5-4

「──待ちなさい」

 視界の端で、後ろに止め処なく流れていたアスファルトの動きが止まる。

「……ほう?」

 原初の銀狼が、軽い驚きの声を漏らし足を止めていた。掴まれた首を放り出され、ガウルは無様に地面へと這いつくばった。

 アルフレッドの狼の眼光は、道先に佇む小柄な人影を見据えていた。身を捩ってその姿を捉えたガウルは、

「……あの馬鹿が……」

 弱弱しくその少女を、魔獣の行く先を遮ったライアを罵倒した。

 屋上に放置していたライアは、何を血迷ったのか戦火を交える銀狼達を追って来ていたのだ。

 決然と化け物と対峙するその姿を、人は勇敢と呼ぶかもしれない。しかし、ガウルに言わせれば度し難い蛮勇であった。

「何か、用かい? お嬢ちゃん」

「──その人を解放しなさい、原初の銀狼。貴方の狙いは私でしょう」

 強大の敵を前にして、ライアの声は小さくも震えてはいなかった。だが、それが精一杯の彼女の虚勢であるのは、ガウルの目には明らかだった。

「ただの怖がりかと思っていたが。誇っていいことだぜ、そんな馬鹿な真似を出来る吸血鬼はちょっといない」

 アルフレッドの目は、飼育小屋の隅で、小さくなって怯える白ウサギを愛でるかのようだった。

「だが、そんなに怯えてちゃ格好がつかないな。足が震えてるぞ?」

「あ……!?」

 言われてハッと、ライアは自分の脚へ視線を落とす。黒いストッキングに包まれた細い脚は、硬い鉄の芯でも通したかのように硬直したままだった。そこで、ライアは原初の銀狼の他愛もないジョークにからかわれた事に気が付いた。

 思わず、彼女は怒りと羞恥に頬を朱に染める。その醜態全てが、原初の銀狼を悦ばす蜜となる共知らずに。

「悪趣味かと思ったが、改めて見ればそう悪くない。あの性悪魔女は、そんな可愛い顔を見せなかったからな」

 ライア自身は、ユリスの姿を見た事は無かったが、彼女は「魔女の悪意」を擬態させるために姿形までそう造られた。ならば、銀狼を相手取ってでも、騙しおおせねばならない。

「ま……魔女ユリスの血を引く者として、貴方に誅罰を与えます。「魔女の悪意」の洗礼、その身で受けなさい」

 そう宣言すると、ライアは手にしていた小刀を右の二の腕に突き刺した。苦痛に顔が歪むと同時に、刃と肌の隙間から黒い血が溢れ出した。ぶらりと垂れ下がった右腕を、幾筋も黒流が伝い、指に絡まってから大地を汚していく。

「…………」

 アルフレッドが静観する中、ライアは一歩一歩ゆっくりと原初の銀狼へ近づいていく。その足取りは、崖の淵へと進んでいく自殺願望者そのものだった。

 彼女の矮躯に、アルフレッドの影が落ちる。

荒々しい呼気が顔にかかり、「対吸血鬼素材」は近づくだけで肌を炙った。

「……腐り溶け死ぬあの様は、流石に俺も肝を潰した。全ての生命を害する毒、か。そんな顔で、中身はあの魔女よりも邪悪、つくづく女は怖い」

「な……」

「聖女様は、人でも人狼でも、わけ隔てなく腐れ殺してくれるというわけだ。「聖女の慈悲」なんざ、なかなか洒落が効いてるじゃねーか」

 見破られている。ライアを造った研究者の間での毒の通名まで知られている──!

 ガウル・オーラントは、メティスから全て聞き出したと言っていた。その会話を、盗み聞きされていたのならば、全て終わりだ。

 所詮は張子の虎であったライアの虚勢は、物の見事に踏み潰された。白い顔から更に血の気が失せ、思わず後ずさってしまった彼女の胸倉をアルフレッドは掴み、宙へとぶら下げた。

「あぁ……」

 砕かれた覚悟が、声と共に抜け落ちていく。懸命に抑えていた四肢の震えを、もう抑えようが無かった。

「安心しろ。せっかく手に入れた魔女の人形なんだ。すぐに壊しちゃ勿体無い。」

 危険な狼貌のままに、アルフレッドの声は赤子をあやすかのように、優しく絡みついた。実際に、彼が望めばライアなど赤子同然に捻り潰せるだろう。

「お嬢ちゃんも、仲間に蔑まれて来た口なんだろ? そんな奴等捨てちまって、俺と遊ぼうじゃないか。復讐するなら、俺が手伝ってやる。気に入らない連中は、皆殺しにしようじゃないか」

 奇しくも、ガウルと同じ未来へとライアを誑かすアルフレッド。どちらもライアへ復讐を唆しながら、何故か二人が語るそれぞれの「復讐」は意味が全く違っているように思えた。

