5-6

 「グァァァァ────!?」

 「聖女の慈悲」に濡れた刃を急所に突き立てられ、たまらず原初の銀狼が絶叫する。

 その有様はまさに窮鼠に噛まれた猫そのもので、アルフレッドは完全に前後不覚に陥っていた。

 それを見届ける間も無く、綾也はアルフレッドの肩を蹴り、銀狼の牙を残したまま離脱する。

 メティスが遺したガラス瓶の黒い液体は、ライアから予め採取されていた「聖女の慈悲」であった。おそらく切り札になり、交渉のカードになりするつもりだったのだろうが。

 バイクの爆発から脱出するタイミングと、ガウルの黒の暗泥の精度。「聖女の慈悲」が原初の銀狼に効くかどうか。

 彼の薄氷を踏み進む奇襲は、十全に成し遂げられたのだ。

 ──その安堵に、気が緩んでいた。

「がは……!?」

 形振なりふり構わずがむしゃらに振り回された左腕が、離脱寸前の綾也にめり込んだ。胴体に横薙ぎに繰り出された一撃を、咄嗟に両腕で受け止める。しかし、銀狼の怪力は容易くその盾をへし折った。両腕の骨は粉々に砕け散り、肋骨を確実に数本折られた。

 銀腕が振り抜かれると同時に、綾也は吹き飛ばされ、壮絶な音と共に地面に叩き付けられる。

 喉を血が逆流し、たまらず喀血する。地面との衝突で内臓も深刻なダメージを受けた。呼吸するだけで、身を裂くような痛みが綾也を苛む。

「緋森、綾也ぃぃぃぃぃ!!!」

 殺意に染まった胴間声が、夜の大気を鳴動させる。残された銀狼の左目には、余裕も理性も無い。ただ傷つけられた衝撃と激痛に感情を隆起させ、猛る怒りを燃え上がらせていた。

 銀狼の右手が、目を穿った牙を抜いた。刀身は原初の銀狼の血を吸い、妖しく紅い光彩を放っている。アルフレッドはそれを省みもせず、怒りにまかせて綾也へと投げつけた。

「……綾也……!」

 声を振り絞って、ガウルは綾也を呼んだ。しかし、綾也は動けない。咄嗟になけなしの黒の暗泥を展開するも、そのナイフが「自分の牙」であるが故に、黒い束縛も容易く振り解かれた──。

 ド、と短く鈍い音を立て──ナイフの刀身は綾也の背中の中心に沈み込む。綾也の体がビクンと跳ねる。銀狼の怪力を帯びたその一投に、ナイフは柄まで肉体に埋まっていた。

 それは、誰の目から見ても、致命傷に違い無かった。

「綾也……!」

 その認め難い光景を前にして、今更になってガウルの四肢がまともな感覚を取り戻した。弱体化したアルフレッドの拘束を力任せに跳ね飛ばし、立ち上がるや否や悶絶する敵に拳を叩き込む。

 それは本来の力からすれば、半分以下の威力であったが、同じく悶絶するアルフレッドには十分だった。

 吹き飛んだ原初の銀狼に目もくれず、ガウルは綾也へと駆け寄った。未だに「聖女の慈悲」は体内で荒れ狂っていたが、それ以上の悲痛に彼は我を忘れた。そして、その腕で弛緩した相棒の体を持ち上げた。

「しっかりしろ、おい! 綾也! ふざけるなよ、貴様!」

「…………」

 罵声に近い呼びかけに、綾也が薄っすらと瞼を開けた。即死してもおかしくない一撃を受けながら、かろうじて綾也の意識は肉体に繋ぎとめられていた。

 それを間近に見て、ガウルは思い知る。幾多の死を与え、別れを迎えて来た本能が告げる。この男との今生の永別が、目前に迫っていることを。

「ちくしょう、やってくれるじゃねェか……!」

 悶絶に声を歪めながら、アルフレッドが叫ぶ。

「「聖女の慈悲」を持っていやがったとは……! いや、あの吸血鬼が隠していたんだろうな……。それを見落としちまってたか」

「アルフレッド……! 貴様ァ……!」

 身を切るような喪失感がガウルの心を満たしていく。また守れなかった。むしろまた、守られた。この相棒にして、数少ない彼の理解者であり──大切な悪友である男を。よりによって、「竜公女」を彼の目の前で殺した相手に。

