6-1

 一瞬、映像にノイズが走った直後、場面が転換する。

 煌々と眩い蛍光灯の白い光の下、ゼレニアは一人の女性と対面していた。年齢は四〇は越えているだろうか。小柄なその中年の女性の面影に、ライアは見覚えがあった。

 老婆である現在の姿に比べれば随分若いが、女性は緋森美咲に違いなかった。ゼレニアと、そしてタオルの敷き詰められた籠の中で、丸まっている銀狼の姿を前にして、彼女の表情は懊悩としていた。

「……悪いけど、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれるかい?」

 剣呑と刺々しく、美咲が口を開いた。

「だから、この仔犬、ちょっと育ててくんないかな、て」

 返すゼレニアの声は、吹けば飛んでしまいそうなくらいに軽かった。

「私、犬飼った事ないしさ。日本にずっと滞在する気もないし。美咲はこういうの得意そうじゃん」

「あんたね……この重大さが分かって言ってんだろうね?」

 額に手をあてて、美咲が大きな大きな溜息を漏らす。

「人狼の中から銀狼が生まれたなんざ、世界をひっくり返しかねない一大事だよ? 世界中の機関や、トランシルバニアが黙っちゃいない。この銀狼の仔の所在を巡って、相当な悶着が起こるだろう。そんな面倒ごとに、やっと形になりつつある「緋森」を巻き込もうってのかい?」

「それなら、大丈夫」

 真剣に懸念を漏らす美咲に、ゼレニアは気安く請け負った。

「この仔の所有者が私なのは、もう決定済みだから」

「……それは誰が決めて、誰が認めたんだい?」

「勿論、私が決めて、私が認めた。どこの誰だろうが文句は言わせない」

「……」

 美咲はかける言葉を探すように逡巡しているようだったが、やがて諦めたかのようにもう一度溜息を吐いた。

 ライアは、面白い玩具を手に入れて喜ぶ子どものように、ゼレニアが興奮しているのを感じていた。この銀狼が、果たしてどのような変貌を遂げていくのか、彼女は気になって仕方ないのだ。

「私はこの仔がどんな風に成長していくのか、知りたい。人として知性を持ちえるのか、それとも生まれた時から死ぬまで、魔性の獣なのかさ。それは、研究者共に解剖されたり、ホルマリン漬けにでもされたら分からない。美咲が新たな「緋森」の為に、孤児を教育している中に、こいつも混ぜて欲しいんだ」

「簡単に言うけどね……」

「そういえば、犬を飼うのは、子どもの情操教育にいいらしいぞ」

「言ってることが無茶苦茶なんだが」

「まーまー。私も手伝うから。首輪して散歩とか」

「……言っとくけど、そんな一目に付くような真似、絶対にするんじゃないよ?」

 まるで子どもに拾ってきた犬を「飼いたい」と散々だだをこねられ、根負けして許可する母親のようだ。

「この仔、名前はあるの?」

「ん……。名前か……」

 思案げに呟いて、ゼレニアの視線が宙を彷徨う。

「──ガウル。うん、ガウルにしよう。犬っぽくていい響きだ」

 冗談のようなやり取りだったが、こうしてガウルの運命は決まった。もしここで、ゼレニアや美咲に拾い上げられなかったら、今のガウルは到底存在しえなかっただろう。

 産みの両親を焼殺した仇。絶望的な未来を救った恩人。捉えどころのない飄々とした吸血鬼が、銀狼の仔の命運を握る存在になった瞬間であった。


 ライアの認識の中で、目まぐるしく景色が移り変わる。

 それからの数年、ゼレニアはガウルの世話を美咲にまかせっきりにしていた。たまに美咲の元に顔を出す程度で、彼女自身は、ガウルの面倒など全く見る気はないようだった。一ヶ月に一回、「緋森」を訪れればまだいい方で、長いときには丸一年放置する時もあった。

 ガウルの世話に、美咲は相当苦心しているようだった。ガウルの存在を、美咲は「緋森」の仲間にも秘匿し続けていた為、彼女はたった一人で未知の困難に立ち向かわなければならない。人間の孤児の面倒は見続けてきたが、銀狼の仔となれば勝手がまるで違う。

 美咲はガウルを、「人間」として育てる方針を立てていた。ガウルは超未熟児であったが、元来の銀狼の頑強さからか、大病にも見舞われずすくすくと成長していた。一ヶ月で四足で歩き回るようになり、美咲は一室を設けて彼の生活空間とした。

 外見はほぼ狼と同じであったが、成長は人と同じ速度らしく、一歳を数えても、ガウルは中型犬と変らぬ大きさだ。ただ腕力や顎の力は異常に強く、戯れにと与えた玩具はすぐさま見るも無残な姿になって転がり、山となる。小さいながらも、銀狼としての片鱗を、ガウルは確実に見せつつあった。

 そして、肝心のガウルの精神の形であったが──意外にも、人間の赤子の反応を、銀狼の仔はなぞっていた。

 空腹に泣き、むずがっては泣き、眠れずに泣き、わけもわからずにとにかく泣いて泣いて、美咲を困らせる。日々の激務に追われる彼女は、ガウルばかり見ているわけにもいかない。それでも持てる時間を可能な限り割いて、美咲はガウルを育て続けた。愛情というより意地が、彼女を何とか駆り立てた。

