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 半世紀前、人類は突然恐るべき感染症に遭遇した。

 その名は、狼禍症ろうかしょう

 その未知なる病は、今なお人類を脅かし続けている。

 一度感染すれば、元の気性に関わらず、罹患者の精神は凶暴な悪意に染められると言われている。更には、人の血肉を求めるようになる、生きながらにして人間を悪鬼と化す凶病。感染者には一見した大きな変化は起きない。しかし身体・運動能力共に、人類の範疇から逸脱した化け物を生み出すその症状は、病というよりも伝説にうたわれた狼男の呪いと呼ぶに相応しい。それ故に、俗に狼禍症へ感染、発症した患者を「人狼」と呼ぶ。

 そして、狼禍症の最も恐ろしい点は、人狼に傷を付けられるだけで、感染してしまう点だ。人を襲う激しい気性と、それを容易く広めてしまう感染力。フィクションの中でゾンビがもたらしているような悪夢が、現実において、場所・時を選ばずに再現される恐れがあるのだ。

 治療法は皆無であり、予防策すら確立されてはいない。再び彼らの心に平穏をもたらす方法は、「駆除」という選択肢しかなかった。

 ただ、凄まじい感染力ではあるが、発症するかどうかには個体差があった。人狼に傷つけられても、身体に全く変化が起きない負傷者もいれば、傷ついた瞬間に狂化してしまう犠牲者も存在する。一般的に、その負の素質は遺伝する可能性が高い、とされている。

 その為、狼禍症事件が発生した際、死傷者が出た場合、加害者も被害者も、まとめて「被害者」として扱われる。加害者の世間への公表は、加害者家族・親類・縁者にとって死刑宣告に等しい。いわゆる「魔女狩り」を防ぐ為に、加害者の情報は秘匿中の秘であった。

 故に、そこをほじくり返し秘密を提供する輩と、自分が当事者でなければ、遠い他人の死を鑑賞し、酒の肴にして味わう連中はいつの世にも存在していた。隠されれば暴きたくなるのが、人の業なのかもしれない。確かに、狼禍症事件はセンセーショナルで、巷を騒がすには十分過ぎる影響力を備えている。

 この日ノ森という男も、そんな下劣な人間の一人なのだろうか。眼前に悠々と佇む男の真意を、鵜流辺は未だに測りかねている。

 日ノ森が示唆する、鵜流辺が三年間追い続けている狼禍症事件は、この総和化学コンビナートより発生した。日本国内における最大規模にして、史上最悪の狼禍症事件であり、死者は三〇〇人を超え、今なおその忌まわしき数字を伸ばし続けている。

 狼禍症の発生源は未だ不明。発端は一人の新人作業員が就業間際に姿を消した小さな失踪からだった。仕事に慣れずに、早々に逃げ出したんだろうと、同僚も上司も大して気に留めなかった。

 だが、次の日に二人、姿が見えなくなった。

 更に翌日、四人。

 何かの冗談のように、失踪者は日ごとに倍になり、言い知れぬ恐怖が海岸一帯を支配し始めた。

 失踪者が二桁に登り、ようやく腰の重い工場上層部が、警察に事態を説明したその日。

 地獄の一端が、現世へと溢れ出した。

 今まで息を潜めていた狼禍症罹患者の群が、一斉にコンビナートへ牙を剥いたのだ。プラント内は数分と待たずして、人の領域から狼の狩場へと変貌した。阿鼻叫喚が絶え間なく空を揺るがし、夥しい量の血が海を濁していった。作業員たちは、逃げ惑うことすらままならず、牙に、爪に、噛み砕かれ、引き裂かれるしかなかった。

 運よく死を免れた者もまた、その場で新たな狩人へと転生し、最も危惧されていた狼禍症の爆発感染パンデミックへと至った。

 爆発感染パンデミックへのまともなマニュアルを未だ持ち得なかった日本政府は、警官、自衛隊のみならず、米軍海兵隊、創設途中であった対人狼課を、急造の対策部隊としてコンビナートへ投入する。

