1-5

 果たして、鵜流辺が壁を蹴った瞬間と、

「……代わります」

 無機質な声と共に、綾也が脇腹を突き飛ばされた瞬間と、どちらが先だっただろうか。

 余りにも慮外の衝撃だった為に、綾也はろくに受身も取れず、無様にアスファルトの地面に転がった。

 状況を理解するよりも早く、目の前を闇よりも濃い漆黒の流動体が覆い尽くした。意思を持つかのように蠢く闇の粒子が、急迫する鵜流辺と綾也の間に、瞬時に強固な壁を築いたのだ。

「だ、黒の暗泥だと……!?」

 衝撃に打たれた鵜流辺の呻き。その表情は壁に阻まれ確認できなかったが、驚愕のほどは声色で容易に読み取れた。

「遅れて申し訳ありません、ライア様」

 その黒壁を支えるかのように立つタイトなブラックスーツに身を包んだ女性に、綾也はただ目を奪われた。彼女の正体は尋ねるまでもない。吸血鬼だ、しかもライアと違い、恐ろしく強力な。

「この狗は、即刻始末いたします。どうかしばらくのご辛抱を」

 女は鵜流辺を睨みつけている。その眼光の鋭さたるや、それだけで子犬くらいなら殺しかねない迫力を伴っていた。

「馬鹿な、吸血鬼だと……!? 次から次へと……、そんな気配は全くなかったぞ!」

「その汚らわしい口を閉じろ、狗」

 女の意を汲み取るや否や、黒の暗泥は瞬時に膨張し爆発した。生み出された大気の渦に飲み込まれ、鵜流辺の体が木の葉のように舞った。それを冷めた眼差しで眺めながら、女が呟いた。

「助勢に感謝します、緋森の一族」

「あ、あんたは……?」

「ライア様の従者を任されている者です。名はメティス」

 白皙の美貌に、妖気に満ちた魔の微笑が浮かぶ。人間を魅了してやまない捕食者の表情だった。

「く……!」

 荒れ狂う気流を脱出した鵜流辺が、再び三人と対峙する。その顔色には隠しようのない動揺と焦りが浮かんでいる。

「来い、偽人狼。ライア様に牙を向けた貴様は万死に値する」

「汚らわしき吸血鬼風情が……!」

 メティスの挑発を最後まで聞かぬまま、鵜流辺が再び踊りかかった。地に伏せるかのような低姿勢のまま、一息で彼女へと肉薄する。

 メティスを取り巻く黒の暗泥が機敏に反応し、鵜流辺の姿を瞬く間に飲み込む。質量を持つ念体に手足の動きを阻まれながらも、鵜流辺は止まらない。諸手の爪で黒の暗泥を切り裂き、メティスへ向けて拳を振り上げた。

 凶悪な破壊力を帯びた右腕が唸りを上げ、メティスへと襲いかかり、

「──ガァ!?」

 彼女の眼前で宙に固定された。

 見れば、たゆたう黒の暗泥が細い円錐状の形を持ち、上から鵜流辺の腕を大地へ縫い付けている。黒の暗泥を自在に操れる熟練した吸血鬼にのみ扱える秘技「黒の暗鋼ダークマター」。黒の暗泥を瞬時に圧縮、硬化させ鋼の硬度を生み出す驚異的な能力だ。

「き、貴様……!?」

「死ね」

 断罪の一言と共に、四方から生み出された無数の針が容赦なく鵜流辺を襲う。腕を固定された鵜流辺には、鋼鉄の処女アイアンメイデンの犠牲者と同じ末路しか残されていない。

「ガァァァァァァァァ!」

 苦悶に満ちた絶叫が、大気を震わせた。

 噴出した呪われた狼の血が、一瞬黒の暗鋼の動きを鈍らせる。

「……しぶとい狗だ」

 憮然とした表情を、メティスは死の罠から逃げおおせた隻腕の鵜流辺へ向けた。串刺しになるよりも一瞬早く、鵜流辺は右腕を左手の手刀をもって切断したのだ。その冷徹な判断が、からくも鵜流辺を生きながらえさせた。

 鵜流辺は何も告げぬまま、綾也に怒りと屈辱に塗れた一瞥をくれてから、暗闇の中へと姿を消した。メティスを敵わぬ相手と見て、執着を断ち切り逃走したのだ。

「逃がしましたか……」

 悪態をつきながら、メティスは戦闘体勢を解いた。展開されていた黒の暗泥が、音を上げ、引き潮のように彼女の体に飲み込まれていく。

「立てますか、緋森」

「あ、ああ」

 名を呼ばれ、綾也は柄にもなく放心していたことに気が付いた。スラックスを払い、よろめきながら何とか立ち上がる。

 助かったのだ。信じられないことだが九死に一生を得たのだ。

「ふぅ……。助かったよ」

「お互い様です。貴方達の力が無ければ、ライア様をお救い出来なかった」

「メティスさん……」

 へたり込んだままのライアは、まだ放心から醒めていないようだった。熱に浮かされたような表情のまま、じっとメティスを見つめている。

「私は……助かったの?」

 恐る恐る投げかけられるライアの問いに、メティスは優しげな笑みを浮かべ、

「ええ、「緋森」の一族と、「双頭の魔犬」によって」

 主君の無事を喜ぶ部下、そして自分の無事が今も信じられない少女。光景としては微笑ましい場面だったが──ライアとメティスのやり取りに、綾也は小さな違和感を覚えた。

 確かに、ライアの救出に綾也も、ガウルも大きく貢献した。最終的にはメティスの力が大きかったわけだが、謙遜の意も込めての言葉なのかもしれないが……。ライアの言葉の持つ重みには、何か深い意味があるように思えて仕方なかった。彼女が更に強固な、鉄鎖に繋がれているかのように。

 この二人には何かある。

 二人の間に横たわる問題に、部外者の綾也が口を出せる余地があるとは思えなかったが、その直感に従って、綾也は口を開いていた。

「ライア、メティス。吸血鬼の君達には鬱陶しい話だろうが、僕にも一応立場がある。上司に事のあらましを説明しなくちゃならないんだが、悪いんだけど、僕に付いて来てくれないか?」

 綾也の言葉に、二人は顔を見合わせた。不安げなライアと、何かを黙考するメティス。やがて、メティスが静かに告げた。

「丁度良かった。私達も貴方達に、特に「双頭の魔犬」に用があります」

「……ガウルに?」

「ええ、私達はその為に、日本に来ましたので」

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