1-3

 果たして、数瞬のうちに散った剣戟の火花の数々を、傍観していた少女はどれだけ認識出来ただろうか。

 二頭の猛獣が、無言の咆哮と共にお互いの喉へと喰らいつこうと本性を露にした。

 先手を打ったのは、日ノ森であった。脱力させていた左手が、滑らかに残像を残しながら、無造作に背中のベルトに突き刺してあった──しかし、常に相手の死角に存在していた──ハンドガンを引き抜いた。

 まさに神速の早撃ちクイックドロウ。そこに照準の予備動作は微塵も無い。だが、精密なタイミングで放たれた二条の弾丸は、あやまたず鵜流辺の心臓と眉間を貫いた。

 ──かに見えた。

 一発目の弾丸を、鵜流辺は両腕を胸の位置に交差させ、防いだ。背広が弾け、パッと血霞が舞う。だが銃弾は腕を食い破るのみで、心臓へは届かない。

 そしてコンマ秒遅れて到達した二発目の弾丸を、あろうことか鵜流辺は身を捻ってかわした。額をかすめ、弾丸が虚空へと消え去る。高速の銃弾を回避しうる有り得ない身体速度を発揮した鵜流辺は、体を泳がせたまま日ノ森へ蹴りを放った。

 無理な体勢にも関わらず、その蹴りには人一人を吹き飛ばして余りある威力が込められている。日ノ森はまともに受ける愚を避け、鵜流辺の脚に押される形で後ろへ飛び退った。

 必殺の一撃を凌がれ、日ノ森は舌打ちと共に続け様に発砲。その射線をことごとく見切り、鵜流辺は更に後退する。そして、人に非ざる脚力で高々と跳躍し、星空を背にプラント建屋の屋根へと降り立った。

「……卑劣極まりない男だな、君は」

 炯炯けいけいと輝く黄金のまなじりを吊り上げて、鵜流辺は怒気を孕んだ声を吐き棄てた。

「いやいや、あんたの悪どさに比べりゃ、僕なんか可愛いもんさ」

 吹き付けるどす黒い殺意を、日ノ森は平然と受け流した。その表情も、言葉遣いも、態度も、数秒前までの慇懃さは消え失せ、衣を脱ぎ捨てたかのように打って変わっている。

「この不自然な状態を維持する為に、一体何人殺しやがった、人狼」

 最早、誰の目にも鵜流辺の正体は明らかであった。人間を超越した筋力、反射神経、凶暴に荒れ歪む凶相、そして、縦に長い瞳孔が刻まれた金色のまなこ

 狼禍症は人の理性を奪う狂病であるが、稀に人格を大きく残したまま人狼化する発症者も存在する。「偽人狼マンフェイク」と分類される彼らは、自らの血の欲求を制御する事が可能であり、発症してなお社会の中に溶け込める。発症後、即暴走する人狼に比べれば、一見脅威は小さい。だが、彼らは日の光を怖れず、堂々と人間の皮を被りながら、夜霧に紛れ日々殺戮に興じている。その人外の足跡を辿るのは困難を極める作業であった。

 創造神のように、誰構わず自分の似姿を誅戮出来る立場であれば、どれだけ楽だっただろうか。だが、無差別な断罪だけは、決して許されない。その画された一線を越えるなら、人間と人狼の区別は曖昧に霞んでしまうだろう。

 日ノ森は辛抱強く待った。幾重に罠を張り、自身を餌に一切の危険を省みず、袋小路へ狼を誘い、追い詰めた。鵜流辺が激情にまかせ、正体を晒した時点で、軍配は彼に上がったのだ。

「大規模な殲滅作戦の執行を防ぐために、あんたは一定の成果を上げ続ける必要があった」

 頭上の鵜流辺へ向け、日ノ森は淡々と罪状を述べ連ねた。

「捜査の陣頭に立つあんたには、造作もない工作だったろうさ。二,三人攫って急造の人狼に仕立て上げ、そいつらを処刑して見せればいい。そうすれば、事なかれの司法の老人共は、ひとまずの現状維持に満足する。その陰で、狼が醜く肥え太っているのにも気付かずにな」