 かくて現場は更に混乱を極め、人と兵と狼の、血みどろの戦場と化した。送り込まれた兵士たちは「疑わしきは撃つ」しかなかった。驚異的な運動能力を持つ人狼の前では、一瞬の躊躇が命取りとなる。なまじ感染者の姿が、否感染者と同じであるばかりに、恐らくは多くの無辜むこの命が銃弾に散らされた。

 大きな損害を出しながらも、対策部隊が現場一帯を封鎖出来たのは、少ない僥倖であった。人狼はコンビナート内へ封殺され、一匹ずつ確実に息の根を止められていった。九死に一生を得た社員たちも、三ヶ月の施設隔離という監視期間を経て、家族の下へ帰って行った。

 後には、血と硝煙の匂いが立ち込める無人のコンビナートが残るのみ──悲劇は終幕を迎えたと、誰もが思った。そう信じたかった。

 だが、鵜流辺が現場の陣頭に立ち、指揮している「総和化学コンビナートにおける狼禍症集団感染事件」本部は、未だに解散されていない。一度は殲滅されたと思われた人狼は、なおもコンビナートに潜んでいる。無論、幾度となく掃討作戦は行われたが、摘んでも摘んでも人狼の根は絶えなかった。まさか、市街地の真横にある工場地帯に爆撃やら毒ガスやら戦略広域兵器を使うわけにもいかず──事態は「膠着」という最悪の状況を維持したままであった。

 三年前、鵜流辺も警察に許された最前線で狼禍症と正面から対峙した。最愛の人も渦中に失った。あの日の惨状は夢に見るまでに脳裏に焼きつき、一日たりと消え去りはしない。

 腕の中で零れ落ちた妻の命に報いる為に。彼女の血が染込んだこの掌こそが、普遍たる正義であるが故に。

 打破せねばならない、この状況を、この世界の在り方を──。

「さて、わざわざご足労おかけしたのは他でもありません」

 いつの間にか追憶に浸っていた鵜流辺の意識を、日ノ森が呼び覚ました。

「日中に貴方の手元に渡った資料は、真相へと至る道を閉ざしている障害を、一部取り除くものでしかない。敢えて、そうしたのは失礼ながら貴方を試させて貰うためです。貴方に覚悟があるかどうか、確認する必要があった」

「……真実を知る覚悟、かね」

「その通りです」

 苦々しく顔を歪ませる鵜流辺に、日ノ森が首肯する。

 握っていた茶封筒が、急に重量を増したように鵜流辺は錯覚した。事実、茶封筒に秘められていた内容は、彼の心胆を寒からしめるに十分過ぎた。

 まず総和化学工業についてのレポート。

 狼禍症事件が起こった三年前からさらに一年遡った時期に、総和化学工業社長、会長の家族がそれぞれ一人ずつ謎の失踪を遂げている。その二件は警察に届けられていたが、いずれも捜索中の案件だ。

 その事件自体は、全国のワイドショーでも報じられ鵜流辺も承知していたが、問題はその先だ。

 A四用紙にリストアップされた、二〇を超える名前の数々。それは、警察に届けられていない関係者の縁者の失踪者だった。日ノ森は、全国を渡り、目撃情報や周辺の聞き込みから失踪したと見られる人間を嗅ぎ当てたのである。

 そして、続く用紙には、事件直前に総和化学が上げた異様な売上の伸び率についてのレポート。鵜流辺が記憶するに、このコンビナートが数年稼動して得られる利益が、短期間に動いている。

 今まで、総和化学は悪辣なる災害に蹂躙された悲劇の企業として世界の同情を一身に集めていた。だから、誰も疑わなかった。あからさま過ぎる不自然な金の流れも見落とした。その裏に人的な悪意が潜んでいると、欠片も気付かずに。