「しかし……なんつー出鱈目な毒だ。痛ェなんてもんじゃないな、これは……おっと」

 自身の損傷を省みず、遮二無二飛び掛って来るガウルを、アルフレッドは若干鈍った動作でかわした。柄にも無く後退し、アルフレッドは怒りに身を焼くガウルと距離を取った。

「……その男に感謝するんだな、ガウル。俺も無理をする気はねェ。一旦退かせてもらうぜ」

「何を……!」

「夜明けだ」

 原初の銀狼は通告する。

「夜明けと共に、俺はそこの嬢ちゃんを頂きに来る。それまでに、抵抗の覚悟を決めるか、逃げる算段を打っておくがいい」

「な……」

「じゃあな」

 一方的にそれだけを告げ、原初の銀狼は夜の闇に消える。その行く手はコンビナート。言葉通り一度身を退いて、解毒に専念するらしかった。

 それに追いすがる体力と気力を、やはりガウルも持ち合わせてはいなかった。脅威が消え去った事を理解し、今まで追い払っていた途方もない疲労感に、思わず膝が地に落ちた。

「……綾也さん……」

 涙にくれた声が、相棒の名を呼んでいる。目の前で交錯した戦火を、ただ見守ることしか出来なかった少女が、綾也の傍らに跪いて泣いていた。

 よろよろと、二人にガウルが近づく。全員が全員、心身ともに満身創痍だった。そして、その中でも最も脆弱で、最も雄雄しかった男が死に逝こうとしている。

 ガウルの目が、綾也の弱弱しい瞳の輝きと重なった。その意思を、あまさず汲んだガウルは、口を利くことすらままならない綾也に代わって言った。

「ライア、頼みがある」

「……?」

 いつから泣き続けているのだろうか。ガウルは見上げるライアの顔は悲愴な涙で、見る影も無かった。そんな彼女に、今からガウルが口にする「頼み」は残酷でしかない。だが、他ならぬ友の「頼み」だった。

「綾也の血を、吸ってやってくれ」

「え……」

 絶句するライアに、ガウルは頭を下げる。致命傷を負った綾也は、もう程なく息を引き取るだろう。そんな重傷者から血を吸うなど、死者に鞭打つに等しい行為だ。

「叶うなら、人狼の手には掛かりたくない。それが綾也の願いだ。こんな稼業に手を染めておきながらな」

「そんな……」

「頼む。銀狼オレには出来ない」

 ライアは思わず、綾也の顔を見る。末期の瀬戸際にあって、彼の顔は柔らかに微笑んでいた。その表情も、ガウルの言葉通りにライアの牙を望んでいた。

 ドクン、とライアの本能が脈動する。

「──少し待っていろ」

 ガウルは爪を立て、綾也のワイシャツごと下の銀の装甲を切り開いた。「対吸血鬼素材」であるガウルの毛皮を織り込んだそれは、吸血鬼であるライアには触れられない。

 障害を取り除いて、ガウルは無言でライアを促した。

「……綾也さん……」

 露になった彼の胸板には、無数の古傷が刻まれていた。それはおそらく全身に渡っているのだろう。

 傷だらけの胸に、ライアはそっと手を添えた。その指に、綾也の消え行く温もりと、鎮まりつつある心臓の鼓動を感じた瞬間、彼女は今まで封印してきた衝動を抑え切れなくなった。

 ライアは綾也の肩に手を回し、その首筋に喰らいついた。人間の首に牙を直接突き立てたのは初めてだったが、吸血鬼のさがは、彼女の牙を迷うことなく頚動脈へと導いていた。

 肉体という生命の器に穴が穿たれ、血がライアの口にあふれ出す。豊饒に熟れた美酒の妙味に、ライアはたちまちに酔いしれた。

 ──悪いね。

 血に乗って、綾也の感情がライアの脳裏に雪崩れ込んだ。彼女の優秀すぎる「幻視」が、緋森綾也という人生その物を、その出生から終焉まで、肉体が刻んで来た年輪を、ライアの中に書き写していく。がらんどうだったライアの人生に対し、彼の生涯は激動に満ち、あまりにも鮮烈だった。

 三歳の時、両親を惨殺され、自身も深い傷を負わされ、一度彼の人生は終る。「緋森」に拾われてからは、人狼への復讐を果たす為、戦闘や諜報の技術を貪欲に吸収した。ガウルに出会った時の葛藤、反発。そして彼の境遇を理解した上での和解。人狼を初めて殺した時の衝撃と嫌悪。もう後には引けないという覚悟。

「……。うぅぅぅぅ……!」

 その精神に触れ、ライアは理解する。

 緋森綾也は、彼女の友になってくれていたという事を。出会いさえ間違わなければ、彼女の境遇を呑み込んだ上で、助け、励まし、支えてくれたに違いない、自分にとって掛替えの無い存在になっていた事を。綾也はライアを、更に広い世界へ導いてくれる、灯台に相違なかった。

 だが、もう叶わない。

 その可能性を自ら刈り取りながら、ライアは慟哭する。在りもしない未来は、彼女が求め続けた光景だった。それでも、血を啜る手を休めない自分の牙が、浅ましくて疎ましくて仕方ない。

 鼓動がいよいよ止まりつつあった。「死」を受け入れた綾也の穏かな精神とは裏腹に、彼の血流は肉体の存亡を賭けて最後の抵抗を続けていた。「死にたくない」。生生しい絶叫を耳元で聞きながら、ライアはその断末魔に手をかける。絶大な輝きを放つ生命力を、淀んだ黒の暗泥へと貶めていく。