 分からない。彼女は何一つ選べず、何一つ得ることが出来ない。

 彼女に選択肢が与えられた事など、短い人生の中でただの一つも無かった。外界ではメティスが彼女の選択権を握っていたし、研究所の水槽の中ではそもそも「生きていた」と称するのも怪しかった。

 憎い、という感情すら「聖女の慈悲」を植え付けられた少女は理解出来ない。ただ、漠然と、もうあの場所には戻りたくない、産みの親達とは対面したくないという恐怖はある。

 これが憎いという感情ならば──自分は、この身に刻まれ続けて来た凄惨な拷問を、メティスや彼ら達に刻み返せるのだろうか──。

「ああ、どうせなら、あの吸血鬼、おめーの前で殺せば良かったな」

「え……」

「我ながらつまらねェ事をしちまった。すまねーな、事後承諾になって」

 惜しむように漏らした原初の銀狼の慨嘆。ライアはすぐにその意味を悟る。だが、胸に訪れたのは、復讐を成した甘美な達成感には程遠い、途方も無く苦い虚無感だった。

「……メティス……さん……」

 掠れた声と共に、自然と涙が粒を結んで頬を流れた。

 男装の吸血麗人は、彼女の従順な従者ではなく、ライアの最期を見届ける役にあった。ライアが毒ガスを撒き散らす爆弾ならば、メティスは工作員。ライアがもし、コンビナートで死んでいれば、彼女もまた「聖女の慈悲」に殉じるはずであった。

 ライアは、メティスが自分を蔑んでいた事を十分に理解していた。それでも、初めて外界の息を吸う彼女にとって、メティスは掛替えの無い無二の存在であった。仮初の従者に過ぎなくても、掛けてくれた言葉が嬉しかった。労わりに心から感謝していた。

 黒の暗鋼を巧みに操り、人狼へと立ち向かうブラックスーツの背中に、彼女は憧れていたのだ。叶わぬと知りつつも、いつか牙を研いで、力を蓄えて、彼女に並びたい、超えたい、そして──認められたい、と初めて虚ろだった心に夢と呼べる未来を描いていた。

 復讐。それがライアにとっての復讐だ。

 「聖女の慈悲」に歪められた自分の価値を取り戻し。メティスを、自分を侮蔑した者達にその輝きを認めさせる。

 今更になって気付く。最もその復讐を果たしたい、最も信頼した「仇」を永遠に失った今になって。

「何だ、泣いてやがるのか?」

 ライアの漏らす嗚咽を眺め、アルフレッドは明らかに興醒めしていた。

「ゴミ扱いされた相手に、そこまで懐くなんざ、芯から調教されちまってるな」

 彼女にもはや、銀狼への侮辱に答える力は残っていなかった。澄んだ涙と、濁った血が、アスファルトに点点と落ちて行く。

 アルフレッドはライアの体を片手で軽々と振り回し、ガウルの真上に吊り下げた。足下のガウルを乱暴に足蹴にし、仰向けに転がす。

「まぁいい。せっかく、稀有な材料が揃ったんだ。実験に付き合ってもらおうか」

「……貴様……何を……、がぁ!?」

 巨木な様なアルフレッドの脚に胸を踏み潰され、ガウルはたまらず悲鳴を上げた。その大きく開けられた口の上で、──。

 ──まずい……!

 ガウルは戦慄に身を焦がす。

 だが、彼の恐怖とは裏腹に、彼の体は肺から失った空気を求めた。

 「聖女の慈悲」が、ライアの指を離れる。重力に導かれ、酸素と共に黒毒が数滴、ガウルの喉へ滑り込む。

 果たして──変化は劇的だった。

「────ァァァァァ!?」

 「聖女の慈悲」が触れた部分が、瞬時に溶け落ちた。点だった激痛が、みるみる範囲を広げ内臓に染み渡っていく。

 喉を掻き毟って、のたうちながら毒を吐き出そうと絶叫する。ガウルの醜態を嘲笑うかのように、「聖女の慈悲」はその浸食を爪先にまで伸ばしていた。

「……ふん、効くには効くようだ。あの男のように溶けないのは、腐っても銀狼という事か」

 全身を痙攣させるガウルを見下ろし、アルフレッドは冷静に「聖女の慈悲」の価値を推し量る。

 皮肉にも、原初の銀狼の分析は的を射ていた。銀狼の持つ再生能力は、「聖女の慈悲」の猛攻と完全に拮抗していた。「聖女の慈悲」が肉を腐らせる端から、沸き立つ血が肉を再生させる。毒の効果が切れるまで耐え忍べば、ガウルは生還出来るだろう。

 しかし、強力な再生能力は肉体が腐るというおぞましい激痛までは防ぐことが出来ない。無数の蟲に内臓を食い千切られるような痛みを、ただひたすらにガウルは耐えなければならなかった。並みの精神力ならば、この腐痛のみで即死するだろう。

 いつ終るとも知れない猛毒の饗宴に、ガウルは再び声ならぬ絶叫を上げた──。

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