 総和化学工業が何者かに脅迫されていたのは明らかであった。それも、恐ろしく巨大で、抗い難い暴力に。逆らい難い甘美な毒に。

 あのコンビナートは、人狼に奪われたのでは無い。明け渡されたのだ。彼らが安住する地に選ばれて。

 だが、そんな途方もない悪業を為せる存在がこの世にあるというのだろうか。

「信じ難い……。信じ難いが無視出来ないのは確かだ。君は、知っているというのかね。そいつらについて」

「多少は、というしかありません。私一人では容易く潰されてしまうでしょうね。だから、貴方にすがりたい」

 この男はほとんど全て知っている。鵜流辺は遂にそう断じた。ならば、彼も覚悟を決めて、日ノ森の口から聞き出すしかなかった。

「では、聴こう。君の知る全てを私に教えて欲しい。全身全霊を持って、私が対処してみせる」

「……分かりました。ところで」

 日ノ森はちらりとライアに視線を送り、

「そちらのお嬢さんとはどういったご関係で? 鵜流辺警部の恋人とお見受けしますが」

「……悪い冗談だ」

 日ノ森の軽口に、鵜流辺は不快そうに顔をしかめた。

「私は君の仲間だと思っていたのだが。私をこの場所に誘う目印に置いたのでは?」

「まさか。貴方を呼び出しておいて何ですが、可憐な美少女をこんな無粋極まりないムード皆無の場所に誘ったりしませんよ」

 二人の詮索の視線を同時に受け、ライアは俯き縮こまる。彼女が、名前以外の素性を明かすことを拒否しているのが、如実に読み取れた。

「──仕方ありませんね。お嬢さん、以降の私達の会話は他言無用に願います。貴女のような方には似つかわしくない物騒な話だ。本当は一切聴いて欲しくはないのですが、周囲は危険です。決して私から離れないように」

「は、はい」

 俯いたまま少女が控えめな返事をする。

「では改めて。これを」

 日ノ森の指先には、既にもう一通茶封筒が用意されていた。ゆっくりと歩を進め、鵜流辺の眼前へそれを差し出し──、

「ああ、そういえば」

 鵜流辺が茶封筒へ手を触れた瞬間に、日ノ森がつい今思いついたかのように口を開いた。

「鵜流辺警部の奥様も、事件に巻き込まれたと聞き及びました」

「……それが、どうかしたかね?」

 手を止めて、鵜流辺が眉を顰める。

 これだけの情報を集めた男だ。当然、情報を託す相手の素性も、十全に調べがついているだろう。だが、今になって、何故このタイミングでそれを口にするのか。

「ただ一言、お悔やみ申し上げたかったのです。貴方が事件を解決すれば、奥様の魂も少しは救われるかと」

「……お心遣い、痛み入る」

 目礼だけ返し、鵜流辺は茶封筒を受け取る。真相に至る情報が書いてあるにしては、封筒はやけに軽かった。紙一枚が入っているかどうかの薄さである。

 訝りながらも封筒の中を検めると、やはり紙切れ一枚が挟まっているだけだった。鵜流辺はそれを取り出してから、電灯の光にかざした。瞬間。

「────」

 一切の感情が、鵜流辺のおもてから抜け落ちた。

 身を震わせるほどの激情は荒れ狂う波と化して、一度彼の精神の深奥へ吸い込まれた。次なる感情を、最大限に爆発させる為に。

 虚ろな幽鬼の目で、鵜流辺は鼻先に佇んでいる青年を眺めた。青年は両腕をだらりと脱力させ、鵜流辺を正面から睨みつけていた。眼光に明らかな戦意を滲ませて。

 紙切れには簡潔に、こう書かれていた。 


『愛する妻のはらわたは、さぞかし美味かったろうな?』


 刹那、金色の光が一対、闇に咲いた。

 そして──二発の銃声。

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