6-2

 五年目にして、二度目の邂逅。

 ノックも無しの突然の見知らぬ来客に、ガウルは心の底から驚いたようだった。黄金の眼を見開き、物怖じしながらも、好奇心に満ちた様子でゼレニアを観察している。

 無理もないだろう。ガウルは今まで美咲としか接触を許されず、主な行動範囲もこの狭い部屋のみだ。外界の空気を纏うゼレニアは、まさに青天の霹靂であった。

「やあ。初めまして、ガウル。いや、本当には会うのは二回目なんだけど。そんな事、お前は覚えていないか」

「……?」

 仔犬が首を傾げるような仕草そのままに、ガウルは不思議そうにゼレニアを見つめている。

「私の名は、ゼレニア・オーラント。大切な名前だから、良く覚えておくんだ、ガウル」

「……ぜれにあ?」

「そうだ。中々飲み込みが早いじゃないか、えらいぞ」

 ゼレニアの台詞をどこまで理解しているのか怪しかったが、褒められた事だけは分かったらしく、ガウルは嬉しそうにはにかんだ。

「さて早速だが、外に出ようか、ガウル」

 優しい声音で誘うゼレニアに、ガウルは一瞬きょとんとする。一拍の後、慌てて首を左右に振り、

「駄目。美咲に出たら駄目って言われてる。怒られる」

「そんなことはない。美咲が出ても良いって言ったんだぞ?」

「駄目。知らない人について行っちゃ駄目って、言われてるから」

 頑固な銀狼は、以外にもきっちり躾が行き届いているようだった。美咲の無駄に完璧な躾に閉口しつつ、ゼレニアは甘く言い寄る。

「知らない人? 私の名前をもう忘れたのか?」

「覚えてるよ、ゼレニアでしょ?」

「何だ、知ってるじゃないか。なら付いて来てくれるかな?」

「…………。……うん!」

 額面どおりの言葉しか理解出来ないガウルは、あっさりとゼレニアの口車に乗った。元々、好奇心の塊である五歳児に、ずっと室内に閉じ篭っておけという命令こそ、無理な話である。文字通り尻尾を振りながら、ガウルはゼレニアの後ろを付いていく。

 部屋を出て、傍の開けた広場で、ゼレニアは足を止めた。外は夜。輝く満月が夜気を月光で染めていたが、不意にその光量が減じる。

 ゼレニアが黒の暗泥で、周囲を覆ったのだ。人払いを兼ねたその漆黒の障壁を見たガウルは、度肝を抜かれた様子だった。

「この霧は『黒の暗泥』という、吸血鬼の能力だ。これからいやという程、見ることになる」

 ガウルの理解が追いつくはずもない事を知りつつ、ゼレニアは続ける。

「ガウル。あの部屋から出て、外の世界へ私と旅立つ気はないか?」

「外……?」

「そうだ。世界は面白いぞ。それに何でもある」

 ゼレニアの甘言は、単純にガウルの好奇心と物欲を煽った。ガウルの知る世界は余りにちっぽけで、がらんとした部屋の中も殺風景に過ぎた。

 ガウルがその気なれば、その欲する大抵の物は手に入れることが出来るだろう。代わりに彼は、掛替えのない代償を払うことになるが。

「もう、美咲と会えなくなる?」

「いいや、そんな事はない。会いたくなれば、戻って来ればいいだけさ」

「じゃあ──」

 「行きたい」と口にした瞬間、ゼレニアはガウルを黒の暗泥で跳ね飛ばした。幼子の身体が、四回、五回と地を跳ね転がる。

 ガウルは、ゼレニアに願望を漏らした瞬間、安全な巣箱から放り出されたのだ。戸惑いと痛みによる恐怖に怯える彼に、ゼレニアは情の一切を捨て歩み寄った。

 突然来襲した、言われ無き暴力に、ガウルは急激な変化を余儀なくされた──。


 一回目の予告なき修行は、ガウルが恐怖に気絶したことで終了した。

 一週間後の二回目、ゼレニアがガウルの部屋を訪れると共に、彼は脱兎のごとく逃げ出した。美咲の名を助けと共に叫ぶそれを吸血鬼は捕まえ吊るし上げ、一回目よりも更に凄惨な拷問を与えた。銀狼の回復力でさえ追いつかず、ガウルは生死の境を漂うハメになった。

 三回目、頼みの美咲も助けにならず、追い詰められたガウルは、遂にゼレニアに牙を剥いた。戦略も戦術もない、そのがむしゃらな一撃を、あえてゼレニアは受けた。

 子どもとは言え、ガウルの牙は銀狼の猛毒を帯びていた。肩に走った痛みは、ライアがガウルの血を飲んだ痛みと、同じだった。

 ガウルは、初めて味わう吸血鬼の肉と血の味に、思わず嘔吐する。そのおぞましい歯ざわりと、自分が他人を傷つけてしまったという嫌悪感に、彼は胃の中身を逆流させた。そんな同情を誘う、憐れな姿を晒すガウルを、ゼレニアは掴みあげ、自らもその首に牙を立てた。猛毒の銀狼の血を、吸血鬼の名の通り啜り上げる。ゼレニアの身体を、ライアが体験した通り、猛毒が蹂躙する。

 その素振りを全く面に出す事無く、ゼレニアは冷酷に、ガウルに修行を突き付けて行った。

 半年を過ぎた頃には、ガウルはもう泣かなくなっていた。同時に、五歳児らしい稚気に満ちた笑顔も失い、その表情には大人びた精悍さすらあった。

 ひとまずの戦闘訓練を終え、過酷な修行を耐え切ったガウルに、ゼレニアは褒美として「オーラント」の名を譲り分け、旅の同行を許した。


 以降、ゼレニアは世界を股にガウルを従えて、数多の戦場をくぐった。その中で、ガウルは幼い未熟な精神で何度絶望しただろうか。

 世界は途方もなく広い癖に、彼は仲間を一人たりとも見つけられなかった。人間に恐れられ、吸血鬼に蔑まれ、人狼に疎んじられ。

 ただ存在するだけで発生する耐え難い苦痛に直面し、苦悩する若き銀狼を、ゼレニアはただ傍で見守った。

 そして、そんな残酷な世界の中ででも、ガウルが何とか折り合いを付け、生き抜こうとする意思を身につける所までも。

 皮肉な事に、戦場は因縁だけでなく、ガウルに出会いを生んだ。特に異形の銀狼に気安い態度で接してみせた緋森綾也の存在は、彼を大きく助けた。

 ガウルにとっても、ゼレニアにとっても、その共に過ごした十数年間は、非常に濃密な刻であった。

 原初の銀狼アルフレッドに、『竜公女』ゼレニア・オーラントの命が絶たれるその決着の時までは──。

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