へ投げかけた。

 このコンビナートが何故、ここまで放棄されるに至ったか、欠片でも理由を知っている人間ならば絶対にこの場所には近づかない。理由は単純にして明快、命が惜しいからだ。

 にも関わらず、少女はその矮躯を無防備に夜気に晒している。相応の覚悟と目的が無ければ、或いは致命的なまでに無知で無謀でなければ、こんな死地には立っていられないはずだ。

 少女は男の声に、ビクリと遠目からはっきりと見てとれる程、大きく体を震わせた。そして、初めて男に気が付いた様子で、彼へと振り返った。

「あ…………」

 無色透明だった表情が、一点して恐怖の色に染まった。アンダーリムの眼鏡の向こうに、ルビーのように紅い瞳を見開いて、怯えた視線を男へと向けている。彼女が纏っていた神秘的な雰囲気も、いつの間にか霧散していた。

 整った少女の貌は可憐だったが、それよりも「儚い」という印象を男はまず感じ取った。どこか生命力が希薄で、脆い。生物が持つ熱量を少女からまるで感じ取れなかった。

 少女は硬直したまま、行動を起こそうとはしなかった。小動物を追い詰めているような、罪悪感と嗜虐心が、じくりと男の心に影を落とす。

 埒が明かないと判断した男は、背広の内ポケットから茄子紐に結ばれたチョコレート色の手帳を取り出した。

「私は警官だ。分かるかね」

 片手で広げて、鈍く輝く旭日章を晒して見せる。鵜流辺うるべ新造しんぞう、警部。彼の本名と身分が、警察手帳へ無機質に記されている。

「ここは立入禁止かつ、危険な区域だ。君のような子どもが入っていい場所ではない」

 極めて厳しい口調で、鵜流辺が警告する。その間も、少女に変化が見られないか、つぶさに観察を続けていた。

 少女の顔立ちは明らかに日本人ではない。言葉が通じるかは定かではなかったが、こちらの行動の意図くらいは読めるだろうと考えていた。少女は緊張を崩さないまま、鵜流辺の顔と、警察手帳へと視線を交互に送っている。

「改めて訊こう。何をしていた。答えるんだ」

 詰問しながら、一歩前に踏み出す。それだけで少女は小さな体を更に縮こまらせ、一層深い恐れを顔に浮かべた。

 この少女とは間違いなく初対面だったが、鵜流辺にはその表情こそが彼女にとって至高の化粧であると、何故か確信出来た。傾国の麗女に艶然とした美笑が似合うように、この美少女には凄絶な虐待と陵辱の果てに生まれる、絶望に塗り固められた死面デスマスクこそが相応しい。そう思わずにはいられない。暗い欲望が鎌首をもたげ、彼の心にまた一つ影を生んだ。

「……ライア」

 突然、少女が堅く結んでいた口を開いた。

「ん……?」

「ライア。私の名前……」

 鈴が微かに揺れるような声で、少女が言葉を紡ぐ。求めた答えでは無かったが、日本語は通じるようだ。

「ああ、そうか。ライア君、というんだな?」

 若干口調を和らげて、鵜流辺は自分の方から緊張を解いて見せた。

「さっきも言ったが、ここが危険な場所だという事は知っているね?」

「……はい」

 鵜流辺の質問に、依然強張っているものの、ライアは先ほどよりもスムーズに頷いた。

「何か余程の事情があると見えるが……。はっきり言って警官の一人として、君の行動は見逃せない」

「……」

「ここには一人で来たのかね? それとも──」

「……!」

 ライアの瞳によぎった恐怖以外の感情の揺らめきを、鵜流辺は見逃さなかった。彼女の視線が彼から、彼の背後へと移った。

 鵜流辺は彼女の視線を追って、ゆっくりと振り返る。

 電灯の届かない範囲には、変わらぬ闇が蟠っている。真空の宇宙が広がっているかの如く、人の気配など全く感じなかったが──。

「隠れていないで、出て来たらどうだ」

 落ち着いた鵜流辺の声が、静寂しじまを打った。これで誰も存在せず、或いは呼びかけにも白を切り通せば赤恥もいい所であったが、結果的に彼の起こした波紋は、新たな人影を模った。