「……なるほど、大したものだ」

 「偽人狼」鵜流辺は、皮肉めいた笑みを唇に浮かべ、日ノ森の指摘に賛辞を贈った。既に、自らの凶行を偽るつもりは微塵もないようだ。

「警察にも人狼にも──君ほど優秀な人材はいなかったよ、日ノ森君。私が真実に最も近いだと? 私の手で事件を暴けだと? 私が自ら正体を晒してしまう所まで、全て計算通りというわけか。恐ろしい男だ」

 言葉とは裏腹に、本当に愉快そうに、心の底から楽しそうに、鵜流辺が嗤う。

「あんたの本性を引き摺り出せるかどうかは、正直賭けだった。後一歩踏み止まられていれば、負けていたのは僕だ」

「まんまと乗せられた、という訳か。いやはや、あそこでまさか妻を持ち出されるとは。私は、私などより君の方が余程残酷だと思うがね……」

 鵜流辺の双眸に、危険な光が灯る。日ノ森は、背中に呆然と立ちつくしているライアの存在を意識しながら、銃把を握り直した。

「真相に近づいた、幸薄き愚か者の顔を拝もう等と戯れた結果がこれか。せめて自分の失態の尻拭いはしなければな」

「僕を殺したところで、今さら無駄だがな。事実を知って泡を食ったあんたの元お仲間が、ここに殺到するのは時間の問題だぞ」

「だろうね。だからこそ、一矢は報いさせてもらう」

 鵜流辺の言葉に応えるかのように、急に周囲の闇がその密度を増した。ライアが悲鳴交じりに息を呑む。

 一〇、いや二〇を越える影が、日ノ森とライアを取り囲んでいた。プラントの屋根に、壁に、階段の踊り場に、路地裏に。かつては人であった者たちの、憐れなる末路──人狼。その姿は男女問わず様々だったが、彼等の特徴は全て同一であった。発症前は、喜怒哀楽をあまさず表現していた顔面は、獲物を前にして歓喜に震え、抑えきれぬ渇望を荒い息と共に口腔から吐き出している。身にまとう洋服はどれもボロボロで薄汚れており、それが彼等人狼の、新たな毛皮であるかのようだった。

 三六〇度、一切隙間無く形作られた人狼の円陣に、二人の退路は完全に絶たれていた。

 「偽人狼」は、人狼のいわば上位に位置する存在である。故に、「偽人狼」を核に、人狼が群を作るケースは何件か報告されている。だが、ここまで多くの人狼が統制された群など、日ノ森の記憶には存在しない。それはすなわち、ボスである鵜流辺の類に見ない強力さを物語っていた。

 高い戦闘技術を持つとはいえ、日ノ森のそれは所詮、人の業の域を出ない。ただの人間である彼にとって、この包囲網は絶対的な死と同義だ。

「日ノ森君、君達の内臓を拝む前に、出来れば正体を教えて貰えないか。そこまでの腕を見せつけておいて、フリーのライターは無いだろう」

 鵜流辺が嗜虐心も露に、日ノ森に語りかける。人狼は何よりも、人の絶望に塗れた悲鳴を好む。日ノ森やライアの恐怖心を煽り、愉悦に浸る魂胆なのだろうが──。

 日ノ森は不敵に笑う。

 さて──数秒後に、恐怖に慄くのは果たしてどちらか。

「緋森」

 日ノ森は……いや、真名を明かした緋森ひもり綾也あやなりは、ただ短く、そう呟いた。

「──なんだと……?」

 余裕に満ちていた鵜流辺の声が、驚愕にかすれる。

 あかき森と書いて、緋森。鵜流辺はたった今、自らの最大の過ちに気が付いただろう。日ノ森と緋森。捻りも何もない人を小馬鹿にした偽名に、逆に思い至らなかった愚かしさに。

「殺れ──!」

 一刻の猶予もならぬと、鵜流辺が配下の人狼へ号令をかける。が、その対応は既に遅きに逸していた。

 極限まで引き絞られ放たれた矢の如く、一斉に人狼の群が緋森綾也とライアへ殺到する。それぞれが異常に発達した犬歯を振り立て、温かく湯気立つ血と肉にありつこうと。

 だが、それは達成されることは永劫に、ない。暴力の徒である彼らですら及びも付かぬ、強大な暴力によって。

 前兆は皆無だった。

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