 言葉を覚え始め、知性らしきものをガウルが見せ始めた時、美咲の達成感はひとしおであった。

「──最近は字を覚えるようになったよ」

「……そう」

 訪れたゼレニアを迎えた美咲の声は、その表情と共に明るかった。しかし、その報告を受けた女吸血鬼の態度は、どこかそっけない。

 ガウルの物心が付いてからというもの、ゼレニア自身が彼の前に姿を現したことはない。彼らにとって吸血鬼は狩るべき獲物であり、無用な接触は精神の成長に害を為す恐れがある。ゼレニアは、ガウルが隔離されている部屋を、いつも通り気配を気取られぬよう窓から覗き込んだ。

 白塗りの正方形の部屋に、ベッドと机と本棚がある。銀色の毛玉は机の前に座って、鉛筆を手に、熱心に手元の覗き込んでいる。五歳になるその姿に、銀狼の凶暴な気配は皆無であり、むしろ愛嬌があって可愛らしく思える程だった。

 その微笑ましい光景にあって、ライアはゼレニアに苛立ちの感傷が募っている事に気が付いた。目の前の仔狼にではない。自分自身に対して、である。

「──私は、お前の言う通り浅はかだったな、美咲」

 美咲が驚きに満ちた視線を、ゼレニアに向ける。自信の塊であり、その自然体が傲岸である吸血鬼が、自嘲の嘆息を吐いたからだ。

「何だい、藪から棒に」

「あの銀狼の仔は、偽人狼と共に葬ってやるべきだった」

「……本当に、何様のつもりだい、あんたは?」

 ゼレニアの言葉は、美咲の逆鱗に触れ、怒りを沸騰させるには十分過ぎた。穏かだった歴戦の女戦士の双眸が、鋭く引き締まる。

「ガウルは、あたし達の期待通りに──いや、期待以上に成長しただろう? あの子は人間だ、偽人狼なんぞと一緒にまとめるのは、幾らあんたとはいえ、あたしが許さないよ」

 ガウルは外見同様、五歳児には在り得ない膂力を持っていた。しかし、その気性は穏かで、とても残虐な人狼の仲間には見えない。もはや、ガウルの精神が、ただの人間の子どもと同一であるのは疑いようも無かった。

 その結果は、確かに喜ばしい。だが──。

「私は──ガウルの行く末を見守りたいと言いながら、どこかこの仔の将来を軽んじていた。どうせ、残虐な気性に呑まれ、すぐに始末する事になるだろう、そう思っていたようだ」

 呵責の眼差しを受け入れながら、ゼレニアは呟く。

「お前の言う通り、ガウルは人間だ。身体を狼禍症に冒されながら、精神を人間の容に保った、おそらくこの世で唯一の、奇跡的な存在だろうな」

「だったら、何故」

「だからこそ、この世界にガウルの居場所は無い」

「……ゼレニア……」

 吸血鬼の言葉に、女戦士は発していた気迫を掻き消した。ゼレニアの不穏当な発言が、ガウルの身を案じている事に、彼女も気付いたのだ。

「銀狼の身体に魂を宿した時点で、ガウルは殺し合いの連鎖に巻き込まれる運命にある。いっそ凶暴だったら、躊躇無く戦場を連れ回すんだけどね。あの毛玉の暢気さを眺めていると、その気を無くすよ」

「……ずっとここに匿っておけばいいだろう?」

「美咲が無理だと分かりきっている事を、口に出すとは珍しいな」

「……」

 ゼレニアの言葉は正しかった。現に、ガウルの存在はじわじわと、闇の社会に知れ渡りつつある。最近になって、『緋森』の施設周辺に、各国の機関やトランシルバニアの影を察するようになった。連中は、美咲に隙あらばガウルの身柄を狙っている。しかも、敵は人間や吸血鬼だけではない。ガウルは、最大の悪敵である原初の銀狼を誘う可能性も大きかった。

 そうなれば、『緋森』は壊滅的な打撃を受けるだろう。ガウルだけでなく、他の隊員や孤児の命を預かる美咲にとって、それは最悪のケースだ。万が一、両者が天秤に掛けられたらば、美咲はガウルを切り捨てなければならない。

 一度戦場に出れば、二度とガウルに平穏は訪れまい。あの愛くるしい顔に、無垢な笑顔が輝くことはあるまい。

 こんな苦悩を抱くことになるのなら。ガウルに血で染め上げられた茨の道を歩かせるくらいなら──殺しておいた方がまだ救いがあった、ゼレニアはそう言うのだ。

 しかし、もうその手段に訴えるには遅すぎた。一片の情を抱いてしまった瞬間から。

「今日から始めよう、美咲。異論はないな」

「……分かったよ」

 ガウルがこの先生き抜くには、自己保身の為の暴力を学ぶ必要があった。

 美咲が苦渋に歪み切った表情で頷く。その視線は、寂しげにガウルの背中を眺めていた。

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