「いやぁ、なかなか鼻の利く御仁だ。参ったなぁ」

 返って来たのは、緊迫した場にそぐわぬ軽薄な男の声だった。プラントの陰から現れた男は、頭を掻きながら軽妙な足取りで電灯の下に姿を晒してみせた。

「いやいや、別に隠れるつもりは無かったんですよ? でも、お二人が余りにもいい雰囲気を出してるもんだから、邪魔するわけにもいかないと思いまして」

 妙な言い訳を並べながら、男は乾いた眼差しを向ける二人へと、人懐っこい笑みで応えてみせた。腹立たしい事に、鵜流辺から見ても、男にはそんな人をおちょくっているような笑顔が非常に似合って見えた。

 背丈は、中肉中背の鵜流辺より若干高い程度。痩躯であるが、ワイシャツの襟から窺える首筋は筋肉で引き締まっており、全身を見渡しても無駄な肉が削ぎ落とされ、見事に体が作られているのが推測できた。

 只者ではない、と鵜流辺の直感が告げる。

「可憐な美少女と、深夜にこんな所で逢瀬とは。くぅぅ、羨ましい限りですなぁ!」

 猜疑を深める鵜流辺の前で、男は整った顔を歪ませて、臆面も無くくだらない羨望を口にした。芝居がかった台詞が、そう不自然でもないところが余計に癇に障る。

「君は──」

「今夜、貴方に是非直接お渡ししたい物がある」

 素性を問いただそうとした鵜流辺の機先を制する形で、男がスラックスのポケットから紙片を取り出した。指から滑り落ちた紙片は、夜風に流されるままに、鵜流辺の足下に打ち寄せられた。


『今夜、貴方に是非直接お渡しした物がある。場所は総和化学コンビナート、B─2プラント前にて』


 紙片に並べられた文字は、果たして今日の昼に、鵜流辺が警察署内で目にした文言と全く同じであった。鵜流辺はこの誘いに乗って、危険を冒してまで指定された場所まで出向いたのだ。

 件のプラントの前に、ライアが立っていた為に彼女が差出人か、と最初は出方を窺う必要があった。だがこの男が差出人である事に、最早疑問の余地は無い。

 鵜流辺は手にしたままであった警察手帳を仕舞い込み、代わりに懐の茶封筒を手に取った。

「同封されていた書類は読ませてもらったが……。私にこんな荒唐無稽な話を信じろ、とでも?」

「おかしいですね。少しも耳を傾ける気が無いのに、ここまで来たと?」

「名前も素性も分からない輩に、出所不明な情報を掴まされてもな」

「これは失礼。私は日ノ森ひのもり綾也あやなりと申します。フリーのライターをやってまして、何とか日銭を稼ぐ毎日を。あ、これ名刺です」

 悪びれもせずに、男──日ノ森は熟練した手つきで名刺を恭しく鵜流辺に差し出した。鵜流辺がそれを乱暴に片手で受け取るや否や、すかさずライアにもにこやかに一枚手渡した。少女はどうしていいのか分からない様子で、手の平の名刺を持て余している。

「申し訳ありませんが、情報源まではご勘弁願いたい。何分それが飯の種ですので」

「……いいだろう、日ノ森君。この際君の素性の真偽は問わない。だが、何故私にこれを託した。他にも、それこそ破格の報酬が見込める持込先はいくらでもあるだろう?」

「これでも私は善良な一市民です。警察に協力するのは市民の義務でしょう」

 いかにも心外そうに、日ノ森は大げさな身振りを交えてうそぶいた。

「貴方以外にはあり得ませんよ、鵜流辺警部。三年間誠実に、真摯に狼禍症事件解決の為に奔走し、今現在真実に最も近い場所にいる貴方以外には」

 日ノ森の切れ長の目に、鋭利な刃のような光が点る。

「鵜流辺警部、貴方自信の手で、この狼禍症事件は暴かれなければならない」

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