5-5
──さてどうするかな。
アルフレッドは力なく項垂れる少女と、もがき苦しむガウルを睥睨しながら思案する。
「聖女の慈悲」は「魔女の悪意」とは似ても似付かぬ代物だが、その効果は興味深かった。吸血鬼共が捨石として放り出したのは、その死に際する「死の霧」が余りに強大過ぎて待て余したに違いなかった。
彼からすれば、その彼女に潜む凶悪な死神は幾らでも使い道がある。必要が無くなれば、テロの爆弾代わりにでも使えば良いのだ。
対して、足元の「竜公女」を継いだ銀狼にアルフレッドは最早価値を見出さなかった。
原初の銀狼の胤の結晶、新たなる銀狼の芽吹きを象徴するガウルが、どこまで自分に近づくかどうか、それのみがアルフレッドの興味の対象だった。
やはり、予想通り、ガウルの銀狼として能力は、人狼を遥かに凌駕するものの、
それだけ分かれば十分だった。生かしておけば、再び
「──殺すか」
味気なく呟いて、アルフレッドはガウルを踏み締める脚に無造作に力を込めた。ミシリと骨が軋む音がするが、全身を這い回る毒に悶える今のガウルに、そんな些細な痛みは届かないらしかった。
無用となれば因縁のある相手とて、止めを刺す事に何の感慨も沸かなかった。アルフレッドの脚は緩慢に、しかし確実にガウルの命を押し潰していく。
──その太腿の銀毛が、パッと散った。
豆粒をぶつけられたかのような微かな衝撃は、超遠距離から飛来した銃弾によるものだった。
視線を上げると、闇に続く四車線の直線道路の先に、微かに輝く光源があった。逆光に霞んでいるが、その光の上に跨る人影が此方にスコープ越しに銃口を向けている事は見て取れる。
「緋森、綾也か」
その正体は詮索する間でも無い。つい先ほど見逃した綾也が、バイク上でサイレンサー装備のアサルトライフルを構えている。その銃口が再び発砲に揺れ、精密な射撃がもう一度アルフレッドの脚を叩く。
そのささやかな攻撃に、アルフレッドを屠る殺気はない。これは、れっきとした宣戦布告だ。
メティスと違い、綾也を殺さなかったのも、またアルフレッドの気まぐれであり、興味からだった。人間の身でありながら、吸血鬼の不意を突き逆転してみせた彼の技量は、銀狼の目から見ても賞賛に値する。
彼ならば、銀狼と人間という絶望的なスペック差を埋める奇策を持ち得るかもしれない。アルフレッドにすら想像もつかないが、緋森綾也は、何の打算も無く、勝算も無く、敵に姿を晒す男ではない。相応の手段を手に入れて、更に此方を挑発しているに違い無かった。
面白い、つくづく面白い男だ。
銀狼を忘れ、吸血鬼を思考の隅に追いやり、アルフレッドの殺気が、ただの人間へと向かう。それに呼応するかのように、バイクのエンジンが咆哮の如く轟いた。
アサルトライフルを放り捨て、綾也は鋼の乗騎を急発進させた。そのヘッドライトは、
直線の上で、バイクは加速に加速を重ね、アルフレッドとの間合いを、瞬きの刹那に縮めていく。接近するにつれ、ライトの輝きは目も眩むほどに増大した。
「ガウル!」
バイクの轟音にも負けぬ大音声で、綾也が叫んだ。その両手がハンドルから離れたのを見て、何を仕掛けてくるか、とアルフレッドが身構える。
──瞬間、爆光が目を灼いた。
綾也を乗せたバイクが、突如爆音を上げ、異様に巨大な光を発し、炎上したのだ。車体は炎に包まれて、しかし速度は一切衰えないままにアルフレッドへと突っ込んでくる。
炎を纏う屍と化した鋼鉄の車体を、銀狼は拍子抜けした面持ちで眺めた。
赤熱の灼泥すら耐え切る銀狼に、この程度の火炎と衝撃でダメージを与えられると思っているのだろうか。もし本当にそう信じ込み、必殺をかけての特攻であるなら落胆を禁じえない。
ひとまずライアに死なれては困る、と彼は少女を無造作に投げ捨てた。小柄な体躯が二転、三転と大地を転がる。
そして、事もあろうに空いていた腕で、燃え荒ぶバイクを払いのけた。果たして、その爪のたった一撃で、バイクは破片を撒き散らし、完全にスクラップへと化した。その破壊力も、火炎も、共に銀狼の毛皮を軽くなびかせるのみ。ダメージと呼ぶには程遠い。
──これで終わりじゃねェはずだ。
銀狼の夜目は、爆発の直前、バイクから離脱した綾也の姿を捉えていた。爆光に視界が白濁した瞬間その姿を見失ったが、爆発に巻き込まれていないのは確かだ。超高速のバイクから飛び降りれば、人間の綾也はただでは済まない。
緋森綾也は見事に気配を絶っていた。銀狼の感覚器すら欺く暗行の業にアルフレッドは内心舌を巻いた。自分が目をかけた人間だけなことはある、だが……。
彼を千年導いた獣の直感は、銀獣の眼を空へと向けさせた。
夜陰に紛れ、黒い霧を体に纏わりつかせながら、綾也はアルフレッド目掛けて落下していた。綾也の目が愕然と見開かれるのが見えた。
なるほど、と合点がいく。
爆発の衝撃を、ガウルの黒の暗泥で防御し、離脱後の空中の制動も彼に任せたのだ。瀕死のガウルにそんな芸当が出来たのも驚きだったが、まさか綾也が単身で、接近戦を挑んでくるとも思っていなかった。
だが、これは下策の中でも下の下だ。
接近戦に持ち込んだ所で、人間に原初の銀狼を傷つける術など無い。その手に銀の輝きが握り締められているが、吸血鬼を屠る銀狼の牙も、銀狼相手には何の効果も為さない。
急迫する綾也と接触するまさに直前に、アルフレッドの鉤爪は、綾也を一閃する。
──びしゃり、とアルフレッドの白銀の毛にいくつもの黒い点が生まれた。
「──!?」
アルフレッドの爪は、虚しく宙のみを薙いでいた。綾也の体は、縫いとめられたかのように空中で停止し、刹那の間隙、死の爪から難を逃れていた。
その事実よりも、自らの体に降り注いだ液体の正体にアルフレッドは驚愕する。これは、まさか──。
「「聖女の慈悲」……!?」
言葉にするや否や、「聖女の慈悲」は原初の銀狼に牙を剥いた。銀毛の毛並みがみるみる輝きを失い、黒く穢されていく。肌を舐める凄まじい未知の激痛は、原初の銀狼すら怯ませた。
瞠目した黄金の瞳が、再び綾也を捉える。綾也の総身を賭けた銀狼の牙の刀身には、歪な黒い曲線が幾筋も描かれていた。その渾身の一刀が、愕然と見開かれたアルフレッドの右目に吸い込まれる──。
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