 ──ありがとう。辛い思いをさせたね……。

 血流に乗って、綾也がはにかんで謝罪と謝辞を贈った。堪らなくなって、ライアは牙を首から離す。

 違う。感謝しなければならないのは私の方なのだと、そう唇で紡ごうとした。

「そうじゃないんです……! 私の方こそ、あなたに……!」 

 嗚咽の絡んだ舌が、言葉を形にした時には遅かった。

 「ありがとう」も、「ごめんなさい」も、言い残した他の気持ちを一つ足りとて伝えられないままに、緋森綾也は旅立っていた。生と死の境界で漂う彼の背を、ライアは確かにあちら側へ押し出した。生者と死者を分かつ、吸血鬼のみ知覚出来る未知たる既知が、ぷつりと途絶えた瞬間をライアは看取ったのだ。

 綾也の生き血は、ただの亡骸の血と成り果てた。背中からの出血も、ライアに血を吸い上げられたせいでほぼ止まっていた。壮絶な死でありながら、赤みを失った表情は穏かで、死の恐怖を一切面に顕していない。それはライアにとって唯一の慰めであり、またこの期に及んで気を遣ってみせる綾也の人柄に相違無かった。

「……済んだか?」

「……はい」

 手短に問う淡々と問うガウルに、涙も枯れ果てた声で彼女は答えた。ガウルは亡骸の身を起こし、綾也の命を奪った銀狼の牙を力任せに抜く。紅く彩られた刀身が、月光を浴びて無情に煌めいた。

「……一度、美咲のところに退こう」

 そう言いながら、綾也の遺体をガウルが肩に担いだ。そして、立ち上がり、進もうとしたガウルの巨体が、ぐらりと大きく傾いだ。

「……ガウルさ──?」

 ライアがその異変に気付いた瞬間、綾也の体を放り出し、地響きを立ててガウルが前のめりに転倒していた。

「ガウルさん!?」

 慌ててライアが駆け寄るが、銀狼の毛皮に遮られてしまう。近づけないままに、ガウルの様子を確かめた彼女は理解した。

 その激痛に歪む表情は、未だ彼の中で「聖女の慈悲」が猛威を振るっている証だった。綾也の手前、押し隠していた毒の苦しみを、ついに彼は抑えきれなくなったのだ。

 全ての生命に仇なす「聖女の慈悲」は、「魔女の悪意」のようには、銀狼に即滅の呪いを掛けるに至らなかった。アルフレッドの態度から察するに、多大なダメージは与えたものの、原初の銀狼の再生力は、「聖女の慈悲」の侵攻を凌駕していた。アルフレッドはその解毒と、体力の回復の時間を見越して「夜明け」と宣言したのだ。

 ガウルも、同じ時間をかければ「聖女の慈悲」の解毒に成功するに違いない。だが、度重なる「赤熱の灼泥」の発動と、アルフレッドに痛めつけられた著しい体力の損耗、そして何より綾也を失ったと言う精神的なダメージに、再生能力が十全に機能していなかった。

 毒の保管者としての直感が告げる。このままでは、おそらくガウルの体力は保たない──。その瞬間、「聖女の慈悲」は銀狼を血泥へと食い尽くすだろう。

 彼を助けるには、外的要因によって解毒する必要がある。

 「幻視」を最大限に活用し、ガウルの身体情報を読み取りさえすれば、ライアが「聖女の慈悲」を体内で制御しているように、ガウルの体内でも、彼女が手綱を取ることでバランスを取ることが出来るかもしれない。

 可能性はある。だが、そこまで仔細な「幻視」を行うにはガウルの生き血を飲む必要があった。吸血鬼を滅ぼす、銀狼の毒血を。

 彼女が毒血に負け、死に至れば、「聖女の慈悲」が噴霧し、周辺の生物を殺戮する。そうなれば元も子もない。文字通り身を呈した二人に、申し訳が立たない。

 しかし、そう思いながらもライアはガウルに近づいた。

 二人がそれを望んでいない事も、身勝手極まる蛮勇だと分かりながらも、挑みたい。彼女は今、初めて自分で自分の命の使い方を決めた。

 ガウルに触れた瞬間、白い指に焼けるような激痛が走る。その激痛に耐えながら、ライアはガウルに牙を剥く。長い毛を掻き分け、堅牢な皮膚に穴を開ける作業に、気を失いそうになりながら、ライアはついに銀狼の血にありついた。

「────!?」

 血が舌に触れた瞬間、全身が痙攣した。綾也と同様に圧縮された情報がライアの脳裏に焼きつくが、それは甘い酔いには程遠い、激痛を伴う拷問であった。

 思わず意識が遠のく。

 銀狼の血がもたらす激流に、必死に心を奮い立たせてしがみ付く。だが、嵐に翻弄され続けるうちに、命綱を握っている指の力が徐々に抜けていくのを、ライアは戦慄しながら自覚する。とても耐え切れない。

 ──駄目……!

 微かな悲鳴すら掻き消され、ライアの意識は黒波に攫われ、暗く深い水底へと沈んでいった──。

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